さわっ、と衣擦れのような小さな音が聞こえた。それから、かさかさと鳴る木々のさざめき。
 聴覚への小さな刺激に、深い場所へ沈んでいた意識がふっと浮き上がってくる。

 「……あ………さん……」

 今度は柔らかい幼子のような声が聞こえた。すると、ぽすんと身体の右側に小さな重み。それからじんわりと温もりが伝わってきて、触れたところから心までぽかぽかと温かくなる。

 「……お……かあ……ん。きょ……も……たよ」

 その温もりから優しく、でもどこか甘えたような声音が届く。私、この声の持ち主を知っている。静かだった心臓がとくりと一拍打って、生が芽生えたような気がした。神経回路がじわりと動き出し、足先、指先へと指令を送る。ふとその温もりに触れたくなって、右腕をゆっくりと上げ、手のひらでその温もりに触れた。
 すると、ぴくんとその温もりが固まった。

 「お母さん?」

 はっきりと音を捉えた。誰が発したのかも。

 「お……、お、お母さん?」
 「……ぁに? みの、る」

 喉が引き攣ったかのように上手く動かない。それでもいとし子の名を呼んだ。

 「お母さん!」

 大きな声に誘われて、瞼をゆっくりと持ち上げる。視界に映ったのは私を上から覗き込み、大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めた実の姿だった。

 「実」

 掠れた声で名前を呼ぶと、ぐずっと鼻を鳴らす。

 「実」

 もう一度呼ぶと、実の瞳からぼろぼろと涙が零れてぷっくりした頬に伝い、喉をひくりと引くつかせた後、顔をくしゃくしゃに崩した。

 「うわあああああんっ」

 悲しみを爆発させるように大声を上げて、小さな手が私の腕をぎゅっと掴む。言葉にならない熱が肚の底から込み上げて、心臓が痛いくらいに締め付けられた。

 「おっ、母さ、ん……っ」
 「うん」
 「もう、目を……あ、開けな、いかとっ、思った……っ」

 ひっくひっくと喉を引き攣らせて、必死に言葉を紡ぐ。

 「ごめ、ん……ね」

 あやすように小さな身体を撫でる。何度も何度も。それでも泣き止まない。泣かしてしまった。こんなに、悲しそうに。
 この子にどれだけ心の負担を強いてしまったのだろうか。帝都に来てから、実にずっと辛い思いをさせてしまっている気がする。

 「目を、覚ましたよ。実」
 「……お母さ、ん……っ」
 「うん」
 「生きてて、良かったよぉ……っ」

 また鼻をぐずっと鳴らして、ぼろりと大きな雫を零した。

 そうか。
 私、生きているのか。

 幽世でお嬢様と一緒にいた優しい夢を、長い間見ていたような気がする。
 現世に還ってくるとは思わなかった。
 手を伸ばして実の目元の涙をぬぐう。ぷっくりとしたその頬の熱にまた胸が締め付けられた。抱きしめてあげたいのに、上手く身体が動かなかった。
 その時、コンコンと何かを叩く音が聞こえた。ガチャリと扉の開いたような音が室内に響き、靴音とともに誰かが入ってくる。

 「あら、実ちゃん。泣いているの?」
 「あ、詠子さん!」

 実がぱっと振り向く。その視線の先を追うと、少し落ち着いた色の洋服を身につけた詠子さんの姿があった。

 「どうしたの……って、八重!? 目覚めたの!?」
 「詠子さん」

 どうやら私は寝かされているらしい。視線が交わると、詠子さんが目を見開いて呆然と立ちすくんだ。

 「詠子さん! お母さんが、お母さんが!」
 「そ、そうだわ。呼んで来なきゃ。待っていて!」

 はっと気がついた詠子さんは、焦ったように踵を返して室内を出て行った。
 しばらくして詠子さんが連れてきたのは、白衣を着た年配のお医者様と真っ白な看護衣を着た看護婦さんだった。どうやらここは帝都内にある病院のようだ。私は入院中で備え付けのベッドに寝かされていた。
 看護婦さんに手を貸してもらいながら身体を起こした私を、先生はてきぱきと診察する。その間にこれまでの状況を説明してくれた。
 先生の話によると、大井伸隆によってピストルで脇腹を撃たれた私は、すぐに病院に運ばれて処置を受けたらしい。思ったより傷は浅かったが身体の回復が上手くいかなかったのか、五日間ほど眠ってしまっていたようだ。
 その時に実も一緒に病院に運ばれたようだが、こちらは睡眠薬を嗅がされたが身体に別条はなく、翌日には詠子さんと一緒に自宅へ戻ったらしい。ただ母親の私が目覚める気配がなく、実は毎日お見舞いに来ていたようだった。

 「先生、親子ともども見ていただき、ありがとうございます」

 頭を下げれば先生と看護婦さんはにこにこと微笑みをくれた。まだ退院はできませんよ、と釘を刺して先生たちは病室から退出していった。

 「実、お見舞いに来てくれてありがとう。詠子さんと一緒にいたの?」

 ベッドの近くの椅子に座っている実に目線を合わせる。

 「うん。詠子さんの家にいたよ」
 「すみません、詠子さん。ご迷惑をおかけしまして」
 「迷惑なんて言わないで。もう身内みたいなものでしょう。すみませんもいらないわよ」
 「はい。親子ともどもお世話をしていただき、ありがとうございます。詠子さん」

 腰に手を当てて眉根を寄せた詠子さんに、ふふ、と思わず笑みが零れた。詠子さんの物言いを聞くと、日常が戻ってきたようでほっとする。

 「とにかく八重が元気に目覚めて良かったわ」
 「ご心配をおかけしました」
 「本当よ。八重ったら無茶するんだから」

 優しい声音に鼻の奥がツンとする。またこの優しい人に心配をかけてしまった。けれども、この人が傍にいてくれたことで私たち母子はいつも救われた。

 「実ちゃんはずっと良い子だったわよ。それに本多さんも事件の後処理で忙しいのに、様子を見に来てくれていたんだから」
 「本多さんが?」

 その時、バンッ、と勢いよく病室の扉が開いた。