「だめだ。行かせない」

 ふいに艶めいた低音が潮風に乗って耳に届いた。その音の持ち主が脳裏に浮かび、心臓の鼓動がひと際強く響いた。
 まさか。
 ゆっくりと振り向くと、きりりとした目元の精悍な顔立ちが印象的な、背の高い体格の良い男性がいた。

 「……本多さん」

 目を見開いてじっと見つめた。金縛りにあったように身体が動かない私のもとへ、ザクザクと砂を鳴らして本多さんが近づいてくる。

 「今日病院に寄ったら、八重に似た女性が歩いているところを見たんだ。嫌な予感がして看護婦に聞いたら、八重が病室にいないと大騒ぎになってな」

 あっという間に本多さんが隣に並び、私の顔を覗き込んだ。

 「もしかしたら、ここにいるのかもしれないと思って来たんだが。正解だったな」
 「どうして……」
 「八重、君を探しに来たんだ。君の大切なお嬢様のもとへは行かせない」

 強い視線に射抜かれて、耐えられずに私は目を逸らした。

 「……実を一人にする気か」

 呟かれた言葉に胸が詰まる。実のことを想うと身が引き裂かれそうになる。私に幸せをくれた大事なあの子。でも、もう私である必要はないのだ。

 「実は私が産んだ子ではありません。実は庶民ではなく華族の血筋。黒川侯爵夫妻が孫に会いたいとおっしゃっていると聞きました。私の役目は終わったんです」
 「そんなことない。実には八重が必要だ」

 腕をぐっと掴まれて痛みに顔を顰めたけれど、何度も何度も首を横に振った。

 「もう私は必要ないんですよ、本多さん。私は……私は、もうどうすればいいのか、わからないんです」

 影がひたひたと迫ってくるようで足が竦む。胸が痛くて苦しくて、鼻の奥がツンとした。目尻から零れてくるものを、目をきつく瞑って懸命に耐える。

 「八重」

 名を呼ばれた瞬間、掴まれていた腕を強く引かれた。あ、と思ったのもつかの間、本多さんの温かな胸に抱き込まれていた。本多さんの品のある香りが私を包む。

 「どうすればいいのか分からないのなら、俺と一緒になってくれ」

 抱きしめられた腕の中で、くぐもって聞こえてきた声。

 「俺は八重と夫婦になりたい。実も一緒に家族になりたい」

 その言葉が耳の奥を揺らし、遅れて脳が理解する。心臓がとくんと跳ねて息を飲んだ。
 本多さんは何て言った? 私は呆然としながら恐る恐る顔を上げた。

 「嘘……」
 「嘘じゃないさ」
 「だって……私はただの庶民で、監視対象で」

 本多さんは華族で、警官で。自分たちには壁があるのだと暗に告げると、本多さんは眉尻を下げて苦笑した。

 「身分なんて関係ない。それに監視は……ただの口実だ。俺が八重の近くにいたかったから。俺自身、公私混同をするとは思わなかったがな」

 バツが悪そうに目を逸らしたけれど、逸らしたせいで耳殻が赤く染まっているのを見つけてしまった。また心臓がとくんと跳ねた。この人は、ちゃんと本音で話してくれている。

 「でも、どうして私なんか……」

 ただの平凡な女給に惹かれる要素なんてどこにあるのか。女性の目を惹く容貌の持ち主である本多さんなんて、選り取り見取りだろうに。

 「私なんかなんて言わないでくれ。八重の実を育てる立派な姿を尊敬しているし、愛情深く人と接する姿に、俺も八重の愛に触れたいと思ったんだ」

 頬に手を添えられて目線を合わせられる。真摯なでもどこか熱っぽい双眸に、心臓がどくりと大きく動いた。その熱はじわじわと頬に広がる。

 「八重、俺と一緒になるのは嫌か?」
 「嫌だなんて、そんな……」

 そんなわけ、ない。
 だって、だって。
 本多さんが、好き。
 あなたに呼ばれる私の名前がどれだけ特別な響きがあるかなんて、あなたは知らないでしょう?

 「改めて言うよ。八重、俺と結婚してくれ」

 告げられた言葉に心臓がうるさいほど高鳴る。生まれた熱は細胞や神経を通じて、じわじわと身体全体に行き渡っていき、目尻に熱いものが溜った。
 あなたは何も持っていない私に、新しい幸せを贈ってくれる。それが私にとって、どれほど嬉しいことか。これからはその幸せを精一杯抱きしめたい。

 「……はい。よろしくお願いします」
 「ありがとう、八重!」

 破顔した本多さんに強く抱きしめられた。背中に回された腕で互いの身体がぴったりとくっついて、息もできない。でもその苦しさが特別だと言われているようで、こらえきれずに目尻から涙が零れて本多さんの肩を濡らした。

 「八重、泣かないで」
 「だって、本多さんにそう言ってもらえるなんて思ってないし」
 「だめだよ、八重」

 身体を少し離して、ぐいっと目元を拭われながらなぜか叱られた。

 「君も今後は本多になるのだから、俺を正宗って呼ばないと」

 うっと喉を詰まらせて、おずおずと本多さんを見上げた。彼の瞳は期待しているようで煌めいている。すっと息を吸って、大事に大事に言葉にした。

 「……正宗さん」

 彼は眉尻も目尻も下げてはにかむように笑った。

 「八重に名前を呼ばれるのは心地いいな。ずっと実が羨ましかったんだ」

 まさか子どもに対してうらやましいと思っているとは思わなかった。随分可愛らしいことを言うのだと、思わずふふ、と笑ってしまった。

 「正宗さん。これからよろしくお願いします」
 「もちろんだ、八重。これからやることがたくさんあるぞ。帝都に家を買いたいし、一緒に住む準備もしたい。実の尋常小学校入学を一緒に準備したいし……それに」

 言葉を区切って耳元に唇を寄せられた。

 「実に兄弟を作ってやりたい」
 「きょ……!?」

 瞬間、腹の底から熱が駆け上がり、りんごのように顔が真っ赤に染まったのがわかった。

 「はは、可愛いな。八重。俺の奥さん。俺だけの」

 正宗さんの真剣で、どろりとした熱を持つ瞳で射抜かれた。

 「愛している、八重。俺のために生きて」

 端正な顔が近づいたかと思うと、唇が重なっていた。
 その唇の熱さに応えるように瞼を閉じる。
 ざざん、と砂浜へ打ち寄せた白波の音が、祝福してくれているかのように耳に届いた。