カフェーを出て帝都の街並みを歩く。少し前を歩く彼は中折れ帽をかぶり、三つ揃えの背広姿を着こなす姿は小粋で、周りの視線を惹きつけている。さすが財閥の御曹司というところか。カフェーの時より自分に視線が少ないのは、恐らく女中とでも思われているからだろうと当たりをつけた。
「君が帝都にいるとは思わなかったよ。元気そうだね」
「……そう見えるなら何よりです。私のこと、覚えていらっしゃったんですね」
「月子のことは何でも覚えているよ。月子は僕の恋人だったからね」
恋人。あっさりと私に告げた。
二人の関係性はお嬢様があの人から離れるまで、言葉で形作ることはなかったのに。
「私にいつ気づかれたんですか」
「千崎劇場で見かけた時だね」
あの時、私だけが気づいたのではなかったのか。
「つい懐かしくてね。支配人……ああ、元支配人か。君がカフェーで女給をしていると聞いたから、どこにいるのか調べさせてもらったんだ」
調べた? はっと息を飲んだ。
偽名を使っていたのに麓音館に辿り着いたのか。もしかして、実のことにも気づいている?
「せっかくだから、恋人の元女中の君に珈琲を一杯御馳走させてくれ」
そう言われて連れてこられたのは、麓音館よりも高級な経営者や文豪が集まると聞くカフェーだった。上品で香り高い匂いが漂う店内は、高級ホテルのように目を惹く家具や調度品が品よく並んでいる。
彼は常連のカフェーなのか、やけに慣れた様子で女給とやり取りをしている。珈琲を、と聞こえたからもう注文をしたようだ。通された席は少し奥まった二人掛けの席で、落ち着いて話ができそうな場所だった。
「急に連れ出して悪かったね」
「いえ。あの、大井様。今日はどうして私を」
向かいの席に座った彼は口の端をゆっくりと持ち上げた。
「久しぶりに月子のことをゆっくり語らいたかったんだ」
「そうですか。大井様がいつ頃日本へお戻りになったか存じ上げませんが……お嬢様がどうされているか、ご存じなんでしょうか?」
にこやかな態度を崩さない彼が何を考えているのかわからない。この男はお嬢様を偲びたいだけなのか。事実を隠して疑問を投げかけた。
「もちろん。非常に残念だよ。お悔やみ申し上げる。葬儀に出たかったのだけどアメリカへ行っていたからね。神様が美しい人を放っておけなかったのだな。月の女神のように美しい人だったから。全くずるい。攫いたかったのは僕なのに」
彼は虚空を見つめた。遠くを見る男の双眸には、まだお嬢様が映っているのだろうか。
「お待たせしました」
「ありがとう」
注文した珈琲を持ってきた女給に彼が気さくに声をかける。品のある洋皿に乗ったカップに注がれた珈琲がそれぞれの目の前に置かれた。それ以外に私の目の前に置かれたものがもう一つあった。
「これは……」
硝子の器に上品に乗せられたチョコレート。目を丸くしている内に女給が去り、彼からどうぞ、と勧められた。
「月子が好きだったでしょう。君もよく知っていると思うけれど」
この男はお嬢様にチョコレートをよく贈っていた。うちのカフェーでも取り扱っているが、こうして改めて言われるとお嬢様の影を探してしまう。
「もちろんです。庶民の私がおこがましいですが、姉妹のように仲良くさせてもらっていましたから」
「姉妹のようにね」
わずかだけれど、彼は気に入らないとでも言うように口の端を歪めた。気に入らないのは私も同じだ。
「あの、お嬢様のことを恋人とおっしゃいましたが、お嬢様と何度もお会いになってはいないはずですよね」
言外に違うのではないかと匂わすと、彼は鼻を鳴らした。
「君が疑うのも無理はない。僕はアメリカが拠点で行き来しているからね。ここ五年間はずっとあちらにいたし。だけど月子とは何度も手紙もやり取りをして、彼女の好きなものを贈ったよ。ねえ、月子は僕の贈り物を喜んでくれていた?」
ふと脳裏に口元をほころばせて幸せそうなお嬢様の姿が過った。
「それは、もちろん。特にチョコレートを大事そうに召し上がっていました」
「ふふ。わかってはいたけれど、第三者から聞くとまた格別だね」
口元に弧を描き上機嫌に笑う彼に、胸の内がざわざわと波立ち、唇をぎゅっと引き結んだ。
「僕たちはよく似ていた。だから、すぐに心を通い合わせられたんだ。月子だけだったんだよ、僕のことを理解してくれたのは」
――きっとわたくしたちは似ているのね。
いつだったか、お嬢様が遠くにいるように感じてしまったあの日。あの時のお嬢様が言っていた言葉が脳に蘇った。
「僕の、この立場は厄介だ。自分の望みは叶わないのに、周囲の期待に応えなくてはいけない。そんな苦痛に月子は寄り添い、心を通い合わせてくれた。そして、体もね」
それは、私にとって忘れられない夜だ。引き留めようとした手は虚空を掻き、選ばれなかった私は、息をひそめて眠りもしないでじっと待っていた。
「僕と月子は溶け合った。月子のそんな姿、君は知らないでしょう?」
彼は小首を傾げ、目を細めて私をじっと見た。
知らない、知るわけがない。
私が知っているのは、ふんわりと夜の色香を纏い目元を赤く染めたお嬢様だけだ。私のお嬢様の知らない表情を、この男だけが知っているだなんて。
膝においた両の拳をきつく握りこんだ。
「君が帝都にいるとは思わなかったよ。元気そうだね」
「……そう見えるなら何よりです。私のこと、覚えていらっしゃったんですね」
「月子のことは何でも覚えているよ。月子は僕の恋人だったからね」
恋人。あっさりと私に告げた。
二人の関係性はお嬢様があの人から離れるまで、言葉で形作ることはなかったのに。
「私にいつ気づかれたんですか」
「千崎劇場で見かけた時だね」
あの時、私だけが気づいたのではなかったのか。
「つい懐かしくてね。支配人……ああ、元支配人か。君がカフェーで女給をしていると聞いたから、どこにいるのか調べさせてもらったんだ」
調べた? はっと息を飲んだ。
偽名を使っていたのに麓音館に辿り着いたのか。もしかして、実のことにも気づいている?
「せっかくだから、恋人の元女中の君に珈琲を一杯御馳走させてくれ」
そう言われて連れてこられたのは、麓音館よりも高級な経営者や文豪が集まると聞くカフェーだった。上品で香り高い匂いが漂う店内は、高級ホテルのように目を惹く家具や調度品が品よく並んでいる。
彼は常連のカフェーなのか、やけに慣れた様子で女給とやり取りをしている。珈琲を、と聞こえたからもう注文をしたようだ。通された席は少し奥まった二人掛けの席で、落ち着いて話ができそうな場所だった。
「急に連れ出して悪かったね」
「いえ。あの、大井様。今日はどうして私を」
向かいの席に座った彼は口の端をゆっくりと持ち上げた。
「久しぶりに月子のことをゆっくり語らいたかったんだ」
「そうですか。大井様がいつ頃日本へお戻りになったか存じ上げませんが……お嬢様がどうされているか、ご存じなんでしょうか?」
にこやかな態度を崩さない彼が何を考えているのかわからない。この男はお嬢様を偲びたいだけなのか。事実を隠して疑問を投げかけた。
「もちろん。非常に残念だよ。お悔やみ申し上げる。葬儀に出たかったのだけどアメリカへ行っていたからね。神様が美しい人を放っておけなかったのだな。月の女神のように美しい人だったから。全くずるい。攫いたかったのは僕なのに」
彼は虚空を見つめた。遠くを見る男の双眸には、まだお嬢様が映っているのだろうか。
「お待たせしました」
「ありがとう」
注文した珈琲を持ってきた女給に彼が気さくに声をかける。品のある洋皿に乗ったカップに注がれた珈琲がそれぞれの目の前に置かれた。それ以外に私の目の前に置かれたものがもう一つあった。
「これは……」
硝子の器に上品に乗せられたチョコレート。目を丸くしている内に女給が去り、彼からどうぞ、と勧められた。
「月子が好きだったでしょう。君もよく知っていると思うけれど」
この男はお嬢様にチョコレートをよく贈っていた。うちのカフェーでも取り扱っているが、こうして改めて言われるとお嬢様の影を探してしまう。
「もちろんです。庶民の私がおこがましいですが、姉妹のように仲良くさせてもらっていましたから」
「姉妹のようにね」
わずかだけれど、彼は気に入らないとでも言うように口の端を歪めた。気に入らないのは私も同じだ。
「あの、お嬢様のことを恋人とおっしゃいましたが、お嬢様と何度もお会いになってはいないはずですよね」
言外に違うのではないかと匂わすと、彼は鼻を鳴らした。
「君が疑うのも無理はない。僕はアメリカが拠点で行き来しているからね。ここ五年間はずっとあちらにいたし。だけど月子とは何度も手紙もやり取りをして、彼女の好きなものを贈ったよ。ねえ、月子は僕の贈り物を喜んでくれていた?」
ふと脳裏に口元をほころばせて幸せそうなお嬢様の姿が過った。
「それは、もちろん。特にチョコレートを大事そうに召し上がっていました」
「ふふ。わかってはいたけれど、第三者から聞くとまた格別だね」
口元に弧を描き上機嫌に笑う彼に、胸の内がざわざわと波立ち、唇をぎゅっと引き結んだ。
「僕たちはよく似ていた。だから、すぐに心を通い合わせられたんだ。月子だけだったんだよ、僕のことを理解してくれたのは」
――きっとわたくしたちは似ているのね。
いつだったか、お嬢様が遠くにいるように感じてしまったあの日。あの時のお嬢様が言っていた言葉が脳に蘇った。
「僕の、この立場は厄介だ。自分の望みは叶わないのに、周囲の期待に応えなくてはいけない。そんな苦痛に月子は寄り添い、心を通い合わせてくれた。そして、体もね」
それは、私にとって忘れられない夜だ。引き留めようとした手は虚空を掻き、選ばれなかった私は、息をひそめて眠りもしないでじっと待っていた。
「僕と月子は溶け合った。月子のそんな姿、君は知らないでしょう?」
彼は小首を傾げ、目を細めて私をじっと見た。
知らない、知るわけがない。
私が知っているのは、ふんわりと夜の色香を纏い目元を赤く染めたお嬢様だけだ。私のお嬢様の知らない表情を、この男だけが知っているだなんて。
膝においた両の拳をきつく握りこんだ。


