人が望みを叶えた時、それは望んだ形をしていただろうか。



 「お母さん、どうしてまささんはお家に来ないの?」

 頬を膨らませている実が私を見上げて睨んだ。一週間前からこの調子だ。すいっと目を逸らした私は、こっそりと溜息を零した。
 カフェーでの仕事終わりに実の手を引いて、商店街で食料の買い出しをしていた。今日はいつもより客足が伸びたため退勤時間が遅くなり、すっかり街は薄闇に覆われていた。

 「お仕事が忙しいんじゃないかな?」
 「こんなに長いこと来ないことなかったよ。ねえ、お母さん!」
 「ごめんね。お母さんも知らないの」
 「えー!」

 本多さんが私たちの前に姿を現さなくなってから二週間が経った。あんな風に別れた手前、どうしていいのかわからなかったから、実には悪いけれどほっとしている。
 警官による巡回や監視はなくなってはいないらしい。詠子さんが見かけていると言っていたからだ。きっと仕事が忙しいのだろうと当たりをつけている。

 「すっかり暗くなったわね」

 ふと空を見上げると東の空に月が昇っている。夜が迫ってきていることもあり、人通りがまばらになってきた。

 「実。早く家に帰ろう」
 「うん」

 実の手をしっかりと握りなおし、少し早めに足を動かす。
 その時、発動機の唸る音が徐々に大きくなり、私の横を黒塗りの自動車がすっと走り過ぎた。その自動車は私たちの少し手前で停車する。
 自動車を訝し気に見ていると、扉が開いて誰かが降りてきた。

 「ごきげんよう。女給さん」
 「……こんばんは」

 降りてきたのは緋色の袴を身につけた小柄な女学生。以前星占いを受けた本多さんの従妹の登美子さんだった。

 「こんなところで会うなんて奇遇ね。カフェーの時以来かしら」
 「そうですね」

 ゆっくりと伏せた目を上げてこちらを見た登美子さんは、可憐さが鳴りを潜め能面のような表情をしていた。

 「ああ、その子があなたの子ども?」
 「はい。それが何か……」
 「本当にいたのね」

 じろりと実を見た彼女の瞳が暗く不気味で、こくりと生唾を飲み込む。すぐに実の手を引いて自分の背後に隠した。

 「何かご用でしょうか」
 「車の中からあなたたちを見たの。もう夜でしょう? 遅いからわたくしが送っていってあげる。どうぞ乗って」
 「そんな申し訳ないです。家はすぐそこなので」
 「わたくしが送ってあげるって言っているのに。ねえ、ぼく。あなたも車に乗りたいわよねぇ」

 登美子さんはニタリと唇を上げた。
 何かがおかしい。脳に警告音が鳴り響く。
 私の背後でちらりと様子を伺っていた実が、ぎゅっと着物の裾を強く握りしめたのが分かった。実と離れてはいけない。早く登美子さんから距離を取らなければ。

 「すみません。せっかくのお申し出ですが、お断りさせていただきます」

 毅然とした態度と強い口調で突っぱねた。

 「あなた、子爵家のわたくしの言うことを突っぱねるというの?」
 「お手を煩わせたくないだけです。自宅はもうすぐですので」

 今度はやんわりと否定すれば、ギリリと奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

 「……たかが庶民のくせに、本当に目障りだわ」
 「何を」
 「あなた、何様のつもりなのかしら!」

 甲高い悲鳴が耳を劈き、胃がきゅっと縮まった。
 頭にカッと血を上らせたのか、登美子さんは顔を赤くして私を睨みつけた。

 「わたくしの優しさを踏みにじり、正宗お兄様の婚約まで白紙にするなんて!」

 え、白紙に……?
 目を丸くした私を見て、可憐な顔を醜く歪めた。

 「ああ、嫌だわ。わたくしの前から消えて頂戴。この二人を車に乗せて」

 ダン、ダン、と扉の開閉音が二度聞こえた。自動車からぬっと降りてきたのは、腕っぷしの強そうな屈強な男が二人。私たちを捉えると、ふんと鼻を鳴らしてニイと口の端を上げた。

 「ひいっ!」

 逃げなきゃ。
 反射的に実の手を掴んで駆け出した。しかし、男たちにすぐに追いつかれる。

 「お母さん!」
 「実!」

 恐怖に塗れた実の声が私を必死に呼ぶ。実の小さな手が助けを求めて私に伸ばされた。掴みたい。掴みたいのに私の手は空を切った。
 男の太い腕に小さな体が抱きかかえられて、肩に担ぎ上げられる。

 「やめて!」

 喉からありったけの声を上げた。
 実に手を出さないで!
 実、実!
 一心不乱に腕を伸ばし、男の腕を引っ掻いた。

 「てめえ!」

 首元にズンッと重い衝撃が走った。
 ああ、だめ。抗いたいのに頭が真っ白になっていき、意識が暗闇へ落ちていく。

 「あの方に送り届けるのよ」

 薄れゆく意識の中で、登美子さんの声が耳の奥に残った。