「その後、望んでもいない婚約をさせられてしまってね。僕はもう疲れたんだよ。周囲の期待に応えるのが。月子だけと一緒にいたいと思って、攫おうと思って、アメリカへ一緒に行こうと伝えたんだ」
 「それは……」
 「僕と月子は愛し合っていたんだよ。真綿に包むように愛し合って、愛し合って。僕たちは永遠になると思っていたんだけどなぁ」

 彼は自嘲気味ふっと息を吐いた。
 結末は私も知っている。悲しみに暮れながらお嬢様が決めたことだ。
 お嬢様は現実を受け止め、ただ一つだけのわがままを叶えた。

 「でも、月子は断った。初めて月子を憎いと思ったよ。僕を拒絶するなんて」

 地を這うようなどろりとした低音に、胃の中がぞわりとして掴まれ鳥肌が立った。
 この男は永遠などという幻想をずっと抱き、こんなにもどろりとしたものを腹の中で飼っていたのか。そして、そのどろりとしたものを飼えなくなって、お嬢様ただ一人に向けられたのだとしたら。私の腹の底の黒い塊がまたざわりと蠢いた。

 「……あなたのせいじゃないんですか」
 「何?」
 「月子お嬢様がこの世から旅立ったのは、あなたのせいじゃないんですか」

 腹の底から湧き上がる怒りを極力抑えて言い放った。
 お嬢様はあの時、怯えていた。諦めていた。そして全てを受け入れていた。
 きっと、きっと。
 この男が手を下しているはずだ。

 「僕のせい、だって?」

 ははっとさもおかしそうに笑って、口元を歪めた。

 「月子が旅立つ場所は、僕と一緒に行くはずだったアメリカだよ。これからも」

 彼はカップを持ち上げて一口飲んだ。かたん、とカップを洋皿に置いた音が、店内のざわめきの中でやけに響いた。

 「月子は一度断ったけれど、僕は月子を心の底から愛しているから、全ての事を水に流して許すことにしたんだよ。そして今度は必ず連れていく。決めたんだ」

 彼はどこかうっとりとしながら、歌うように言葉を紡いだ。
 連れていく……?
 この男は一体何を言っているのか。

 「やあ、大井さんではないですか」
 「ああ。これはどうも」

 思考の海に沈みかけたその時、あの人に声をかけた嗄れ声の年配の男性がいた。

 「すまない。取引先の方だ。席を少し外すよ」

 私に小声で伝えた後、にこやかな笑顔を貼り付け年配の男性とともに席を外した。
 ふと誰もいない向かいの席へ目を遣った。
 その席にはあの人が飲んだ、半分にまで減っている珈琲のカップ。
 ちらりと周りに目を配ると店内のざわめきはそのままなのに、不思議と周りには誰もいなかった。
 今だ、やれ、と脳から指令が出る。ごくりと生唾を飲み込んだ。
 今度は逆らわなかった。
 着物の中に隠していた首に提げたロケットペンダントを摘み上げ、ロケットの部分をぱかりと開けた。そこにあるのはころりとした丸薬。猫いらずだ。ねずみだけじゃなくて人にも良く効く殺鼠剤。
 心臓の鼓動がドクドクと激しさを増し、猫いらずを摘まむ指が震えた。震える指を叱咤しながら男のカップへ手を伸ばす。これを落としさせえすれば、あの男は。

 この時を、待っていた。
 復讐を遂げるなら今だ。私の願いを潰した男を許しはしない。

 私の手はじりじりと進み、たゆたう黒の上に止まる。
 そして、摘まんだままの指を放そうとした。


 ――人を殺すなんてひどいこと、やってはいけないよ?


 ふと、今私の心を占める心地良い低音が耳の奥に響いた。
 自分に向ってではないけれど実に言い聞かせていた言葉。それとともに、彼が私に見せてくれた貴重なはにかんだ笑みが脳裏に過った。
 どうして、今思い出してしまったの?
 唇が戦慄いた。
 気づけば、自分の手が彼のカップの上でぴたりと止まっていた。

 「すまない。待たせたね」

 背中から唐突にかけられた声に、びくりと肩を跳ねさせて慌てて手を引っ込めた。
 あの人が戻ってきた。
 心臓がバクバクと激しく動く。大丈夫。すぐに引っ込めた。見られていないはずだ。

 「何をしようとしていたんだい?」
 「……何も」
 「そう」

 じっと見られて探られている気配がする。身体を強ばらせたまま息を潜めた。

 「知っているかな。帝都では人に良く効く毒薬が流行っているんだ。君は僕を殺したいほど、憎いのかな?」
 「まさか、そんな」

 心臓の鼓動は止まらない。胃がきゅっと縮まりじとりと汗が噴き出すが、知らない振りを突き通す。そんな私の背中側から耳元に唇を寄せられた。

 「僕は君が憎かったよ。僕の月子にへばりついていた君のことが」

 男の歪んだ想いに息を飲み、全身の神経が凍りついた。男の腹で飼っているどろりとして蠢く何かを肌で感じた。

 「さあ、戻ろうか。すまなかったね、時間を取ってもらって。約束通り、君をカフェーまで送り届けよう」

 奥歯が震えるのを悟られないようにゆっくりと席を立てば、すでに彼は背を向けて歩き出していた。その背中について行きカフェーを出る。麓音館までの距離を私とあの人は少し離れて歩き、無言を貫いた。