魅惑的な赤い唇でニッと詠子さんが笑った時、ちょうどカランコロンとドアベルが鳴った。
入って来たのは仕立ての良い着物をまとった中年の女性。あまりカフェーでは見ないお客さんで、眉根を寄せて気難しそうな表情をしていた。
そんなお客さんに詠子さんが近づき、自分をより良く見せることを知っている角度で艶やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ようこそ麓音館へ。お待ちしておりましたわ、鈴木様」
詠子さんが名前を呼んだ。もしかしてこの方が依頼者? 息を潜めて見つめていると、常連の雪江さんが私の側にすすっと近づいて来た。
「八重さん。あの方、私が女中をしている男爵家の奥様の久子様なのぉ。それでね、私が呼んだのよぉ」
「え、雪江さんが?」
「雪江」
凛とした声とともに、すっと鋭い視線が私たちを射抜いた。
「はい、奥様。お待ちしておりましたよぉ」
「八重、お席へ案内するから、メニュー表を持って注文を取りに来てくれるかしら」
「かしこまりました。詠子さん」
詠子さんは男爵家の奥様と雪江さんを衝立のある奥の席へ案内した。そこは私がもう一つの仕事・星占いの「依頼」をする時に使う席だった。
それぞれの席に注文された珈琲をことりと置く。カップにたゆたう黒から湯気が立ち上り、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「……美味しいわ。雪江から美味しい珈琲が飲めると聞いていたけれど、どうやら本当のようね」
上座の席にいる鈴木男爵家の奥様が、麓音館の一番人気の珈琲を上品に一口飲んだ。隣の席には雪江さん、私と詠子さんは向かいの席にいる。
「鈴木様にそう言っていただけると、オーナーとしても鼻が高いですわ」
「それに、星占いをカフェーでするなんて面白いわね」
「麓音館のもう一つの人気メニューですの。うちの八重が流行りの星占いができたものですから、お願いをしたのですよ。ね、八重」
隣に座る詠子さんがにっこりと微笑む。お願いねぇ、と内心苦笑を隠せない。そんなかわいいものではなかったけれど。
商魂逞しい詠子さんは、私が同僚の女給に星占いをしているところを偶然見た。その時、「閃いた、やるしかないわ!」と叫び、戸惑う私の返事を聞くことなく、次の日から提供を始めたのだ。趣味程度だったのに猛勉強することになってしまい、しばらく実が相手をしてくれないとぶーぶー文句を言っていたのを覚えている。
「星占いはどこで身につけたのかしら」
「えっと、昔女中をしていたお屋敷のお嬢様と一緒に学ぶ機会がありまして」
「そうなの。女性はいつの世も占いが好きね。ご令嬢も例外でないのね」
「そう、ですね」
呟いてそっと目を伏せた。軽く目を閉じるだけで、今もお嬢様の姿をありありと想像できる。艶やかな長い髪も黒曜石のような美しい瞳も。
「ところで、依頼の件はどこでお知りになったのですか」
詠子さんが珈琲を一口飲んでから話を促した。
「雪江から聞いたのよ。別れさせ屋をやっていると。このカフェーで星占いをわざわざ依頼すると受けてくれるとか」
「雪江さんからでしたか。別れさせ屋をご利用いただきましたものね」
おっとりと微笑んでいる雪江さんだけど、その実腹黒で欲望に忠実だ。
警官の早川さんと恋人になる前、別れさせ屋に仕事を依頼し、当時早川さんが付き合っていた恋人と別れさせた後、その恋人の座に収まったのだ。
「勝手に教えてごめんなさいねぇ。でも、奥様が困っていたから。ぜひ奥様のお話を聞いていただきたいのぉ」
「お話を伺っても? 鈴木様」
「ええ」
奥様は返事をしたけれど、値踏みするように目を細めてこちらを射抜く。その双眸にぶるりと背筋が粟立った。
「我が男爵家の恥の話になるから他言無用でお願いしたいのだけど」
「もちろんです」
詠子さんが真剣な表情でこくりと頷くと、奥様が一つ深い溜息を零した。
「……では、依頼したいのは当主である夫と浮気相手を別れさせてほしいの。相手は屋敷の若い女中。男爵家当主のあるまじき行為には頭が痛いわ」
「まあ。それは大変ですわね。確かご当主は婿入りなさった方だったと」
「ええ。表向きは夫が当主だけど、我が鈴木家は血筋を重んじる家柄だから私が当主の仕事を」
「なるほど」
「奥様がしっかりと男爵家を守っていらっしゃるのぉ。旦那様なんて仕事も満足にできず浮気して遊んでばかりなのよぉ」
「ゆ、雪江さん。そんなことを言って大丈夫ですか……?」
雇われている立場の雪江さんが明け透けに言うから、女中経験のある私はひやひやしてしまう。
「かまわないわ。雰囲気を裏切る腹の座った雪江を買っているの。それで、夫と女中を別れさせてほしいのだけど、できるかしら?」
「鈴木様。依頼料はそれなりにいただきますがよろしいでしょうか?」
「もちろん……いえ、依頼料は三倍だすわ」
「三倍……!」
瞳をいつも以上にキラキラさせた詠子さんとは対照的に、ひょえって変な声がでそうになった私は何とか手で押さえた。想定以上の高額の依頼料の意味は想像に難くない。
「夫の所業にこれまでは目を瞑っていたけれど、そろそろうちの事業の信用にも関わるから。ここで傾けさせるわけにはいかないのよ」
「鈴木様。依頼を引き受けさせていただきますわ」
「ありがとう。よろしくお願いね」
「良かったですぅ、奥様」
契約成立だ。雪江さんがほっとした表情を見せ、詠子さんが赤い唇を吊り上げてニッと笑った。
「それにしても鈴木様。随分羽振りがよろしいのですね。さすが女性実業家と呼ばれるだけありますわ」
「知っているのね」
入って来たのは仕立ての良い着物をまとった中年の女性。あまりカフェーでは見ないお客さんで、眉根を寄せて気難しそうな表情をしていた。
そんなお客さんに詠子さんが近づき、自分をより良く見せることを知っている角度で艶やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ようこそ麓音館へ。お待ちしておりましたわ、鈴木様」
詠子さんが名前を呼んだ。もしかしてこの方が依頼者? 息を潜めて見つめていると、常連の雪江さんが私の側にすすっと近づいて来た。
「八重さん。あの方、私が女中をしている男爵家の奥様の久子様なのぉ。それでね、私が呼んだのよぉ」
「え、雪江さんが?」
「雪江」
凛とした声とともに、すっと鋭い視線が私たちを射抜いた。
「はい、奥様。お待ちしておりましたよぉ」
「八重、お席へ案内するから、メニュー表を持って注文を取りに来てくれるかしら」
「かしこまりました。詠子さん」
詠子さんは男爵家の奥様と雪江さんを衝立のある奥の席へ案内した。そこは私がもう一つの仕事・星占いの「依頼」をする時に使う席だった。
それぞれの席に注文された珈琲をことりと置く。カップにたゆたう黒から湯気が立ち上り、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「……美味しいわ。雪江から美味しい珈琲が飲めると聞いていたけれど、どうやら本当のようね」
上座の席にいる鈴木男爵家の奥様が、麓音館の一番人気の珈琲を上品に一口飲んだ。隣の席には雪江さん、私と詠子さんは向かいの席にいる。
「鈴木様にそう言っていただけると、オーナーとしても鼻が高いですわ」
「それに、星占いをカフェーでするなんて面白いわね」
「麓音館のもう一つの人気メニューですの。うちの八重が流行りの星占いができたものですから、お願いをしたのですよ。ね、八重」
隣に座る詠子さんがにっこりと微笑む。お願いねぇ、と内心苦笑を隠せない。そんなかわいいものではなかったけれど。
商魂逞しい詠子さんは、私が同僚の女給に星占いをしているところを偶然見た。その時、「閃いた、やるしかないわ!」と叫び、戸惑う私の返事を聞くことなく、次の日から提供を始めたのだ。趣味程度だったのに猛勉強することになってしまい、しばらく実が相手をしてくれないとぶーぶー文句を言っていたのを覚えている。
「星占いはどこで身につけたのかしら」
「えっと、昔女中をしていたお屋敷のお嬢様と一緒に学ぶ機会がありまして」
「そうなの。女性はいつの世も占いが好きね。ご令嬢も例外でないのね」
「そう、ですね」
呟いてそっと目を伏せた。軽く目を閉じるだけで、今もお嬢様の姿をありありと想像できる。艶やかな長い髪も黒曜石のような美しい瞳も。
「ところで、依頼の件はどこでお知りになったのですか」
詠子さんが珈琲を一口飲んでから話を促した。
「雪江から聞いたのよ。別れさせ屋をやっていると。このカフェーで星占いをわざわざ依頼すると受けてくれるとか」
「雪江さんからでしたか。別れさせ屋をご利用いただきましたものね」
おっとりと微笑んでいる雪江さんだけど、その実腹黒で欲望に忠実だ。
警官の早川さんと恋人になる前、別れさせ屋に仕事を依頼し、当時早川さんが付き合っていた恋人と別れさせた後、その恋人の座に収まったのだ。
「勝手に教えてごめんなさいねぇ。でも、奥様が困っていたから。ぜひ奥様のお話を聞いていただきたいのぉ」
「お話を伺っても? 鈴木様」
「ええ」
奥様は返事をしたけれど、値踏みするように目を細めてこちらを射抜く。その双眸にぶるりと背筋が粟立った。
「我が男爵家の恥の話になるから他言無用でお願いしたいのだけど」
「もちろんです」
詠子さんが真剣な表情でこくりと頷くと、奥様が一つ深い溜息を零した。
「……では、依頼したいのは当主である夫と浮気相手を別れさせてほしいの。相手は屋敷の若い女中。男爵家当主のあるまじき行為には頭が痛いわ」
「まあ。それは大変ですわね。確かご当主は婿入りなさった方だったと」
「ええ。表向きは夫が当主だけど、我が鈴木家は血筋を重んじる家柄だから私が当主の仕事を」
「なるほど」
「奥様がしっかりと男爵家を守っていらっしゃるのぉ。旦那様なんて仕事も満足にできず浮気して遊んでばかりなのよぉ」
「ゆ、雪江さん。そんなことを言って大丈夫ですか……?」
雇われている立場の雪江さんが明け透けに言うから、女中経験のある私はひやひやしてしまう。
「かまわないわ。雰囲気を裏切る腹の座った雪江を買っているの。それで、夫と女中を別れさせてほしいのだけど、できるかしら?」
「鈴木様。依頼料はそれなりにいただきますがよろしいでしょうか?」
「もちろん……いえ、依頼料は三倍だすわ」
「三倍……!」
瞳をいつも以上にキラキラさせた詠子さんとは対照的に、ひょえって変な声がでそうになった私は何とか手で押さえた。想定以上の高額の依頼料の意味は想像に難くない。
「夫の所業にこれまでは目を瞑っていたけれど、そろそろうちの事業の信用にも関わるから。ここで傾けさせるわけにはいかないのよ」
「鈴木様。依頼を引き受けさせていただきますわ」
「ありがとう。よろしくお願いね」
「良かったですぅ、奥様」
契約成立だ。雪江さんがほっとした表情を見せ、詠子さんが赤い唇を吊り上げてニッと笑った。
「それにしても鈴木様。随分羽振りがよろしいのですね。さすが女性実業家と呼ばれるだけありますわ」
「知っているのね」


