「到着しましたよ、正宗様」

 名を呼ばれて静かに瞼を上げれば、車窓から白い洋風の建物が見えた。

 「ありがとう。会ってくる。少し待っていてくれ」
 「お気をつけて」

 運転手の言葉に頷いて自動車から降りた。建物の近くで足を止めて見上げれば、玄関口のアーチ型の屋根が目についた。確かにホテル翡翠楼だ。
 ホテルの正面玄関をくぐり、待ち人のいるロビーへ向かった。高級ホテルらしく華やかで上品な香りが鼻をくすぐる。広いロビーは豪奢な造りで、客が寛げるように優美なソファが整然と設置されていた。
 首を巡らしていると執事服を着た年配の男がこちらに向けて手を上げた。待ち人はどうやら先に到着していたようだ。中折れ帽を脱ぎ、同じように手を上げて挨拶をしながら近づくと、男は美しい姿勢でお辞儀をした。

 「すまない。待たせたか」
 「いえいえ。問題ございませんよ、正宗坊ちゃま」
 「河合、坊ちゃまはやめてくれ。俺はもう三十路に近いんだが」
 「そうでしたね、正宗様」

 にこにこと好々爺の表情をしている河合は、長年本多家の執事長を務めている人物だ。幼い頃から世話になっているせいか、頼み事もしやすいがどうにも頭が上がらない。

 「正宗様。ご依頼のものをお持ちしましたよ」
 河合が上着の隠しから一通の封筒を差し出した。
 「ありがとう。確認させてくれ」

 封筒を受け取り、差し出された手に中折れ帽を預け、互いに手近にあったソファに腰かけた。俺は封筒から書類を取り出して目を通す。

 「珍しいですね。正宗様が調べものを頼むとは」
 「ちょっとな」

 書類の中身は本多家と懇意にしている情報屋に依頼した八重に関することだった。

 「……は?」

 書類に書かれてある文字の上で目が留まり、息を飲んだ。

 ……産んでいない?

 思わず書類を持つ手に力が入った。
 うちと懇意にしている情報屋からもたらされたのは、実が産まれた前後に、八重が結婚をしたことも妊娠や出産をしていたことも形跡がないというのだ。
 じゃあ、実は一体誰の子なんだ。
 書類には八重に形跡がないため父親を辿れない。この先を調べるなら時間が欲しいと書かれている。
 あごに手を当てて思案する。八重に直接聞きいてみるのはどうだろうか。だが、踏み込めばどこかへ行ってしまう危うさが八重にはある。慎重に進めなくては。では、どうすれば。

 「あら、正宗お兄様!」

 思考の海に意識を沈めていたのに、ばちんと現実に引き戻される。
 少女らしい高い声で呼ばれた先に視線を動かすと、お付きの女中を引き連れ、上等な着物を身につけた登美子が近づいてきていた。
 すっと立ち上がった河合が綺麗なお辞儀をする。だが、その挨拶に返すことなく登美子は俺の向かいの席に座った。

 「登美子か。なぜここに? 座っていいとは言っていないが」
 「そんな冷たいことを言わないで、お兄様。今日本多の家に行ったのだけど、ちょうど執事長が珍しく出かけるとこだったの。もしかしたらと思って来てみたのよ。お兄様と会えるなんて運命だわ」

 目を潤ませ頬を少し紅潮させた登美子がじっと見つめてくる。

 「どうやら登美子お嬢様につけられてしまったようですね。申し訳ございません」

 静かに俺の背後に立った河合が囁き、内心で辟易とした。こちらは仕事を抜け出している状態で、面倒ごとは避けたいのだが。
 登美子は従妹だが、何かと相手をしてほしいと昔から強請られる。その行動の源がどこから来ているのかなど、面倒ごとを引き寄せ続ける己の容姿のせいで悲しいくらいよくわかる。

 「登美子。何をしに来た?」
 「そんなの決まっているわ。正宗お兄様に会いに来たのよ」
 「何の用だ」
 「それは……」

 登美子がもじもじとして上目遣いで俺を見た。

 「女学校のお友達のお相手が決まりだして、わたくしもそろそろだと思うの。それでね、お兄様。わたくしたちも進めて良い頃合いだと思って」
 「何を」
 「もう、お兄様ったらわたくしから言わせるの? 婚約のことよ」

 小首を傾げて緩んだ口で言い放った登美子に、はあと深い溜息を零した。

 「登美子。はっきりと言っておくが」
 「はい、お兄様」
 「俺は君と婚約はしない。先日、正式に叔父君に断りを入れている」
 「え……?」

 みるみるうちに登美子の顔色が青ざめて、膝に置いた手で着物をぎゅっと握りしめた。

 「どういうことですか、お兄様」
 「どうもこうもない。これまで叔父君にそれとなく探られてはいたが、本多家としては政略として利点がない君と婚姻は結べない。それに仕事も忙しいし、恋愛事に時間を割くのはちょっとな」

 登美子から視線を逸らして、肩をひょいっとすくめた。

 「でも他の女より、わたくしのこと、相手をしてくれていたじゃない」
 「勘違いをするな。従妹だからだ。それ以上でもそれ以下でもない」
 「は……」

 鋭い目つきで冷たく言いきれば、登美子は呆けたように息を吐き出した後、唇を噛んだ。

 「そんなにあの女がいいの……?」

 呻くような低い声が俺の耳に流れ込む。誰を指しているのかはすぐにわかった。登美子に向き合えば、彼女は顔を俯かせていた。

 「彼女は関係ない。俺自身の話だ。とにかく婚約はしない」

 はっきりと告げて釘を刺す。登美子は肩をぴくりと跳ねさせ、動かなくなった。可哀想なのかもしれない。しかし、これまで女性に気遣って断るなど、良い結果は一つも生まなかった。

 「すまないが、俺はそろそろ仕事に戻らねばならない。君」

 登美子の後ろに控えるおろおろとしている女中に声を掛ける。

 「登美子を北園家にしっかりと送り届けてくれ」
 「は、はい。もちろんでございます」

 こくこくと頷く女中に、俺は一つ頷いて席を立った。

 「河合。行くぞ」
 「かしこまりました。正宗様」

 背中に控える河合を引き連れて、この場から離れた。
 正面玄関に向かいながら、差し出された中折れ帽を被る。
 ちらりと後ろを振り返れば、登美子はどこからか現れた背広姿の男性に慰められているように見えた。
 踵を返すつもりは毛頭なかった。