望みが叶う瞬間が目の前に現れた時、人は手にすることができるのだろうか。



 鼻をくすぐる香ばしい香りが漂う午後の店内は、私が少しの間女給の仕事に携わっていなくても相変わらずお客さんで賑わっていた。
 千崎劇場での事件から二週間が経ち、私もいつもと同じ日常にすっかり馴染んでいる。

 「ありがとうございました。またお越しください」

 今日も星占いを受けたお客さんをカフェーの玄関口で見送る。カランコロンと鳴るドアベルがまるでお客さんを祝福しているようで。嬉しそうに微笑んでいてくれたから、私もほっこりと胸を温かくしていた。
 今日もいい仕事をしたなぁ。そう思って去っていくお客さんの背を見つめていると、見知った顔がカフェーに近づいてきた。徐々に近づいてくるその人はモダンな洋服姿の綺麗な顔立ちの女性。

 「あれ、玉緒さん?」
 「八重さん、こんにちは!」

 やっぱり玉緒さんだ。彼女はこちらに手を振ってカフェーに辿り着いた。玉緒さんとは事件後、顔を合わせたのは一度だけ。忙しさもあって久しぶりに姿を見た。

 「いらっしゃいませ。お元気そうですね」
 「八重さんも。お礼を言ったっきり、なかなか会えずごめんなさい」
 「とんでもない! こちらも迷惑ばかりをかけてしまってすみませんでした、ってまた以前会った時と同じことを言っていますね」
 「本当ですね」

 互いに目が合うと、噴き出すように笑ってしまった。

 「珈琲を飲んで行かれますか?」
 「それは頂きたいんですけど、今日は面接に来たんです」
 「面接!?」

 予想外の言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 「オーナーの詠子さんに誘われたんですよ」
 「いつの間に……あ、じゃあ奥のお席へご案内しますね」

 店に招き入れるけれど動揺を隠せないまま。厨房近くにいた詠子さんに視線を送ると了承の頷きをくれる。やはり詠子さんが誘ったようだ。そのまま衝立のある奥の席へ玉緒さんを案内した。

 「また、どうしてうちの面接を受けようと思ったんですか?」

 玉緒さんが席に着くやいなや、疑問を投げかけた。

 「それが、あたしが事件に関わっていたことが北園家にバレてしまって。華族は体裁を気にするでしょう? 女中をクビになったんです」
 「え、クビに!?」

 これまた予想外の状況に私は目を丸くした。

 「クビ自体はいいんですよ。我がまま令嬢のお世話から解放されたわけですし。ただ生活費が困るなぁと思っていたら、詠子さんにたまたま道端でお会いしたんです。そうしたら、ここで働いてみないって誘われて」
 「そうだったんですか」

 玉緒さんの顔をじっと見つめるとすっきりと晴れやかな表情をしていて、依頼をしてきた時の玉緒さんと比べるとまるで付き物が落ちたみたいだ。その姿にほっとして胸をなで下ろした。あ、でも……、

 「玉緒さん、女優の方は……?」

 確か千崎劇場は一時閉館していると聞いている。事件があったことが尾を引いているようだけど。

 「今は劇場が閉館しているから舞台は踏めていませんけど、あたし、女優の道を諦めませんよ。新しい支配人が決まれば再開するって話だし、他の劇場に売り込んでもいいですしね」

 綺麗に片目をつぶった玉緒さんはお茶目で可愛らしくて、そして力強かった。きっとたくさんの人に支持される女優さんになるんだろうな、と思うと胸がわくわくした。

 「さすが、玉緒さんです。玉緒さんのような良い女優さんを世間は放っておかないですよ」
 「ありがとうございます。それにね、八重さん。占ってくれたじゃないですか。新しい出会いがあって上手くいくって。それも諦めていませんからね」
 「あくまで占いの結果ですからね。でも玉緒さんなら引く手あまたですよ」
 「ふふ、そうだと良いんですけど。でも、八重さんがあの男前の警察の方と良い感じでしたし、負けてられないですよね」
 「へ?」

 玉緒さんの言葉を咀嚼したとたん、脳がすぐに沸騰して頬が勢いよく熱くなる。

 「わあ、八重さん。顔、真っ赤」
 「え、いや、その」
 「いいなぁ、その恋している感じ。あたしも早く新しい恋がしたい!」

 羨ましそうに見つめてくる玉緒さんだけれど、初心者の私はこの想いを持て余している。気づかない方が良かったのかもしれない。
 千崎劇場の事件以降、再び自宅へ足を運ぶ本多さんに対して、なんとか態度に出さないように振舞ってはいるんだけど、ちゃんとできているのかは不安だ。

 「八重、八重」

 慌てふためいた詠子さんが、私の名を小声で呼びながら奥の席へ駆け込んできた。

 「詠子さん、どうしたんですか」
 「八重に会いたいって人が訪ねてきているんだけど。八重、あの男性と知り合いだったの!? 店内がざわついているのだけど!」
 「え、誰?」

 興奮しているような青ざめているような相反する表情を見せた詠子さんが、私の腕を引っ掴んだ。

 「とにかく来てちょうだい。このままだと女性客が騒ぎ出すわ」
 「ええ!?」
 「玉緒さん、ごめんなさいね。面接は少し待っていてちょうだい」

 詠子さんは玉緒さんの返事を待たずに、私の腕を引っ張られて衝立から出る。詠子さんの言う通り、店内のざわめきの真ん中に、ひと際女性客の注目を浴びる背広姿の男性がいた。
 目にしたとたん、しんと周りの音が聞こえなくなった。ドクン、と激しく心臓が叩く。

 うそ、でしょ。

 目を限界まで開き、息を詰めた。
 そこにいたのは店内の照明に照らされ髪が茶色に見える、少し垂れ目の甘い顔立ちのあの人。
 どうして、ここに。まさかここで会うだなんて思いもしなかった。

 「やあ、久しぶりだね」

 ゆっくりと近づいてきた私に気づくと、にこやかに手を上げて挨拶をした。

 「お待たせしました。この者がお尋ねの女給ですが、本当にお知り合いで?」

 詠子さんが困惑しながら私とあの人とを見比べた。詠子さんからすれば、庶民の私と華族のあの人との接点なんて思いもつかないだろう。

 「そうだよ。葉山で顔を見たっきり五年ぶりくらいかな」

 あの人に視線を寄こされた私は、腹の底の黒い塊がざわりと蠢いた気がした。自分が今どんな表情をしているのかはわからない。
 今だ、やれ、と脳から指令が出る。けれども、今じゃないと冷静な自分が顔を出す。

 冷静になれ。周りに悟られるな。笑え、笑え。

 「ご無沙汰しております。大井様」

 がばりと深く頭を下げた。それと同時に名前がはっきりと店内に響き、彼が誰なのか確信を得たのか、女性客たちがきゃあきゃあと黄色い声を次々と上げた。背中に羨望と嫉妬の視線が次々に突き刺さった。

 「八重。この方、大井財閥の大井伸隆さんなのだけど、本当に知り合いなのね?」
 「はい。昔女中をしていたお屋敷のお嬢様と懇意の方で、存じ上げています」
 「良かった。忘れられていなくて」

 忘れるもんか。白々しい。言葉が喉まで出かかったが、笑顔を保ちなんとか押しとどめた。
 それにしたって、どうして私がここにいるとわかったのだろう。そわりと背筋が寒くなった。

 「少し彼女を借りてもいいかな? せっかく会えたんだ。積もる話もあるから小一時間ほどでいいんだけどね」

 私と何の話をするつもりなのか。貼り付けたようなうすら寒い笑顔に眉を顰める。薄気味悪くて、首に提げているロケットペンダントを着物の上からぐっと握った。

 「それくらいの時間であればかまわないですが……いいの、八重?」

 詠子さんから心配の色を乗せた視線を向けられて、私は大丈夫だと力を込めて一つ頷いた。

 「女給も了承したことですし、お席をご用意しましょうか?」
 「いや。すまない。ここはどうにも落ち着かなくて。外に出るよ」

 おどけるように肩をひょいっとすくめる。彼の悪びれない言葉に詠子さんが苦笑した。

 「そうですか」
 「悪いね、ありがとう。じゃあ、出ようか」

 慌てて白前掛けを脱ぐと、手を差し出してきた詠子さんに小さく感謝を告げて預けた。

 「すみません、少し出ます」
 「戻ってくるのよ」
 「もちろんちゃんとお返ししますよ」

 にっこりと笑みを浮かべた彼に促さて、カフェーの玄関口の扉をくぐる。カランコロンと鳴るドアベルが耳の奥に寒々しく反響した。