「……う……っ」
ふっと意識が浮上した私は薄っすらと瞼を押し上げる。黴臭い匂いが鼻を掠め、頬を始め身体の片側に硬く冷たい感触があった。どうやら硬い床の上に横たわっているらしい。
私、どうして……。
起き上がるために手を使おうと動かすと、ぐっと固まって動かない。しかも腕と手首に痛みが走った。
はっと意識がはっきりすると、自分が後ろ手に手首を縛られていることに気づいた。
なに、これ……。少しばかり呼吸が浅くなる。
身体をもぞもぞと動かせば、思いのほかギシギシと凝り固まった身体が悲鳴を上げる。なんとか起こして座り込んだ。その拍子に埃が舞ったのか、喉をちくちくと刺す。
ここは一体どこだろう。
私、登美子さんに出会って、急に現れた男たちに実を……と、そこまで思い出して肺が冷たくなった。
そうだ、実。実はどこ?
周囲に目を配れば、薄暗いが視界の上からぼんやりとした光が差し込んでいた。引き寄せられるままに見上げると、高い天井に掲げられた宗教画のステンドグラスが、月明りを受けて鈍い光を放っている。どこかの礼拝堂なのだろうか。
その厳かで幻想的な光景が広がる中、自分の周りには昔は並んでいただろう腐敗して壊れた長椅子が乱雑に置かれていて、その落差が薄気味悪く胃の中がぞわりとする。
「目覚めたのかい?」
唐突に男性の声が天井に響き、肩がびくりと跳ねた。コツンコツン、と靴音を耳が捉える。息を潜めて音のする先に視線を動かすと、床より一段上がった演壇のようなものが見えた。
「すまない。乱暴に連れてきてしまったようで。丁寧にと伝えたんだけど」
演壇の下手側の暗闇の中から甘い顔立ちが見えた。
「どう、して……」
あなたがいるの。
目を見開いたまま固まった。暗闇の中から現れたのは背広姿の大井伸隆だった。靴音を響かせながら演壇にゆっくりと登り、私をじっと見つめた。
「不思議そうな顔をしているね」
「どうして、あなたがここに……」
「君たちをここに連れてきてもらったのは、僕だからね」
場違いなほどに柔和な顔を向けられて、ごくりと生唾を飲み込んだ。彼から放たれる空気に飲み込まれそうになる。
「実は……実はどこですか」
喉から絞り出すように問いかける。彼はゆっくりと口角を上げた。
「実、と言うのか」
またコツンコツン、と靴音を鳴らす。壇上を移動する先を見つめていると、薄闇に紛れて椅子が一脚置いてあるのが見えた。目を凝らして見ると、誰かいる。
彼は椅子の横に立つと手を伸ばして、ゆっくりと頭の辺りを撫でた。
「君は実と言うんだね」
まさか。
心臓がドクンと重く強烈に動いた。
「実!!」
気づけば、喉から鼓膜を引き裂くような悲鳴が上がった。闇に慣れた視界が映し出したのは、目をつぶり背凭れに背中を預けてぐったりとしている実だ。
「この子に何をしたんですか!?」
「少し眠ってもらっているだけだよ」
眠っている? 本当に? だって、動いていない。
「実、目を開けて!」
あの子の耳に届くように力を込めて叫んだ。
「実、実! お母さんよ!!」
「違うよ」
断定的な言葉が鼓膜を揺さぶる。
「違うでしょう。この子は僕と月子の子だ。月子の顔立ちによく似ている」
ひくっと喉が絞まり、息が止まった。呼吸を忘れて首を横に振る。
「違う。違います」
「嘘はいけない」
「違うって言ってる!」
必死になって何度も首を横に振る。それなのに、あの人はふんと鼻を鳴らした。
「もう調べはついているんだよ。この子は葉山のパーティーで月子と結ばれたときの子だ」
唇が震える。
胃の中が冷たくなり、神経を通って伝わる冷気に身体全体を絡めとられて動けない。
知られた。知られてしまった。
黒川侯爵家にもこの男にも、隠し通してきた秘密を。私たちの小さな幸せを。
この男に、壊されてしまう。
――お願い、八重。わたくしの大切なものを守って。
お嬢様の泣き笑いのような表情が脳裏に過る。
お嬢様と約束したのに。お嬢様、お嬢様……!
「どうして月子は言ってくれなかったんだろうね。調べたらすぐにわかることなのに。言ってくれれば、僕がすぐに迎えに行った」
迎えに行った? そんな簡単に言うだなんて。
腹の底の黒い塊がざわりと蠢いた。
「……あなたは、自分勝手ですね」
「何?」
不自由な拳をわずかに握りしめ、ぎっと鋭く睨みつける。
「月子お嬢様はいつもあなたのことを想っていました。妬けるほどに。けれども、あなたと一緒になりたくても旦那様が許すはずもないし、あなたにはもう婚約者がいた。それでも、一緒にアメリカへ行きたい、という気持ちもお持ちでしたよ。でも……」
鼻の奥がツンとする。この男にお嬢様の心を教えたくはなかったのに。
「お嬢様は体の弱いから船旅に耐えれそうにない、どこまでも迷惑をかけてしまう、と身を引かれたのです」
瞼に滲みだしてきたものを堪えるように、ぐっと唇を噛みしめた。
お嬢様のお気持ちはいかばかりだったか。
侯爵家に従順だった月子お嬢様のわがままと罪。
お嬢様は両親の目を盗んでまで、愛しい人の子どもを産んだ。自分の体がまだ耐えられる内に、奇跡的に宿った子を産みたかったのだ。
そして、実が生まれた。
くしゃくしゃの顔で、盛大な産声を上げて。私の腕に収まった小さな命。
何物にも代えがたい、私たちの宝物。
「月子……」
あの人に呟かれたその名が震える。
「月子、君は僕を愛してくれていたんだね!」
次の瞬間、歓喜の声を上げ、目が三日月のように弧を描いた。
「うれしい、うれしいよ、月子! 僕たちはもう永遠だったんだね」
背筋が粟立つような恍惚とした表情を浮かべるあの人は、鈍く光を放つ宗教画のステンドグラスに向って跪いた。
「ああ、月子。信じきれなかった僕を許してほしい。永遠を手に入れたいがために、君に贈ったチョコレートに毒を入れたけれど、そんなものに頼る必要がなかったんだね」
ひゅっと喉が鳴った。
ああ、なんて、こと。
月子お嬢様が幽世に旅立ったのは、やはりこの男のせいだったのか!
かっと目の前が赤く染まった。
ひどい、あんまりだ。
許せない。
許せない、許せない、許せない!
「あなたが、あなたがお嬢様を手にかけたのか!」
腹の底に抑えつけていたどす黒い熱が噴き出した。それは身体を飲み込み全身がわなわなと震える。手を縛られてさえいなければ、すぐにでもその厚顔を叩いてやりたいのに。
「彼女との永遠を手に入れるのなら当然のことだろう? ああ、でも。これで月子を甦らせて、改めて永遠を誓えるよ」
歌うように紡がれた言葉に眉根を寄せた。
「甦らせる……?」
一体、何を言っているのだろうか。
ふっと意識が浮上した私は薄っすらと瞼を押し上げる。黴臭い匂いが鼻を掠め、頬を始め身体の片側に硬く冷たい感触があった。どうやら硬い床の上に横たわっているらしい。
私、どうして……。
起き上がるために手を使おうと動かすと、ぐっと固まって動かない。しかも腕と手首に痛みが走った。
はっと意識がはっきりすると、自分が後ろ手に手首を縛られていることに気づいた。
なに、これ……。少しばかり呼吸が浅くなる。
身体をもぞもぞと動かせば、思いのほかギシギシと凝り固まった身体が悲鳴を上げる。なんとか起こして座り込んだ。その拍子に埃が舞ったのか、喉をちくちくと刺す。
ここは一体どこだろう。
私、登美子さんに出会って、急に現れた男たちに実を……と、そこまで思い出して肺が冷たくなった。
そうだ、実。実はどこ?
周囲に目を配れば、薄暗いが視界の上からぼんやりとした光が差し込んでいた。引き寄せられるままに見上げると、高い天井に掲げられた宗教画のステンドグラスが、月明りを受けて鈍い光を放っている。どこかの礼拝堂なのだろうか。
その厳かで幻想的な光景が広がる中、自分の周りには昔は並んでいただろう腐敗して壊れた長椅子が乱雑に置かれていて、その落差が薄気味悪く胃の中がぞわりとする。
「目覚めたのかい?」
唐突に男性の声が天井に響き、肩がびくりと跳ねた。コツンコツン、と靴音を耳が捉える。息を潜めて音のする先に視線を動かすと、床より一段上がった演壇のようなものが見えた。
「すまない。乱暴に連れてきてしまったようで。丁寧にと伝えたんだけど」
演壇の下手側の暗闇の中から甘い顔立ちが見えた。
「どう、して……」
あなたがいるの。
目を見開いたまま固まった。暗闇の中から現れたのは背広姿の大井伸隆だった。靴音を響かせながら演壇にゆっくりと登り、私をじっと見つめた。
「不思議そうな顔をしているね」
「どうして、あなたがここに……」
「君たちをここに連れてきてもらったのは、僕だからね」
場違いなほどに柔和な顔を向けられて、ごくりと生唾を飲み込んだ。彼から放たれる空気に飲み込まれそうになる。
「実は……実はどこですか」
喉から絞り出すように問いかける。彼はゆっくりと口角を上げた。
「実、と言うのか」
またコツンコツン、と靴音を鳴らす。壇上を移動する先を見つめていると、薄闇に紛れて椅子が一脚置いてあるのが見えた。目を凝らして見ると、誰かいる。
彼は椅子の横に立つと手を伸ばして、ゆっくりと頭の辺りを撫でた。
「君は実と言うんだね」
まさか。
心臓がドクンと重く強烈に動いた。
「実!!」
気づけば、喉から鼓膜を引き裂くような悲鳴が上がった。闇に慣れた視界が映し出したのは、目をつぶり背凭れに背中を預けてぐったりとしている実だ。
「この子に何をしたんですか!?」
「少し眠ってもらっているだけだよ」
眠っている? 本当に? だって、動いていない。
「実、目を開けて!」
あの子の耳に届くように力を込めて叫んだ。
「実、実! お母さんよ!!」
「違うよ」
断定的な言葉が鼓膜を揺さぶる。
「違うでしょう。この子は僕と月子の子だ。月子の顔立ちによく似ている」
ひくっと喉が絞まり、息が止まった。呼吸を忘れて首を横に振る。
「違う。違います」
「嘘はいけない」
「違うって言ってる!」
必死になって何度も首を横に振る。それなのに、あの人はふんと鼻を鳴らした。
「もう調べはついているんだよ。この子は葉山のパーティーで月子と結ばれたときの子だ」
唇が震える。
胃の中が冷たくなり、神経を通って伝わる冷気に身体全体を絡めとられて動けない。
知られた。知られてしまった。
黒川侯爵家にもこの男にも、隠し通してきた秘密を。私たちの小さな幸せを。
この男に、壊されてしまう。
――お願い、八重。わたくしの大切なものを守って。
お嬢様の泣き笑いのような表情が脳裏に過る。
お嬢様と約束したのに。お嬢様、お嬢様……!
「どうして月子は言ってくれなかったんだろうね。調べたらすぐにわかることなのに。言ってくれれば、僕がすぐに迎えに行った」
迎えに行った? そんな簡単に言うだなんて。
腹の底の黒い塊がざわりと蠢いた。
「……あなたは、自分勝手ですね」
「何?」
不自由な拳をわずかに握りしめ、ぎっと鋭く睨みつける。
「月子お嬢様はいつもあなたのことを想っていました。妬けるほどに。けれども、あなたと一緒になりたくても旦那様が許すはずもないし、あなたにはもう婚約者がいた。それでも、一緒にアメリカへ行きたい、という気持ちもお持ちでしたよ。でも……」
鼻の奥がツンとする。この男にお嬢様の心を教えたくはなかったのに。
「お嬢様は体の弱いから船旅に耐えれそうにない、どこまでも迷惑をかけてしまう、と身を引かれたのです」
瞼に滲みだしてきたものを堪えるように、ぐっと唇を噛みしめた。
お嬢様のお気持ちはいかばかりだったか。
侯爵家に従順だった月子お嬢様のわがままと罪。
お嬢様は両親の目を盗んでまで、愛しい人の子どもを産んだ。自分の体がまだ耐えられる内に、奇跡的に宿った子を産みたかったのだ。
そして、実が生まれた。
くしゃくしゃの顔で、盛大な産声を上げて。私の腕に収まった小さな命。
何物にも代えがたい、私たちの宝物。
「月子……」
あの人に呟かれたその名が震える。
「月子、君は僕を愛してくれていたんだね!」
次の瞬間、歓喜の声を上げ、目が三日月のように弧を描いた。
「うれしい、うれしいよ、月子! 僕たちはもう永遠だったんだね」
背筋が粟立つような恍惚とした表情を浮かべるあの人は、鈍く光を放つ宗教画のステンドグラスに向って跪いた。
「ああ、月子。信じきれなかった僕を許してほしい。永遠を手に入れたいがために、君に贈ったチョコレートに毒を入れたけれど、そんなものに頼る必要がなかったんだね」
ひゅっと喉が鳴った。
ああ、なんて、こと。
月子お嬢様が幽世に旅立ったのは、やはりこの男のせいだったのか!
かっと目の前が赤く染まった。
ひどい、あんまりだ。
許せない。
許せない、許せない、許せない!
「あなたが、あなたがお嬢様を手にかけたのか!」
腹の底に抑えつけていたどす黒い熱が噴き出した。それは身体を飲み込み全身がわなわなと震える。手を縛られてさえいなければ、すぐにでもその厚顔を叩いてやりたいのに。
「彼女との永遠を手に入れるのなら当然のことだろう? ああ、でも。これで月子を甦らせて、改めて永遠を誓えるよ」
歌うように紡がれた言葉に眉根を寄せた。
「甦らせる……?」
一体、何を言っているのだろうか。


