「八重!」
何事かと首を巡らすとそこにいたのは、肩で息をしながら入室してきた背広姿の本多さんだった。
「あ、まささん!」
「静かにしてくださいな。病室ですよ」
「すまない。さっき看護婦に目覚めたと聞いて、つい」
詠子さんに窘められた本多さんはバツが悪そうにしながら、すぐに私の側までやってきた。強い眼差しで私をじっと見つめた後、ほっと安堵の溜息を零した。
「良かった。目覚めたんだな。八重」
「はい。本多さん。心配してくださりありがとうございます」
「心配するなんて当たり前だ。俺を庇って助けてくれたんだから。本来なら俺が怪我をするはずだったんだ。すまない」
何のためらいもなく真摯に深く頭を下げられた。逆に慌てたのは私の方だ。
「何言っているんですか。私は本多さんが無事で良かったです」
「八重は命の恩人だ。ありがとう、八重。正直言うと、感謝の言葉を伝えるだけじゃ足りないんだがな」
「本多さんたらね、そう言ってこの病室も一人部屋にしたのよ」
「へ?」
詠子さんの暴露に間抜けな声が出てしまった。道理で他の患者さんがいないと思った。一人部屋の病室なんて、畏れ多くて庶民が使っていい部屋じゃない。
「他に何かあれば何でも言ってくれ」
「いえ、この部屋だけで十分ですよ。ありがとうございます」
へらりと笑って躱そうとしたのだけど、本多さんの表情は全然納得していない。とりあえずこの場を切り抜けようと、今一番聞きたかったことを口にした。
「あの、本多さん」
「なんだ?」
「結局事件は……あの人はどうなったんでしょうか?」
私にとってのあの人の最後の記憶は、警官に押さえつけられながらも不敵に笑った姿だ。あの後どうなったのかはわからない。
「そうだな。八重には聞く権利があるな」
本多さんは一つ息を吐くと、ちらりと詠子さんに目配せをした。
「実ちゃん。少しお買い物にいきましょうか」
「お買い物? うん、いいけど……」
ぴょんと椅子を下りて不思議そうな顔をする実は、詠子さんから差し出された手を握った。
「すまない」
「すみません」
「少しの間だけよ。すぐ戻ってくるわ」
私と本多さんが頭を下げると、察した詠子さんが気を利かせて病室を出て行った。
「すみません。気を遣ってもらって」
「いや、実には酷な話だ。それに実は眠らされたせいか、事件に巻き込まれた時の記憶をあんまり覚えていない」
「そう、なんですね」
俯いて唇を噛んだ。結果的には助かったが、小さな実を守り切れなかった。酷な状況下に置かれた実が、恐怖のあまり忘れることで自分を守っているのだとしたら。私はぎゅっとシーツを握りしめた。
「八重、自分を責めるな。忘れているのなら、その方が良い」
「……ありがとうございます」
私の言葉にこくりと頷いた本多さんは、ベッドの傍の椅子に腰かけた。
「事件の結論から言うと、大井伸隆を帝都での連続殺人と殺人未遂で逮捕した。世間は今、大井財閥の跡取りの不祥事で持ち切りだ」
「あの人がやっぱり犯人だったんですね」
あの人は警察に捕まった。現実は彼が死でもって罪を償うのではなく、生きて罪を償うことになったのか。
「でも、どうして礼拝堂に本多さんたちが?」
不思議だったのだ。礼拝堂に都合よく本多さんたち警察が現れたのが。
「話をすると長くなるんだが」
「かまいません」
間髪入れずに答えると、わかった、と短く返事が返ってきた。
「もともと俺は帝都の連続殺人事件を追っていた。所属は警視庁にある華族の事件に関わる上級取締課の刑事なんだ」
「え、刑事さんだったんですか」
「ああ。それで警察署にも協力を仰ぎ、巡査として街を巡回しながら捜査を行っていた」
目を丸くしながらも、なるほどと納得した。警官の制服を着ていない時があったのはそのせいか。今も背広だし、もとの所属の刑事として動いているということか。
「千崎劇場の元支配人である山下も捜査線上に上がって来ていたのだが、連続殺人事件の犯人ではないことがわかった。次に上がってきたのが大井伸隆だったんだ」
「そうでしたか」
「まさか、八重と知り合いだったとは思わなかったがな」
「私もまさかあの人が犯人だなんて思いもしなかったですよ」
本多さんが苦笑いをするも、私も同じ気持ちだったので眉尻を下げた。
「うちの課で大井の行方を追っていた。その状況の中、あの日八重の監視にあたっていた部下から、八重たちが自動車で攫われたと報告が上がってきたんだ」
「あの時も見てくれていたのですね」
「俺は怒鳴りつけたよ。なぜすぐに助けなかったのかとな」
本多さんは憮然として顔を顰めた。私からしたら、監視があったからこそ間一髪で助かったと思うのだけど。
「我々は連続殺人事件と関わりがあるだろうと踏んで、取り壊し予定になっていたあの礼拝堂を突き止めて踏み込んだ」
「それであの人は捕まったんですね」
「事件は解決したが、八重たちを囮のようにしてしまったと言っても過言ではない。すまない」
「囮だなんて。ちゃんとあの人の罪が明るみになったし、私たちは助かりました。本多さんたちのお陰ですよ」
「そう言ってもらえると我々も救われるよ」
結果を得るために、全ての過程で上手くいくとは限らない。それでも本多さんは私たちを危険に晒したことに、納得はいっていないのだろう。目を伏せて、どこか折り合いをつけているように見えた。
「あの、登美子さんはどうなったんでしょうか? それに男が二人いたと思うんですけど」
気になるところはまだある。登美子さんの存在だ。今の話からすると逮捕されていないような気がするのだが。
何事かと首を巡らすとそこにいたのは、肩で息をしながら入室してきた背広姿の本多さんだった。
「あ、まささん!」
「静かにしてくださいな。病室ですよ」
「すまない。さっき看護婦に目覚めたと聞いて、つい」
詠子さんに窘められた本多さんはバツが悪そうにしながら、すぐに私の側までやってきた。強い眼差しで私をじっと見つめた後、ほっと安堵の溜息を零した。
「良かった。目覚めたんだな。八重」
「はい。本多さん。心配してくださりありがとうございます」
「心配するなんて当たり前だ。俺を庇って助けてくれたんだから。本来なら俺が怪我をするはずだったんだ。すまない」
何のためらいもなく真摯に深く頭を下げられた。逆に慌てたのは私の方だ。
「何言っているんですか。私は本多さんが無事で良かったです」
「八重は命の恩人だ。ありがとう、八重。正直言うと、感謝の言葉を伝えるだけじゃ足りないんだがな」
「本多さんたらね、そう言ってこの病室も一人部屋にしたのよ」
「へ?」
詠子さんの暴露に間抜けな声が出てしまった。道理で他の患者さんがいないと思った。一人部屋の病室なんて、畏れ多くて庶民が使っていい部屋じゃない。
「他に何かあれば何でも言ってくれ」
「いえ、この部屋だけで十分ですよ。ありがとうございます」
へらりと笑って躱そうとしたのだけど、本多さんの表情は全然納得していない。とりあえずこの場を切り抜けようと、今一番聞きたかったことを口にした。
「あの、本多さん」
「なんだ?」
「結局事件は……あの人はどうなったんでしょうか?」
私にとってのあの人の最後の記憶は、警官に押さえつけられながらも不敵に笑った姿だ。あの後どうなったのかはわからない。
「そうだな。八重には聞く権利があるな」
本多さんは一つ息を吐くと、ちらりと詠子さんに目配せをした。
「実ちゃん。少しお買い物にいきましょうか」
「お買い物? うん、いいけど……」
ぴょんと椅子を下りて不思議そうな顔をする実は、詠子さんから差し出された手を握った。
「すまない」
「すみません」
「少しの間だけよ。すぐ戻ってくるわ」
私と本多さんが頭を下げると、察した詠子さんが気を利かせて病室を出て行った。
「すみません。気を遣ってもらって」
「いや、実には酷な話だ。それに実は眠らされたせいか、事件に巻き込まれた時の記憶をあんまり覚えていない」
「そう、なんですね」
俯いて唇を噛んだ。結果的には助かったが、小さな実を守り切れなかった。酷な状況下に置かれた実が、恐怖のあまり忘れることで自分を守っているのだとしたら。私はぎゅっとシーツを握りしめた。
「八重、自分を責めるな。忘れているのなら、その方が良い」
「……ありがとうございます」
私の言葉にこくりと頷いた本多さんは、ベッドの傍の椅子に腰かけた。
「事件の結論から言うと、大井伸隆を帝都での連続殺人と殺人未遂で逮捕した。世間は今、大井財閥の跡取りの不祥事で持ち切りだ」
「あの人がやっぱり犯人だったんですね」
あの人は警察に捕まった。現実は彼が死でもって罪を償うのではなく、生きて罪を償うことになったのか。
「でも、どうして礼拝堂に本多さんたちが?」
不思議だったのだ。礼拝堂に都合よく本多さんたち警察が現れたのが。
「話をすると長くなるんだが」
「かまいません」
間髪入れずに答えると、わかった、と短く返事が返ってきた。
「もともと俺は帝都の連続殺人事件を追っていた。所属は警視庁にある華族の事件に関わる上級取締課の刑事なんだ」
「え、刑事さんだったんですか」
「ああ。それで警察署にも協力を仰ぎ、巡査として街を巡回しながら捜査を行っていた」
目を丸くしながらも、なるほどと納得した。警官の制服を着ていない時があったのはそのせいか。今も背広だし、もとの所属の刑事として動いているということか。
「千崎劇場の元支配人である山下も捜査線上に上がって来ていたのだが、連続殺人事件の犯人ではないことがわかった。次に上がってきたのが大井伸隆だったんだ」
「そうでしたか」
「まさか、八重と知り合いだったとは思わなかったがな」
「私もまさかあの人が犯人だなんて思いもしなかったですよ」
本多さんが苦笑いをするも、私も同じ気持ちだったので眉尻を下げた。
「うちの課で大井の行方を追っていた。その状況の中、あの日八重の監視にあたっていた部下から、八重たちが自動車で攫われたと報告が上がってきたんだ」
「あの時も見てくれていたのですね」
「俺は怒鳴りつけたよ。なぜすぐに助けなかったのかとな」
本多さんは憮然として顔を顰めた。私からしたら、監視があったからこそ間一髪で助かったと思うのだけど。
「我々は連続殺人事件と関わりがあるだろうと踏んで、取り壊し予定になっていたあの礼拝堂を突き止めて踏み込んだ」
「それであの人は捕まったんですね」
「事件は解決したが、八重たちを囮のようにしてしまったと言っても過言ではない。すまない」
「囮だなんて。ちゃんとあの人の罪が明るみになったし、私たちは助かりました。本多さんたちのお陰ですよ」
「そう言ってもらえると我々も救われるよ」
結果を得るために、全ての過程で上手くいくとは限らない。それでも本多さんは私たちを危険に晒したことに、納得はいっていないのだろう。目を伏せて、どこか折り合いをつけているように見えた。
「あの、登美子さんはどうなったんでしょうか? それに男が二人いたと思うんですけど」
気になるところはまだある。登美子さんの存在だ。今の話からすると逮捕されていないような気がするのだが。


