立ち上がったあの人が壇上を下手側に踵を返して、何か大きなものをずるずると引きずって戻ってきた。闇に慣れた目を凝らしてみると、袴を身につけた髪の長い女性に見える。

 「まさか……登美子、さん?」

 目を丸くしている間に、彼は私の前で無造作に壇上から放り投げた。ドンと鈍い音とともに登美子さんが硬い床に転がる。こちらに向いた顔は生気のない登美子さんの顔だった。

 「登美子さん、登美子さん!」

 必死に呼びかけるも、意識がないのかぐったりとしていて反応がない。
 生きているのか、それとも……それは考えたくもない。けれども、このままでは。

 「ふふ、この子はどうやら君に嫉妬していたみたいだ。君を理由に、本多子爵家の令息から婚約を断られたらしいからね。君の存在を消して婚約を取り持つと言えば、ほいほいとついてきた」
 「登美子さん、目を開けて!」
 「話しかけても何も答えないよ。血を抜いていたからね。医療器具を使えば割と簡単だったなぁ」
 「血を……?」

 不気味な言葉と倒れ伏している登美子さんを鑑みて、こめかみからじわりと汗が滲み出る。

 「知らない? 西洋にある逸話があるんだ。依り代の心臓に五人の若い乙女の血を注げば、不老不死になり死者をも復活するっていう話」
 「死者をも、復活……?」

 その言葉を脳が捉えたとたん、肌と言う肌にぞわりと鳥肌が立った。
 どうしてそんなことを。何の、ために。
 まさか。まさか、まさか、まさか。

 「この逸話通りに儀式をすれば、月子が甦る。この礼拝堂は女神の復活に相応しい舞台だろう?」

 一瞬で頭の中が真っ白になった。
 うそ、でしょう。
 永遠を求めるこの男の存在に、ガタガタと歯の根が合わなくなっていく。

 「若い乙女の血はこの子を入れて、もう四本あるんだ。ほら」

 うっとりと恍惚とした表情で告げたあの人が、壇上にある講壇を指差した。指し示す方へのろのろと視線を動かせば、ステンドグラスから漏れ出た月明りに照らされた赤黒い瓶が四本並んでいる。

 「ああ、君は三人目を見たことがあるんだっけ」
 「三人目……?」
 「君を調べた時にわかったことさ。まさか君に見られているとは。傑作だな」

 刹那、血を流して命を失っていた若い女性が脳裏に明滅した。それはあの事件に巻き込まれた時の記憶の断片。
 目を丸くしたまま彼を凝視すれば、ニイと口の端を上げた。
 この男が帝都の連続殺人事件の……!

 「そして、君が五人目」
 「は……」

 肺が握りつぶされたようにぎゅっと縮まり呼吸が止まった。

 「これで月子にへばりついていたゴミを始末できるね」

 蔑むように見下される。私に向けられた双眸は醜く歪んで憎悪に満ちていた。

 「せっかくだ。先に依代を準備してあげよう」
 「依り代……?」

 コツンコツン、と靴音が移動する。

 「依り代は血のつながりがある人物が良いらしくてね。探してもなかなか見つからなかったんだ。だからちょうど良かったよ、出会えて」

 やめて。
 心臓がドッドッドッと強く叩いて暴れ出す。気づきたくもない事実。
 男の靴音は椅子の前で立ち止まった。

 「君もこの子の心臓を見たいだろう?」

 情報を拒否した脳が痺れる。身体中が金縛りにあったように固まった。
 そんな私を嘲笑うかのように、あの人は背広に手を入れてすっと何かを取り出した。彼が手にしたものは薄明りを浴びてギラリと光る。
 ナイフだ。

 「待って。実は……あなたと、血のつながりがある、でしょう?」

 喉から絞り出した声が空気を震わせる。呼吸は浅く短くなり、肩が小刻みに震えた。

 「かまわないよ」

 優しく全てを許すような声が響く。

 「月子が甦って、また愛し合えばいいさ。すぐに愛の結晶が生まれるよ」

 蜂蜜を溶かしたような甘い眼差しで、実を見つめた。

 「やめて!」

 全ての力を振り絞って、ありったけの声を上げた。
 その瞬間、ドンッ、と重く激しい音が礼拝堂内に響いた。

 「動くな!」

 淀んだ空気を切り裂き、艶めいた低音が轟く。それと同時にダダダダ、と複数の靴音を耳が捉えた。反射的に振り返ると、月明りを背負った警官たちが雪崩を打って礼拝堂に押し寄せていた。

 「そこまでだ、大井伸隆!」

 この場を制するような威圧的な声を放ったのは、自分のよく知る人物。警官たちの中心にいたのは、胸を張り威風堂々とした背広姿の本多さんだった。

 「誘拐及び連続殺人事件の容疑で逮捕する!」
 「警察ごときが邪魔をするな! 僕は月子を甦らせるんだ!」

 激昂したあの人が、躊躇いもなくナイフを振り上げた。
 瞬間、パンッ、と乾いた音が礼拝堂の天井に跳ね返る。

 「ぐああっ!」

 ナイフが勢いよく飛び上がり、刃は月明りを反射する。床にカラン、と派手な音を立てて転がった。本多さんの手には黒いピストル。銃口から白い煙が立ち上っていた。

 「確保! すぐに被害者たちを保護しろ」

 一斉に警官たちが走り出す。手を抑えて蹲っているあの人を押さえつけた。

 「八重、無事か!?」

 眉根を寄せて必死な形相の本多さんが、私のもとへいち早く駆けつけてくれた。久しぶりに聞いたその声に言いようもない安堵が広がる。

 「縛られているのか。もう大丈夫だ」

 膝を折った本多さんは縛られた私の手首を解放しようと縄に手をかけた。
 でも。
 一瞬、視界の端でちりりと火花が散ったような光景を捉えた。

 「本多さん!」

 とっさに本能が動いた。
 ドンッ、と本多さんの身体に体当たりをする。
 もう一度、パンッ、と乾いた音が礼拝堂の天井に跳ね返った。

 「あ、う……っ……」

 私の喉から短い呻き声が漏れる。脇腹に酷く激しい痛みが襲った。身体全体が心臓になったようにドッドッドッと強く叩いた。
 その痛みに頭の中が白みかけていく。警官に押さえ込まれながらも私を見たあの人が、ピストルを持ったままニヤリと笑った気がした。

 「八重! 八重!」

 抱きかかえられたのか、本多さんの心音が直接耳に届く。
 良かった、生きている。
 生を刻む心音に安堵し、瞼が重くなり世界が閉じていく。意識が白く塗りつぶされて、いつまでも聞いていたいのに、私の名を呼ぶ声が徐々に遠くっていく。

 ああ、ここまでなのか。

 永遠に叶わない願いを捨てて、新たに望んだ私の願い。
 その願いは私の望んだ形で現れたのかは、わからない。

 でも。
 もう、いいよね。

 ざざん、と砂浜へ打ち寄せた白波の音が優しく脳に響いた。
 やっと許されたような気がして、そのまま白波に飲み込まれるように意識を落とした。