街全体が沈みゆく夕日に照らされて、麓音館が入っている白い洋館も橙色に染まる。建物の影はすっかり伸びていた。無言で戻ってきた私とあの人は麓音館の前まで戻ってきた。

 「お母さーん!」

 明るい声が通りに響き渡る。にぱっと笑った実が上機嫌でとたとたと駆け寄ってくる。
 うそ、でしょう。どうしてこんな時に限って。
 自分の顔が青ざめていくのがわかる。
 こっちに来てはいけない、そう言いたいのに、喉がきゅっと詰まって声を出せない。

 「君、子どもがいたんだったね。月子は知っていたのかい?」

 夕日によって影が伸びている実のことを、彼はじっと見つめた。
 子どもがいることまで突き止めていたのか。
 やめて、見ないで。
 視界を遮りたいのに、身体が震えて上手く動けない。

 「お母さん、誰?」

 おっかなびっくりした実は、さっと私の背中に隠れてちらりと様子を伺っている。

 「知り合いの人よ。さあ、早く店に入って」

 震える手を必死に伸ばして、カフェーの玄関扉の取っ手を掴んだ。

 「ああ、よく似ているね」

 歌うような声が耳の奥に響いた。
 反射的に振り向けば、あの人は瞳に赤々と熱を灯し、頬を蕩けさせた恍惚とした表情を見せていた。

 誰を、見ている。

 心臓がどくどくと激しく動き出して、呼吸が浅くなり肺が苦しみを訴える。それでも身体を叱咤して、取っ手を握った手に力を込めてぐっと引き寄せた。
 瞬間、ドアベルがけたたましく不協和音をかき鳴らし、耳を劈く。

 「お母さん?」

 実に呼ばれたような気がした。けれども、小さな背中を手荒に押す。店に入れて扉をガチャンと閉めた。荒くなった自分の呼吸がうるさい。

 「……もうお帰りになられた方がよろしいんじゃないでしょうか」

 少し呼吸を整えてあの人を睨み据えた。

 「ああ、そうだね。仕事も残っているし。秘書に叱られそうだ」

 肩をひょいっとすくめて、睨まれているにも関わらず口元に弧を描いた。

 「今日は楽しかったよ。良いものも見せてもらったし」

 変わらない微笑みがうすら寒く、ぐっと奥歯を噛んだ。

 「また会おう。思い出の語らいは君としかできないからね」

 彼は背を向けて麓音館を去っていく。去り際にキザったらしく手を上げて挨拶をした。

 「八重」

 胸を撫で下ろしたのもつかの間。はっと呼ばれた方向に視線を向けると、黒の厳めしい制服を纏った人が近づいてきた。

 「本多、さん」

 声を掛けられるまで気がつかなかった。もしかして実と一緒だったのか。今のを見られていた? 頭の中の思考がぐるぐると淀む。

 「どうされましたか? あ、うちの店に巡回ですか?」
 「いや」
 「もしかして、実と一緒に……」
 「あの男は誰だ」

 地を這う低音とともに鋭利な眼光に射抜かれた。その鋭さに肺が冷たくなる。

 「何ですか、いきなり……」
 「なぜあの男とともにいた? 彼は大井財閥の大井伸隆だろう」

 はくりと息を飲んだ。どうして知っているんだろう。所轄署での尋問を思い出すような威圧的な態度に、無意識に身体が怯んだ。

 「……突然訪ねて来られて。少し散策を」
 「へえ。子どもがいるのに……男と二人きりで会っていたのか」

 思いもよらない言葉を投げかけられて、頭が真っ白になった。

 「あんなに甘い表情を向けられて、取り乱して。八重とはどういう関係だ」

 距離を詰められたかと思えば、大きな手のひらに肩を強く掴まれ顔を顰めた。
 今、何を言われた? どうして、そんなことを言うの。
 心を明け渡してしまった人からの棘が刺さる。
 二人きり? 甘い表情? あの人からそれを向けられて、喜ぶとでも?
 じくりとした黒い靄が忍び寄る。
 あ、だめだ。
 自分でも扱いに困っていた、胸の内に居座る柔らかい想いに纏わりつき、心臓が蝕まれていくような気がした。

 「父親です」

 気づけば、はっきりと口にしていた。

 「何?」
 「実の父親です。探していた」

 本多さんが形の良い目を見開いた。

 「実の、父親」
 「そうです。ようやく見つかったんですよ。さっきまた会おうと言われました」
 「会うのか」
 「そうですね」

 あの人はきっとまた会いに来る。
 実を目にしたのだ。あの人が動かないはずはない。確信があった。

 「……俺から離れるのか」

 ぽつりと呟かれた言葉に心が震えそうになる。

 「離れるも何も。本多さんには関係のないことでしょう。あなたにとって私はただの監視対象なんですよね?」

 ぐっと息を飲んだ本多さんは、眉を顰めて静かに目を伏せた。

 「……そうだな。ただの監視対象だ」

 すまなかったな、と小さく謝罪の言葉を告げられ、肩から大きな手が離れた。肩に残った温もりが私の胸を責めるけれど、知らない振りをした。

 「巡回中だったからこれで失礼するよ」
 「はい」
 「実はさっきまで友達と遊んでいたようだが、夕方だったから送らせてもらった」
 「いつもありがとうございます」

 本多さんがどんな表情をしているのかはわからない。顔を見ないようにすっと頭を下げた。

 「では、失礼する」

 本多さんはくるりと背を向けて麓音館から離れていく。夕日が沈み込み彼の影をぼんやりとさせ、薄闇が訪れた街に埋没させた。
 私は詰めていた息を長く吐き出し、実の待つ店内へと戻った。
 その日の夜から本多さんは、我が家に来なくなった。