「だ、旦那様! 旦那様、大変です!」

 シャンデリアが灯るホテルの天井に声が跳ね返る。何事かと他の客の目を惹きつけてしまうけれど、髪を振り乱しながら二人のもとへ駆け寄った。

 「な、何なんだお前は!?」

 突然の闖入者に目を丸くした男爵は、がたりと立ち上がる。

 「わたしは男爵家の女中でございます。間もなく奥様がここへいらっしゃいます!」
 「はあ!?」
 「何ですって!?」

 目をひん剥いて叫んだ二人に対して、私はわざと肩と声量を落として囁いた。

 「旦那様。奥様にはこの浮気、バレておりますよ」

 ひっ、と悲鳴を上げたのはどちらだったのか。

 「……バ、バレてるってホントなの?」

 桃代が眉根を寄せて恐る恐る尋ねてきたから、こくりと深く頷いた。

 「そんな、まさか。あの女は華族の名誉と仕事だけしか興味がないはずだ。女のくせにでしゃばりやがって。わしは桃代と愛を育んでいるのだ。それすらも邪魔をするのか」

 邪魔だなんて、よく言えたものだわ。奥様の気持ちを知らないで! 遊んでばかりで口の悪い男爵にカチンとくる。

 「こんなところで堂々と浮気をして醜聞でも広まったら、男爵家の沽券にかかわりますよ。もし子どもなんてできたら……」
 「ホテルで騒いだのはお前だろう!」

 吠えた男爵が私の胸倉をつかむ。まずい。視界の端で男の手が上がったのが見えて、衝撃に備えて身を固くした。

 「あーあ。やめやめ」

 瞬間、場にそぐわない気の抜けた高い音で、男爵の動きがぴたりと止まった。

 「桃代……?」
 「こんなおっさん相手にしてらんない」
 「桃代!?」

 うっとおしそうに前髪をかき上げて、桃代が首を傾げて胸の前で腕組みをした。

 「な、なぜそんなことを言うんだ、桃代」

 眉をハの字に下げて迷子のような表情をした男爵は、私を力なく突き放した後、ふらふらと桃代に追いすがった。

 「奥様にもうバレてちゃんたんでしょ? あたしは子どもができてからバレたかったんだよね。そうすればあたしも華族の一員になって贅沢な暮らしができたでしょ。でも、ここでバレちゃったら華族の一員にすらなれないじゃない」
 「桃代。わしはお前と終わりたくない! 桃代、お前が望むならわしは……」

 情けない野太い悲鳴が上がる。桃代が虫けらをみるような視線で男爵を見下した。

 「奥様と離婚するなんて言わないでね」
 「え……」
 「あたしは華族の家の仕事なんてこれっぽっちもする気はないわ。ホント、面倒くさい。おっさんに頑張って媚びたのに、結局子どももできなくて」

 はあと大仰に溜息を吐いた桃代の言葉にむかっ腹が立ち、つい口を挟んだ。

 「子どもをダシにしないで。子どもは大人のお人形じゃないのよ」
 「うるさいわね。あんたも庶民なんだから、華族になりたいって思うでしょ! 旦那様、あたしはもう鈴木の屋敷を去るわ。さようなら」
 「桃代!」

 腕に縋った男爵を振りほどき、ふんと鼻を鳴らした桃代は肩を怒らせてホテルを出て行った。あらぁ、呆れるほどあっさりと別れたわね、と残された男爵をちらりと見るとわなわなと身体を震えさせていた。

 「お、お前のせいで!」

 唾を飛ばしながら吐き捨てられる言葉とともに、醜い鬼のような形相が目に飛び込んでくる。ひゅっと喉が鳴って後退されば、男爵がドンと床を足で踏み鳴らした。あ、これは本当にまずい。

 「お客様、騒ぎは困ります!」

 思いもよらない男性の大声にぎょっとして振り返ると、ホテルの制服を身につけた男性従業員たちがバタバタと駆け寄ってきた。突然現れた従業員たちに驚いたのは男爵も同じだったようで、抵抗もできず羽交い絞めにされていた。

 「は、離せ!」
 「先ほどから他のお客様のご迷惑になっております。こちらへ来ていただきましょうか」
 「や、やめろ!」
 「……さあ、あなたは今のうちにホテルの外へ」

 従業員の内の一人が私を背にかばい小声で教えてくれる。私も小声で感謝を伝えるとこれ幸いとホテルを後にした。男爵のことはホテルの従業員が人気ホテルの名に懸けて、なんとかしてくれるだろう。
 あー、緊張した! この仕事は何度やっても慣れない。最後は少し危なかったけれど、終わり良ければ総て良しだ。互いに熱を上げていたはずの二人は別れたから、奥様の憂いもきっと無くなるだろう。仕事は完了したし、すぐにこの場所を離れよう。
 私は優美なホテルを振り返らずに、元来た大通り沿いを小走りで行く。ふっと力が抜けた身体は軽かった。仕事終わりの軽やかさは悪くなかった。