おぎゃあ、おぎゃあ、と盛大に私の腕の中の赤子が泣く。
黒川の別荘とは違う、こじんまりした木造の長屋の一室をあっという間に音で満たす。くしゃくしゃの顔で、この世に生まれてきたのだと大声で自分の存在を主張していた。
「わわ、小っちゃい。かわいい!」
ゆらゆら揺らしながら優しくあやす。まだお父さんと一緒に住んでいた時、近所の赤ん坊を同じように抱いて子守をしていたっけ。
「……ねえ、八重」
「はい。お嬢様」
敷布団に体を横たえて苦し気に呼吸を乱し、青白い顔の月子お嬢様が私を見た。私は赤ん坊を抱いたまま、その側に座って小さな顔をお嬢様に見せる。まだ目が開いていないけれど、きっと母がいると気づいているはずだ。
「ふふ、かわいいわ。お母様はここよ。わたくし、この子を産んで本当に良かった」
お嬢様はほんのりと笑みを浮かべた。初めて見た母の表情だった。
この長屋は葉山にある蕗さんの自宅。そこで極秘裏に出産が行われた。葉山の別荘から黒川の本邸に行くと言う名目で、黒川の当主には知らせていない月子お嬢様の出産だった。
お嬢様の主治医の老医師と蕗さんの知り合いの産婆さんの力を借りて、お嬢様は出産という大役を乗り越えた。生まれてきた赤子は男の子。どことなくお嬢様の面影がある。
「お嬢様。もう名前は決めているんですか?」
「ええ。幸せを実らせてほしいから、実、と」
名前を聞いたとたん、赤ん坊―実坊ちゃんは元気いっぱいに小さな腕と足をジタバタと動かした。きっと気に入ったのね。体いっぱいに表現しているのがその証拠だ。
「素敵な名前ですね!」
「ありがとう」
実坊ちゃんの姿を見ながら目を細めているお嬢様は、顔色が優れなくたって女神様のように美しい。にこにこと見つめていると、不意にお嬢様が呼んだ。
「八重」
「はい」
「お願いがあるの」
「なんでしょう」
小首を傾げると、お嬢様にじっと見つめられた。
「ずっと考えていたのだけど、わたくしと一緒に、実の母親になってくれないかしら?」
「へ?」
思いがけない言葉に、びくりと肩が跳ね上がり目を丸くした。
「え、えっと、それって乳母になるってことですか? でも、私は……」
「乳母は蕗の娘さんに頼んでいるわ。八重、そうじゃなくてね」
「そ、そうじゃないって……」
全く話の道筋が見えていない私に、お嬢様がゆっくりと眉尻を下げた。
「わたくし、こんな状態でしょう。本音は母であるわたくしが育てていきたいのだけど、お医者様からしばらく療養が必要だと言われたの。それに、実のことは黒川家に隠し通す必要がある。実を育てていくには八重の力が必要なの」
お嬢様のほっそりとした手が私に伸ばされ、実を抱いた手にそっと乗せられた。いつもよりひんやりとした手に、言いようのない不安が募る。
「だからね、八重にはわたくしと一緒に実の母親になってほしいの」
もう一度言葉を重ねられ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
庶民の私が華族のご令息の母親になるなんて。黒川家では乳母が育てている習慣があると聞いている。お嬢様の場合、それは蕗さんだ。使用人である私は実坊ちゃんをお育てする助けはするけれど、母親の役目をするなんて前代未聞だ。
「お嬢様。私が一緒に母親にならなくても、使用人としてしっかりお育てしますよ?」
この先何も不安はないのだ、と励ますようににっこりと笑ったが、お嬢様は首を横に振った。
「八重、それだけじゃなくて……」
「それだけじゃなくて……?」
「そうすれば、わたくしと八重は家族になれるでしょう?」
少し照れたような声音が、私の脳をがつんと揺さぶった。
家族。
お嬢様は家族と言ったか。私がとうの昔に失った家族と。
今日一番の衝撃は胸の内に膨大な熱を生み出し、体中を急速に駆け巡る。熱は行き場をなくし、鼻の奥をツンとさせて、視界をじんわりと滲ませた。
「わ、私もお嬢様と家族になりたいです!」
「ほんぎゃあぁっ!」
しまった。吐き出された熱の大きさに比例した声が出てしまい、腕の中の実坊ちゃんを驚かせてしまった。
「あ、あ! ごめん、ごめんね」
慌てて立ち上がり、どうにか機嫌を取り戻そうとゆらゆらとあやす。
「あらあら。実もきっと家族になりたかったのね。仲間外れにするなって言っているのよ」
「そ、そうでしょうか」
戸惑う私に、お嬢様が月のような柔らかな微笑みを浮かべた。
「私の息子よ。そうに決まっているわ。だから、わたくしと八重と実は今日から家族よ。大切な大切な家族よ」
「ありがとうございます、お嬢様」
ああ、やっぱりお嬢様はびっくり箱みたいな人だ。
お嬢様の思いつきは想像以上で、出会った時から私の奥底の願いを叶えてくれる。家族を失くしてしまった私に、新しい家族を与えてくれた。
「実坊ちゃん、私も家族になりましたよ」
目の奥が熱くなって、たまらず実坊ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「八重、そんな他人行儀はいけないわ。あなたも実の母親なのよ?」
「え?」
きょとんとすると、いたずらっ子のように目を輝かせてこちらを見ていた。こんな時、お嬢様は私に期待しているのだ。
「じゃ、じゃあ……実、私もお母さんよ」
「素敵だわ、八重!」
母の弾む声に反応したのか、泣いていた実がご機嫌にくふくふと笑っていた。
今日から精一杯、実のお世話をしよう。すくすくと真っすぐに、それでいてお嬢様のように優しくて強い人になれるよう育てよう。
その後、黒川家の女中を辞し、蕗さんの家で実のお世話を始めた。
私の新しい家族が幸せになれるよう、私が守っていこう。
そう、決めた。
黒川の別荘とは違う、こじんまりした木造の長屋の一室をあっという間に音で満たす。くしゃくしゃの顔で、この世に生まれてきたのだと大声で自分の存在を主張していた。
「わわ、小っちゃい。かわいい!」
ゆらゆら揺らしながら優しくあやす。まだお父さんと一緒に住んでいた時、近所の赤ん坊を同じように抱いて子守をしていたっけ。
「……ねえ、八重」
「はい。お嬢様」
敷布団に体を横たえて苦し気に呼吸を乱し、青白い顔の月子お嬢様が私を見た。私は赤ん坊を抱いたまま、その側に座って小さな顔をお嬢様に見せる。まだ目が開いていないけれど、きっと母がいると気づいているはずだ。
「ふふ、かわいいわ。お母様はここよ。わたくし、この子を産んで本当に良かった」
お嬢様はほんのりと笑みを浮かべた。初めて見た母の表情だった。
この長屋は葉山にある蕗さんの自宅。そこで極秘裏に出産が行われた。葉山の別荘から黒川の本邸に行くと言う名目で、黒川の当主には知らせていない月子お嬢様の出産だった。
お嬢様の主治医の老医師と蕗さんの知り合いの産婆さんの力を借りて、お嬢様は出産という大役を乗り越えた。生まれてきた赤子は男の子。どことなくお嬢様の面影がある。
「お嬢様。もう名前は決めているんですか?」
「ええ。幸せを実らせてほしいから、実、と」
名前を聞いたとたん、赤ん坊―実坊ちゃんは元気いっぱいに小さな腕と足をジタバタと動かした。きっと気に入ったのね。体いっぱいに表現しているのがその証拠だ。
「素敵な名前ですね!」
「ありがとう」
実坊ちゃんの姿を見ながら目を細めているお嬢様は、顔色が優れなくたって女神様のように美しい。にこにこと見つめていると、不意にお嬢様が呼んだ。
「八重」
「はい」
「お願いがあるの」
「なんでしょう」
小首を傾げると、お嬢様にじっと見つめられた。
「ずっと考えていたのだけど、わたくしと一緒に、実の母親になってくれないかしら?」
「へ?」
思いがけない言葉に、びくりと肩が跳ね上がり目を丸くした。
「え、えっと、それって乳母になるってことですか? でも、私は……」
「乳母は蕗の娘さんに頼んでいるわ。八重、そうじゃなくてね」
「そ、そうじゃないって……」
全く話の道筋が見えていない私に、お嬢様がゆっくりと眉尻を下げた。
「わたくし、こんな状態でしょう。本音は母であるわたくしが育てていきたいのだけど、お医者様からしばらく療養が必要だと言われたの。それに、実のことは黒川家に隠し通す必要がある。実を育てていくには八重の力が必要なの」
お嬢様のほっそりとした手が私に伸ばされ、実を抱いた手にそっと乗せられた。いつもよりひんやりとした手に、言いようのない不安が募る。
「だからね、八重にはわたくしと一緒に実の母親になってほしいの」
もう一度言葉を重ねられ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
庶民の私が華族のご令息の母親になるなんて。黒川家では乳母が育てている習慣があると聞いている。お嬢様の場合、それは蕗さんだ。使用人である私は実坊ちゃんをお育てする助けはするけれど、母親の役目をするなんて前代未聞だ。
「お嬢様。私が一緒に母親にならなくても、使用人としてしっかりお育てしますよ?」
この先何も不安はないのだ、と励ますようににっこりと笑ったが、お嬢様は首を横に振った。
「八重、それだけじゃなくて……」
「それだけじゃなくて……?」
「そうすれば、わたくしと八重は家族になれるでしょう?」
少し照れたような声音が、私の脳をがつんと揺さぶった。
家族。
お嬢様は家族と言ったか。私がとうの昔に失った家族と。
今日一番の衝撃は胸の内に膨大な熱を生み出し、体中を急速に駆け巡る。熱は行き場をなくし、鼻の奥をツンとさせて、視界をじんわりと滲ませた。
「わ、私もお嬢様と家族になりたいです!」
「ほんぎゃあぁっ!」
しまった。吐き出された熱の大きさに比例した声が出てしまい、腕の中の実坊ちゃんを驚かせてしまった。
「あ、あ! ごめん、ごめんね」
慌てて立ち上がり、どうにか機嫌を取り戻そうとゆらゆらとあやす。
「あらあら。実もきっと家族になりたかったのね。仲間外れにするなって言っているのよ」
「そ、そうでしょうか」
戸惑う私に、お嬢様が月のような柔らかな微笑みを浮かべた。
「私の息子よ。そうに決まっているわ。だから、わたくしと八重と実は今日から家族よ。大切な大切な家族よ」
「ありがとうございます、お嬢様」
ああ、やっぱりお嬢様はびっくり箱みたいな人だ。
お嬢様の思いつきは想像以上で、出会った時から私の奥底の願いを叶えてくれる。家族を失くしてしまった私に、新しい家族を与えてくれた。
「実坊ちゃん、私も家族になりましたよ」
目の奥が熱くなって、たまらず実坊ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「八重、そんな他人行儀はいけないわ。あなたも実の母親なのよ?」
「え?」
きょとんとすると、いたずらっ子のように目を輝かせてこちらを見ていた。こんな時、お嬢様は私に期待しているのだ。
「じゃ、じゃあ……実、私もお母さんよ」
「素敵だわ、八重!」
母の弾む声に反応したのか、泣いていた実がご機嫌にくふくふと笑っていた。
今日から精一杯、実のお世話をしよう。すくすくと真っすぐに、それでいてお嬢様のように優しくて強い人になれるよう育てよう。
その後、黒川家の女中を辞し、蕗さんの家で実のお世話を始めた。
私の新しい家族が幸せになれるよう、私が守っていこう。
そう、決めた。


