「ええ。女性の地位向上の希望の星ですから」
 「私もあなたのことを知っているのよ、浅田様。男爵家の出身なのに女性解放運動をされていると聞いているわ。別れさせ屋をしているのはその一環かしら」

 奥様がちらりと視線を向けた。その視線を追うと店に飾っている西洋画の聖母子の絵画にぶつかった。柔らかな光の中で聖母マリアが幼子イエスを大きな愛で優しく抱いている。

 「ええ。女性向けの駆け込み寺のようなものが少ないでしょう。女性はもっと自由に羽ばたき、社会的地位はもっと上がるべきなのです。女性の解放の一助になればと行っているのですよ」
 「それで別れさせ屋なのね。面白いわ」
 「女性の現実に直接手を差し伸べなければ、ただ運動をしても何も変わりませんわ」
 「見事な現実論者ね。では私の現実を変えてくれるのはどなたかしら?」
 「こちらの八重が」
 「島村八重と申します」

 詠子さんに紹介されて、ぺこりと会釈をした。奥様からすぐに品定めをするような視線が飛んでくる。その鋭い視線はやっぱり背筋が粟立つ。

 「あなたが……若いのね」
 「八重はまだ二十歳ですが、仕事はきっちりとこなしてくれますよ。それは雪江さんで証明されていると思いますが」
 「そうね。でも、カフェーの女給をやっているくらいだから、すでに帝都で顔を知られているのではなくて? 相手に気づかれては困るのだけど」
 「ご心配なく。彼女は逗子の出身で帝都に出てきて半年ほどですから、帝都には知り合いがほとんどいません」
 「なぜ帝都に?」

 片眉をぴくりと上げて訝しむ奥様に内心怯えながら、恐る恐る口を開いた。

 「それは……息子の父親を探しに来たのです。帝都に行ったっきり連絡が途絶えているものですから」
 「まあ。あなたも夫で苦労をしているのね」

 軽く目を瞠った奥様は、私に初めて同情のような共感のようなものを向けられた。

 「あちらに八重の息子の実ちゃんがいるんですよ。八重は息子を女手一つで育てようと頑張っていましてね。知り合いの紹介もあり事情を聞いて私の下で働いてもらっているのです」

 詠子さんの視線に誘われるように奥様が実を目にとめた。玉緒さんと一緒に過ごしている実はご機嫌で、小さな口をもぐもぐと動かしていた。良かった。まだお利口さんに待ってくれている。

 「あの端正な顔立ちの子ね。いくつなのかしら?」
 「はい。四歳です」
 「そう」

 私から実の歳を確認した奥様はじっと私を見つめた。

 「では成功報酬も出しましょう。成功報酬は八重さんに」
 「え!?」

 思いがけない提案に目を丸くした。依頼料が三倍の上に成功報酬までとは気前が良すぎる。依頼料は詠子さんと分けることになるけれど、それでもいつも以上に稼ぎが増える。

 「成功報酬は息子さんのために使って」
 「そんな、申し訳ないです」

 毎日の生活のため、実のためにお金は必要だ。だけど、私なんかのためにそんなにいただてしまうなんて。そう思うときゅうっと胃が痛くなる。

 「断らないで。そうね……より良い仕事をしてもらうためよ」

 凛とした音で告げられて、うっと喉が詰まる。そう言われては断ることはできない。それに、これは暗に確実に遂行せよという意味も含まれていることに気づいてしまった。

 「ありがとうございます。奥様の望みを叶えるため全力を尽くします」
 「ありがとう。お願いね、八重さん」

 はい、と返事をして頭を下げた。

 「でもね、無謀なことはしないでちょうだい」
 「気になさらないでください。私なんて些末なものですから」
 「もう、八重。自分を軽く扱わないでちょうだい」

 隣からモダンな眉をしかめて窘める声が飛んできた。

 「鈴木様。帝都はこのところ物騒です。何かあればお力添えを」
 「そのくらいかまわないわ」

 ありがとうございます、と感謝を口にした詠子さんがほっと溜息を零した。詠子さんは私を気にかけてくれる。けれど時折苦しくなる。些末な私なのに。

 「では鈴木様。さっそく具体的な話を進めたいのですが、いつ頃決行してほしいのでしょうか?」
 「そうね……十日後かしら」

 仕事の具体的な話が始まり耳を傾ける。詠子さんの質問に奥様が明確に答えた。

 「夫が知り合いの夜会に参加するらしいの。おそらく浮気相手の女中も連れて行くと思うわ。場所はホテル翡翠楼。夜九時から始まるらしいから、それより前には会っているでしょうね」

 庶民の私でさえ知っている帝都で人気の洒落た高級ホテルだ。確かここから市電で二駅ほど行った大通り沿いにあったはず。

 「十日後だけどできるかしら?」
 「大丈夫ですわ。ね、八重」
 「はい、大丈夫です。あの、ご当主と女中の写真はありますか? 姿を確認したいのですが」

 詠子さんに返事をした後に私がおずおずと聞くと、雪江さんが二枚の写真をテーブルに差し出した。一枚は髭を蓄えた恰幅の良い男性。もう一枚は耳隠しの髪型をした小動物のような可愛らしい若い女性の写真だった。

 「この子の名前は桃代なのぉ。屋敷の中でも若い女中で、旦那様にやけに気に入られていたわねぇ。本当は夜会なんて奥様を連れていくべきなのに。奥様のお気持ちも知らないで」

 雪江さんがおっとりと告げるけれど、棘を隠さない言い方だ。奥様の気持ち……どうしても最後の言葉が引っかかって奥様をじっと見つめる。

 「これでもね、あの人に情はあるのよ。元に戻したいと思うことはいけないことかしら」

 ふっと息を吐いて目を伏せた奥様から、今まで見えなかった寂しさが浮き出たような気がして、胸がじりじりと痛くなった。

 「いいえ。奥様の気持ちは当然だと思います。全力を尽くしますから」
 「ありがとう。それで他に何か必要なものはあるかしら。手配するけれど」

 気を取り直した奥様の言葉に、私は少し考え事をしてから一つお願いをした。

 「では、鈴木家の女中だとわかるものをお借りしてもよろしいでしょうか?」
 「わかったわ。決行前に雪江に持って行かせましょう」
 「八重さん。任せてよぉ」
 「お願い致します。それでは十日後に決行させていただきます」
 「お願いね。色よい返事を待っているわ」

 凛とした奥様の声にこくりと頷いた。