運命をねじ曲げる力があれば、どれほど良かっただろうか。
タタタタン、タタタタン――
二駅先の目的地へと向かうため、早めに仕事を切り上げたわたしは市電に乗車した。葉山から出てきて半年。やっと市電にも乗りなれてきたと思う。
車窓から見える帝都の夜は、田舎の真っ暗さと比べて街灯に照らされて明るい。
そこに映る私はいつものカフェーの仕事着ではなく、鈴木男爵家から借りた着物と前掛けを身につけて長い髪をひっつめている姿だ。男爵家の女中に扮したのだけど、女中姿は随分と久しぶりだった。正体がばれる訳にはいかないので、詠子さんから化粧品を借りてそばかすまで描いる。
あれから十日が経ち、わたしは別れさせ屋の依頼を決行しようとしていた。実は詠子さんに預けている。きっと美味しい夕ご飯でも食べさせてもらっているだろう。
やがて市電は停留場に到着した。さっと降りて街灯が照らす大通り沿いを小走りに行けば、ほわりと夜の風景から浮かび上がる白い洋風の建物が迫ってくる。
「ここだわ」
建物の近くで足を止めて見上げれば、詠子さんに教えてもらった玄関口のアーチ型の屋根が目についた。間違いない、ここは帝都で人気のホテル翡翠楼だ。
物陰からそっと覗くと、ドレスや燕尾服で着飾った紳士淑女が次々と吸い込まれていく。奥様の言った通り、今夜はこのホテルで夜会が行われるようだ。
「さすがホテル翡翠楼。庶民とは縁遠い場所ね」
ほぉと溜息を零れた。女中姿では浮きそうだけど、平々凡々な私の容貌は溶け込みやすいようで大丈夫だろう。この仕事が意外に上手くいくのは自分でも驚きだ。
カフェーの裏稼業であるこの仕事を手伝い始めたのは、詠子さんに会ってすぐ。女子供だけで暮らしていくには世知辛い世の中で女給として雇うだけでは心もとないからと、詠子さんの信条のもとに始められた仕事を手伝うことになったのだ。
依頼は毎日舞い込んでくるわけではない。日々穏やかに過ぎていく中で、時折するりと挟まる。人の悩みをぐっと抱えて。
「見て、旦那様。素敵なホテル!」
ホテルに見惚れていると若い女性の甘ったるい声が響いた。
あわわ、しまった、隠れないと。慌てて正面玄関の柱に近づき身を隠した。声の主を確かめたくてちらりと柱から覗き込む。
「桃代、ホテルは初めてかい?」
「もちろんですわ。旦那様」
桃代って言った? 明らかに場慣れしていない声。そこには正装して髭を蓄えた中年の紳士とドレスで着飾ったかわいらしい若い女性がいた。すぐにもらった写真を出してそこに写る人物と見比べる。
「……鈴木男爵と桃代だわ」
心臓の音が駆け足になり、ごくりと生唾を飲み込む。思った以上に早く対象者が見つかった。
「ドレスを着て、素敵なホテルの夜会に参加できるなんて夢みたい。さすがは旦那様だわ!」
「わしもかわいい桃代と参加できてうれしいよ。きっと周りが羨ましがるだろう」
「うふふ。旦那様、早く踊りたいわぁ」
「そうか、そうか」
あらら、鼻の下伸ばしちゃって。脂下がった表情の男爵は、女中とは思えないほど華美に着飾った桃代の腰を抱いて、ホテルの正面玄関をくぐった。
あれが奥様の夫。理性的で厳格な雰囲気を持つ奥様とは対照的に、本能に忠実で己に甘いだろう男爵。これは雪江さんが口を滑らすはずだわ。雪江さんも同じ女中として我慢ならなかったのだろう。
二人の姿を見失わないように視線は外さず、私もそろりと正面玄関をくぐった。庶民とは縁遠い華やかで上品な香りが鼻をくすぐる。正面玄関の先は豪奢なロビーが広がり、ぽつぽつとまだらに客が寛いでいた。
素知らぬふりをして二人を追いかける。すると二人は整然と設置された優美なソファの一つに並んで腰掛けた。すぐに二人がよく見える壁際にひっそりと陣取り、静かに観察した。
「夜会の時間はまだだから、ここでゆっくりしよう」
「はーい。旦那様ぁ、ここのホテルに泊まってみたいなぁ」
「おお、泊まってみたいか。そう言うと思ってもう部屋を取っているぞ。わしと熱い夜を過ごそうか。いいだろう、桃代?」
「うふふ、旦那様ったら。もちろんよ。桃代も楽しみ」
上目遣いでしな垂れかかる桃代を欲望が灯った双眸で見つめる男爵は、皺のある分厚い手で桃代の華奢な手をにぎにぎと握った。それを見てぞわりと鳥肌が立った。
……うん、立派な浮気だ。この夜、二人の間で何が起こるかなんて明らかだ。奥様、よく我慢されたよね、あの寂しさを飲み込んで。思わず遠い目をしてしまう。
まさか二人は誰かに見られているとは思っていないだろう。二人だけの世界は今だ繰り広げられているし、きっと疑いもなく続くものだと思っているに違いない。
その運命は捻じ曲げられてしまうのに。
私は胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。


