目覚めてから数日後、療養しながらも事情聴取を終えた。
 体調は回復したけれど、お医者様からはまだ数日の入院が必要らしい。だから私はまだ病室で過ごしていた。
 少しの時間だけ散歩は許されていて、少し肌寒いからと自宅にあった外套を詠子さんが持ってきてくれた。暖を取るにはちょうどいいのだけど、本多さんの外套なのがなんとも言えない。玄関においてあったから手っ取り早かった、と言っていたっけ。

 「おはよう、お母さん。元気になった?」
 「おはよう、実。元気になってきたよ」

 にこにこと笑顔の実は今日もお見舞いに来てくれた。毎日欠かさず足を運んでくれる実は、詠子さんに連れられて午前中にやってきて、カフェーが開店する時間までには去っていく。実は毎日あったことをあれこれ話してくれる。随分言葉を覚えたなと少し離れているだけなのに成長を感じた。
 実は詠子さんと一緒に暮らせている。本多さんも忙しい中時間を割いて、実に会いに行ってくれているらしい。私がいなくても実を守ってくれる存在が増えた。
 カフェーも玉緒さんが女給として入ってから、星占いという売りはなくなったが、女優のいるカフェーとしてしっかり売上が上がっているようだ。迷惑をかけずほっとしている。心配事は拭われた。

 それは喜ぶべきことだ。
 そう、喜ぶべきことなんだ。

 「お母さん。蕗さんからお手紙が届いていたよ」
 「え、蕗さんから?」

 小さな手から封筒を手渡される。宛名は詠子さん宛。蕗さんと詠子さんが知り合いで、蕗さんから訪ねるように言われたのは詠子さんのことだった。
 身を隠している手前、蕗さんには帝都の住所を伝えておらず、無事と近況を伝える手紙はもっぱら詠子さんを通してやり取りしていた。

 「八重。手紙を渡したわよ。蕗さんに返事を送るならまた渡して」
 「はい。ありがとうございます」

 お礼を告げればちょうど面会時間が終わる。もうそんな時間か。

 「お母さん、また明日ね」
 「気を付けて帰るのよ」

 今日も手を振る実を見送る。ばたんと病室の扉が閉まった。午後からは一人ぼっちだ。
 一人になった病室で渡された封筒を開けた。

 「蕗さんからの手紙なんて久しぶりだわ。お元気なのかな」

 封筒から手紙を取り出して、流暢に書かれた手紙に目を通した。
 文字を追って、追って。最後まで読めば手紙を持つ手が震えて、胸がいっぱいになった。

 「あ……」

 ほろりと目尻から涙が零れ落ちる。それは手元の手紙を滲ませた。ほろりほろりと涙は何度も手紙を滲ませる。
 ぐしゃり、と感情のまま手紙を握った。
 シーツを捲ってベッドを下りて下履きを履く。病室にかけていた外套を羽織って、隠しに手紙を突っ込んだ。備え付けの箪笥に近づき、引き出しからなけなしのお金が入った財布を引っ掴む。それも隠しに入れて衝動的に病室を出た。

 帰りたかった。私たちがいたあの場所へ。

 病院の目を盗んで鉄道の駅へ向かった。
 蕗さんからの手紙には黒川侯爵家の近況が書かれてあった。
 黒川侯爵家に月子お嬢様の死因が伝わったそうだ。自殺ではなく他殺。そして犯人は逮捕された。その情報はお嬢様が亡くなって以来不穏な空気を拭えなかった侯爵家に、安堵が広がったそうだ。
 それよりも私が驚いたことは、旦那様と奥様がお嬢様のことで随分と落ち込み、涙を流されたという話だ。月子お嬢様を追い詰めたのはきっと自分たちだった、と。
 お嬢様に興味のなかった旦那様と奥様が、心を痛めることになるとは。

 お嬢様、月子お嬢様!
 お嬢様への愛情を旦那様と奥様はお持ちでしたよ!

 その文章は私の胸を震わせて目頭が熱くなった。
 良かった。本当に良かった。まるでお嬢様の無念が晴らされたようで、胸が熱くなった。
 手紙には孫にあたる実にもぜひ一目会いたいとおっしゃっている、と書かれていた。
 帝都の中心地にある鉄道の大きな駅舎に足を踏み入れ、いよいよ列車に乗る。目的地は故郷である葉山だ。逗子方面へは鉄道に揺られて一時間半かかる。
 無理をして来たためか身体が重たい。ホームに滑り込んできた列車に乗車した後は、座席に座るも列車の壁に身体を預けて、目的地到着まで目を閉じて身体を休めていた。

 病院を飛び出してから移動時間は優に二時間を越え、ついに故郷へ帰ってきた。
 逗子駅を出ると乗合馬車が停車していて、半年前、実とこの地を出た時に一緒に乗ったことを思い出して目を細めた。
 乗合馬車に乗り自宅に帰ろうかとも思ったけれど、せっかくだから周辺を歩くことにした。帝都と違い建物が少なく長閑な風景は、半年離れていただけなのに胸に迫るものがある。
 ぼんやりとしながら懐かしい道をのんびりと歩いていると、分厚い雲間から差し込む細い陽射しを飲み込んだ海が目に飛び込んできた。

 「わあ、海だ」

 遠くに見える淡い水平線に、翡翠色に似た透明感のある海。帝都に行ってから海を目にすることはなかった。
 懐かしくなって砂浜まで下りていく。歩くとシャクシャクと砂が鳴って少し沈む感覚が足に伝わった。ざざん、と乳白色の泡立った波が砂浜へ打ち寄せ、顔を上げると吹き付ける潮風が私の髪を靡かせた。

 「懐かしい。お嬢様と一緒によく海へ来たっけ」

 月子お嬢様に仕える日々はきらきらと煌めいていて、それはもう楽しかった。実が生まれて家族になって、より一層輝きが増した。
 けれども、気づいてしまった。
 復讐は遂げられたのかもしれない。でも、私には何も残っていないのだ、と。
 華族の血筋である実はおそらく祖父母が迎えに来るだろう。カフェーの仕事も人が足りているだろうから、自分がいなくても問題はない。
 いつの間にか、私は幼い頃と同じように、また一人になった。

 「月子お嬢様……私はこれからどうすれば良いのですか」

 足元から何かが崩れていくようで、喉がじわじわと絞まっていき、上手く呼吸ができない。
 水平線の向こうにあるかもしれない幽世に行けば、お嬢様に会えるだろうか。
 ざざん、と砂浜へ打ち寄せた白波の音が、鼓膜を揺さぶった。

 「……お嬢様。私、お嬢様のもとへ行きたい!」

 揺蕩う青が私を呼ぶ。
 瞼を閉じれば、お嬢様の月のような柔らかな微笑みが浮かんだ。その微笑みに誘われるように、一歩一歩、波打ち際に近づいた。