「登美子は大井に目をつけられていた女性の一人だったようだ。偶然、登美子がホテルにいたところに大井が接触して、弱みに付け込まれた挙句手のひらで踊らされたようだな」
弱み、か。登美子さん自身が言っていた、本多さんとの婚約の可能性がなくなったことにあるんだろう。本多さんは知っていたのだろうか。
「登美子とともに行動していたならず者の二人は、大井が雇っていたこともあり、すぐに逮捕した。登美子は加害者でもあったが、大井に手を下され重体になった被害者だ。逮捕は見送られた。この病院で治療を受けた後、両親の希望で今は別の病院で入院している」
「一命を取留めたんですね。良かった」
「良かったと言うんだな、八重は。あいつは君たちに酷いことをしたのに。しかも結ばれるはずもない婚約の件で君に逆恨みもして。俺は許していない」
婚約の件もしっかりと把握していたらしい本多さんは、腕を組んで口を真一文字に引き結んだ。
「本多さんが代わりに怒ってくれているなら十分ですよ」
登美子さんの気持ちがわからなくもないが、実が無事だったこともあり、あの人に関わってしまったことで十分に罰を受けていると思うのだ。
「それから、八重に捜査上必要な事実を確認させて欲しいのだが」
「はい」
改まって何を聞かれるのだろうかと小首を傾げた。
「まずはすでに亡くなっている侯爵令嬢の黒川月子との関係だ。黒川家で月子の専属女中をしていたのは本当か?」
呼吸が少し浅くなる。お嬢様との関係性をやはり聞かれてしまうか。避けては通れないのだろう。胃がわずかに縮まった。
「はい。そうです。私のお嬢様でした」
そう言えば、本多さんの目はわずか細まった。
「大井伸隆と黒川月子は恋人関係だったのか」
「はい、その通りです。でも、あの人の婚約が決まってからは別れていました」
「そうか」
正直に伝えると本多さんは組んだ腕の上で、考えるように指をとんとんとんと叩いた。
「これは推測なのだが……侯爵令嬢である黒川月子の服毒自殺。あれは大井が仕組んだことだと思うか?」
こちらを気遣ってか、少し言いにくそうに言った本多さんが、私をじっと見つめた。
「思うどころか、あの人が自ら手をかけたと言っていました。お嬢様に贈ったチョコレートに毒を入れて」
本多さんが息を飲み、目を見開いた。ただ事実を口にしただけなのに、まだ自分の中で消化はできていないのか、腹の底がぐるりと黒い靄が這いずった。
「そうか。それは有益な情報だ。ありがとう、助かる」
「いえ」
「最後に踏み込む様で悪いが、実のことだ」
心臓が一拍強く叩いた。
「実が大井伸隆と黒川月子との子どもだと判明したのだが……本当か」
ぐっと奥歯を嚙みしめた。
もう、隠し通せない。全てが知られてしまった。きっと黒川侯爵家にも知られてしまっているだろう。
自分の手から、お嬢様から与えられた幸せが零れ落ちたような気がして、自分の手でシーツをぐしゃぐしゃに握りしめた。ふっと手の甲に温かみを感じた。本多さんの大きな手のひらが私の手を覆っている。少し力を込められたそれから安心を与えてくれたような気がする。
「その通りです、本多さん。私は月子お嬢様のお願いに沿って育てていました。私が生んだ子どもではありません」
「そうか。言いにくいことを言わせたな。すまない」
本多さんが優しく肩をぽんと一つ叩いた。
「いいえ。必要なことでしょうから。華族の血筋の実を庶民の私が育てているなんて、おかしいですよね」
自嘲気味に言葉を零して目を伏せた。
「そんなことはない。実を立派に育てている」
「私なんて……実を泣かせてばかりですよ」
そう、泣かせてばかりだ。
お嬢様が生きていたら、私がもし華族だったら、実はずっと笑っていたんじゃないだろうか。
「ただいまー!」
ガチャリと開いた扉から、勢いよく実が駆けてくる。
「お母さん!」
「おかえり、実」
実は勢いはそのままに、ベッドのシーツにぽすんと顔を埋めた。
「まだ起きてた!」
「起きているよ、実。詠子さん、ありがとうございました」
にぱっと笑った実の頭を撫でながら、ゆっくりと歩いてきた詠子さんに軽く頭を下げる。
「話はできた?」
「はい」
「すまない。助かった」
「良かったわ。さっきもう面会時間は終了だって言われたのよ」
「ここまでか」
かたりと椅子を鳴らして本多さんが立ち上がる。
「すまないがこれから数日間、事情聴取に付き合ってほしい。もちろん体調も診ながらだが」
「はい。わかりました」
私が頷くと、本多さんは少し心配そうに眉尻を下げた。
「あの、詠子さん」
「どうしたの?」
小首を傾げた詠子さんをじっと見つめた。
「あの、カフェーの仕事、穴を開けてすみません。それから実のことも。これからもよろしくお願いします」
「気にしないで、八重。玉緒さんも働いてくれるようになったし、八重は身体をしっかり治すこと。いいわね」
はい、と返事をすれば、詠子さんは柔らかく口元を綻ばせた。
詠子さんはどこまで事情を知っているのだろうか。今聞かないでいてくれることは、正直ありがたかった。
「さあ、帰りましょうか。実ちゃん」
「えー!」
「あら、わがまま言っちゃうと病院にお見舞いを断られちゃうわよ」
「それは嫌だ」
唇を噛んで俯いてしまった実の頭に、本多さんが優しく手を置いた。
「よし、実。今日は俺と遊ぼう」
「ホント!?」
実がキラキラとした瞳で本多さんを見つめる。
「本多さん、忙しいんじゃ……」
「今日くらいいいさ。ここでしっかり仕事もしたしな」
そう言って、実の小さな手を取った本多さんはゆっくりと手を引いた。
「ほら、実。お母さんに挨拶をしよう。また来るって」
「うん。お母さん、また来るね」
「待っているわ」
「八重、ゆっくり眠るのよ」
「ありがとうございます。詠子さん。本多さん」
ベッドの上から頭を下げれば、最後に本多さんの手が私へと伸びて、優しい手つきでくしゃりと髪を撫でた。
「また来る」
三人は背を向けて病室から出て行った。
ぱたんと病室の扉が閉まり、とたんにしんと静まり返る。
与えられた温もりはすぐに冷えて、寂しさがじわりと肌に這う。自分の腕で自分をゆっくりと抱きしめた。
「寒い、な」
ぽつりと呟いた言葉がやけに病室に響いた。
起こしていた身体をベッドに横たえる。シーツを頭まで被って身体を丸めた。
疲れた。
訪れた薄闇の中、静かに目を閉じた。
弱み、か。登美子さん自身が言っていた、本多さんとの婚約の可能性がなくなったことにあるんだろう。本多さんは知っていたのだろうか。
「登美子とともに行動していたならず者の二人は、大井が雇っていたこともあり、すぐに逮捕した。登美子は加害者でもあったが、大井に手を下され重体になった被害者だ。逮捕は見送られた。この病院で治療を受けた後、両親の希望で今は別の病院で入院している」
「一命を取留めたんですね。良かった」
「良かったと言うんだな、八重は。あいつは君たちに酷いことをしたのに。しかも結ばれるはずもない婚約の件で君に逆恨みもして。俺は許していない」
婚約の件もしっかりと把握していたらしい本多さんは、腕を組んで口を真一文字に引き結んだ。
「本多さんが代わりに怒ってくれているなら十分ですよ」
登美子さんの気持ちがわからなくもないが、実が無事だったこともあり、あの人に関わってしまったことで十分に罰を受けていると思うのだ。
「それから、八重に捜査上必要な事実を確認させて欲しいのだが」
「はい」
改まって何を聞かれるのだろうかと小首を傾げた。
「まずはすでに亡くなっている侯爵令嬢の黒川月子との関係だ。黒川家で月子の専属女中をしていたのは本当か?」
呼吸が少し浅くなる。お嬢様との関係性をやはり聞かれてしまうか。避けては通れないのだろう。胃がわずかに縮まった。
「はい。そうです。私のお嬢様でした」
そう言えば、本多さんの目はわずか細まった。
「大井伸隆と黒川月子は恋人関係だったのか」
「はい、その通りです。でも、あの人の婚約が決まってからは別れていました」
「そうか」
正直に伝えると本多さんは組んだ腕の上で、考えるように指をとんとんとんと叩いた。
「これは推測なのだが……侯爵令嬢である黒川月子の服毒自殺。あれは大井が仕組んだことだと思うか?」
こちらを気遣ってか、少し言いにくそうに言った本多さんが、私をじっと見つめた。
「思うどころか、あの人が自ら手をかけたと言っていました。お嬢様に贈ったチョコレートに毒を入れて」
本多さんが息を飲み、目を見開いた。ただ事実を口にしただけなのに、まだ自分の中で消化はできていないのか、腹の底がぐるりと黒い靄が這いずった。
「そうか。それは有益な情報だ。ありがとう、助かる」
「いえ」
「最後に踏み込む様で悪いが、実のことだ」
心臓が一拍強く叩いた。
「実が大井伸隆と黒川月子との子どもだと判明したのだが……本当か」
ぐっと奥歯を嚙みしめた。
もう、隠し通せない。全てが知られてしまった。きっと黒川侯爵家にも知られてしまっているだろう。
自分の手から、お嬢様から与えられた幸せが零れ落ちたような気がして、自分の手でシーツをぐしゃぐしゃに握りしめた。ふっと手の甲に温かみを感じた。本多さんの大きな手のひらが私の手を覆っている。少し力を込められたそれから安心を与えてくれたような気がする。
「その通りです、本多さん。私は月子お嬢様のお願いに沿って育てていました。私が生んだ子どもではありません」
「そうか。言いにくいことを言わせたな。すまない」
本多さんが優しく肩をぽんと一つ叩いた。
「いいえ。必要なことでしょうから。華族の血筋の実を庶民の私が育てているなんて、おかしいですよね」
自嘲気味に言葉を零して目を伏せた。
「そんなことはない。実を立派に育てている」
「私なんて……実を泣かせてばかりですよ」
そう、泣かせてばかりだ。
お嬢様が生きていたら、私がもし華族だったら、実はずっと笑っていたんじゃないだろうか。
「ただいまー!」
ガチャリと開いた扉から、勢いよく実が駆けてくる。
「お母さん!」
「おかえり、実」
実は勢いはそのままに、ベッドのシーツにぽすんと顔を埋めた。
「まだ起きてた!」
「起きているよ、実。詠子さん、ありがとうございました」
にぱっと笑った実の頭を撫でながら、ゆっくりと歩いてきた詠子さんに軽く頭を下げる。
「話はできた?」
「はい」
「すまない。助かった」
「良かったわ。さっきもう面会時間は終了だって言われたのよ」
「ここまでか」
かたりと椅子を鳴らして本多さんが立ち上がる。
「すまないがこれから数日間、事情聴取に付き合ってほしい。もちろん体調も診ながらだが」
「はい。わかりました」
私が頷くと、本多さんは少し心配そうに眉尻を下げた。
「あの、詠子さん」
「どうしたの?」
小首を傾げた詠子さんをじっと見つめた。
「あの、カフェーの仕事、穴を開けてすみません。それから実のことも。これからもよろしくお願いします」
「気にしないで、八重。玉緒さんも働いてくれるようになったし、八重は身体をしっかり治すこと。いいわね」
はい、と返事をすれば、詠子さんは柔らかく口元を綻ばせた。
詠子さんはどこまで事情を知っているのだろうか。今聞かないでいてくれることは、正直ありがたかった。
「さあ、帰りましょうか。実ちゃん」
「えー!」
「あら、わがまま言っちゃうと病院にお見舞いを断られちゃうわよ」
「それは嫌だ」
唇を噛んで俯いてしまった実の頭に、本多さんが優しく手を置いた。
「よし、実。今日は俺と遊ぼう」
「ホント!?」
実がキラキラとした瞳で本多さんを見つめる。
「本多さん、忙しいんじゃ……」
「今日くらいいいさ。ここでしっかり仕事もしたしな」
そう言って、実の小さな手を取った本多さんはゆっくりと手を引いた。
「ほら、実。お母さんに挨拶をしよう。また来るって」
「うん。お母さん、また来るね」
「待っているわ」
「八重、ゆっくり眠るのよ」
「ありがとうございます。詠子さん。本多さん」
ベッドの上から頭を下げれば、最後に本多さんの手が私へと伸びて、優しい手つきでくしゃりと髪を撫でた。
「また来る」
三人は背を向けて病室から出て行った。
ぱたんと病室の扉が閉まり、とたんにしんと静まり返る。
与えられた温もりはすぐに冷えて、寂しさがじわりと肌に這う。自分の腕で自分をゆっくりと抱きしめた。
「寒い、な」
ぽつりと呟いた言葉がやけに病室に響いた。
起こしていた身体をベッドに横たえる。シーツを頭まで被って身体を丸めた。
疲れた。
訪れた薄闇の中、静かに目を閉じた。


