八重と初めて出会ったのは帝都ではない。
出会ったのは二年前、別荘地の集まる葉山で、華族のパーティーに出席する機会があった時だ。
面倒ではあるが子爵家の子息という立ち位置にいると、どうしても華族主催のパーティーに顔を出す必要がでてくる。うちには長兄がいるが官僚であるから、警保局長である父の名代として駆り出されることがしばしばあった。
わざわざ仕事を休んでまで出席する必要があるのかと思ったが、しっかりと根回し済みの当主である父の意向は無視できない。パーティーに出席し一泊した翌朝、気分転換に海岸沿いを散歩している時のことだった。
翡翠色に似た透明感のある海が白波を立てて、ざざん、と浜辺へ打ち寄せる。身体に潮風を受けながら、何とはなしに視線を向けた先に、二人の女性と小さな子どもが散歩をしていた。
一人は艶やかな黒髪を靡かせた見目麗しい姿を持つ女性。あれはもしかして黒川家のご令嬢か。月の女神のようだと称賛される美貌の持ち主だと聞いていたが、なるほど確かに。
その隣にいるのは女中なのだろう。子どもは女中の子なのかもしれない。
「こっち、こっち!」
「こら、危ないわ。走っちゃだめよ」
「わあ!」
観察しているとよたよたと走っていた子どもが、砂浜に足を取られて躓いた。女中は駆け寄り子どもを優しい手つきで抱き上げる。
「ほら、言ったでしょ。ケガはない?」
「ない!」
にぱっと子どもが笑うと、ふわりと目尻を下げた柔らかな微笑みを浮かべた。
目が、離せない。
海岸に差し込む朝日が照らしたその柔らかな微笑みは、見る者の胸を温かい温度で満たし、銀座の画廊で見た聖母子の絵画のようで神々しい。
心臓の鼓動がひと際大きく動いた。
その微笑みに目を奪われ彼女たちが去っていくまで、息を止めてじっと見つめていた。
名前を知らない、自分の心の深い場所に強く印象付けた彼女。その彼女と再び帝都で出会うなど思ってもみなかった。
再会できたと気がついたのはまさかの所轄署の取調室だったが、彼女が女中らしい姿をしていなければ気が付かなかっただろう。カフェーでは女給らしく白前掛けをして垢抜けた姿をしていたのだから。それに、子どもがいるという言葉も決定的で、思わず目を見開いたほどだ。
あの時の彼女が犯人であるはずがない。一度捕らえた者を手放さない警察の中でそれを証明するために夜中中調べ尽くした。途中、早川から恋人と同じ女中の着物を着ているという証言が飛び出し、それをもとに身元の確認が進められた。身元の確認と夫人の言い分が確かで、証拠もないことから彼女は解放された。
彼女がどんな暮らしをしているのか、なぜ帝都にいるのかは分からない。彼女のことを知りたいという欲のまま、彼女を自宅まで送り届けると、あの海辺にいた子どもが母の名を呼び飛び出した。
「お母さん!」
「実!」
彼女の瞳は一瞬で潤み口元を戦慄かせた。眉を寄せて泣くのを我慢したような表情なのに、なんとか頬を上げて目尻を綻ばせた。
すっとしゃがんだ彼女は駆けてきた小さな身体を抱きとめた。震える小さな手が彼女の背中に回り、その背にぎゅっと皺が寄った。
母と子の互いを想い合うその姿は、二年前の葉山の情景を彷彿とさせ心臓がどくりと大きく高鳴った。
ああ、こんなにも美しい情景がこの世にあるのか。
互いを想い合う美しき母子愛。聖母のような彼女。
その愛に呼応するように、ひたりひたりと己の胸に恋情が降り積もる。
「あんた、誰だ!? お巡りさんなのに、お母さんをいじめていたんじゃないだろうな!」
母を守ろうとする小さな身体が母の愛に応えようと立ちはだかる。その後ろにいる彼女の持つ愛の尊さに胸が震えた。
自分も八重の愛に触れてみたい。八重を、実を手に入れたい。ぐっと拳を握りしめる。
あまり執着心を持たなかった己の心が大きく動いた。
そこからは早かった。実と名乗った子どもの心を掴み、警護と称して八重と実の傍にいる権利を勝ち取った。仕事を終えて八重たちの自宅へ足を運ぶことが日常になった。
「あ、まささん!」
「こんばんは。実」
「いらっしゃいませ。本多さん」
「今日もお邪魔するよ。八重」
そんなやり取りを毎日行う。それは幸せなことではあるけれど、薄いが越えられない壁がある。
「ただいま」「おかえり」の言葉を言い合えない関係性はもどかしい。
己の願いを叶えたいとこんなに願ったことはない、と胸を何度もかき乱された。
自宅に招かれて夕食を共にし、距離が随分と縮まったと思う。
八重に近づくにつれ彼女が聖母でもなんでもなく、どこにでもいる普通の女の子だと分かる。抜けているところはあるし、お人よしでもある。若いながらに実を育てる立派な姿は尊敬の念を抱く。
けれども、彼女に踏み込めばどこかへ消えてしまいそうな危うさも感じていた。
出会ったのは二年前、別荘地の集まる葉山で、華族のパーティーに出席する機会があった時だ。
面倒ではあるが子爵家の子息という立ち位置にいると、どうしても華族主催のパーティーに顔を出す必要がでてくる。うちには長兄がいるが官僚であるから、警保局長である父の名代として駆り出されることがしばしばあった。
わざわざ仕事を休んでまで出席する必要があるのかと思ったが、しっかりと根回し済みの当主である父の意向は無視できない。パーティーに出席し一泊した翌朝、気分転換に海岸沿いを散歩している時のことだった。
翡翠色に似た透明感のある海が白波を立てて、ざざん、と浜辺へ打ち寄せる。身体に潮風を受けながら、何とはなしに視線を向けた先に、二人の女性と小さな子どもが散歩をしていた。
一人は艶やかな黒髪を靡かせた見目麗しい姿を持つ女性。あれはもしかして黒川家のご令嬢か。月の女神のようだと称賛される美貌の持ち主だと聞いていたが、なるほど確かに。
その隣にいるのは女中なのだろう。子どもは女中の子なのかもしれない。
「こっち、こっち!」
「こら、危ないわ。走っちゃだめよ」
「わあ!」
観察しているとよたよたと走っていた子どもが、砂浜に足を取られて躓いた。女中は駆け寄り子どもを優しい手つきで抱き上げる。
「ほら、言ったでしょ。ケガはない?」
「ない!」
にぱっと子どもが笑うと、ふわりと目尻を下げた柔らかな微笑みを浮かべた。
目が、離せない。
海岸に差し込む朝日が照らしたその柔らかな微笑みは、見る者の胸を温かい温度で満たし、銀座の画廊で見た聖母子の絵画のようで神々しい。
心臓の鼓動がひと際大きく動いた。
その微笑みに目を奪われ彼女たちが去っていくまで、息を止めてじっと見つめていた。
名前を知らない、自分の心の深い場所に強く印象付けた彼女。その彼女と再び帝都で出会うなど思ってもみなかった。
再会できたと気がついたのはまさかの所轄署の取調室だったが、彼女が女中らしい姿をしていなければ気が付かなかっただろう。カフェーでは女給らしく白前掛けをして垢抜けた姿をしていたのだから。それに、子どもがいるという言葉も決定的で、思わず目を見開いたほどだ。
あの時の彼女が犯人であるはずがない。一度捕らえた者を手放さない警察の中でそれを証明するために夜中中調べ尽くした。途中、早川から恋人と同じ女中の着物を着ているという証言が飛び出し、それをもとに身元の確認が進められた。身元の確認と夫人の言い分が確かで、証拠もないことから彼女は解放された。
彼女がどんな暮らしをしているのか、なぜ帝都にいるのかは分からない。彼女のことを知りたいという欲のまま、彼女を自宅まで送り届けると、あの海辺にいた子どもが母の名を呼び飛び出した。
「お母さん!」
「実!」
彼女の瞳は一瞬で潤み口元を戦慄かせた。眉を寄せて泣くのを我慢したような表情なのに、なんとか頬を上げて目尻を綻ばせた。
すっとしゃがんだ彼女は駆けてきた小さな身体を抱きとめた。震える小さな手が彼女の背中に回り、その背にぎゅっと皺が寄った。
母と子の互いを想い合うその姿は、二年前の葉山の情景を彷彿とさせ心臓がどくりと大きく高鳴った。
ああ、こんなにも美しい情景がこの世にあるのか。
互いを想い合う美しき母子愛。聖母のような彼女。
その愛に呼応するように、ひたりひたりと己の胸に恋情が降り積もる。
「あんた、誰だ!? お巡りさんなのに、お母さんをいじめていたんじゃないだろうな!」
母を守ろうとする小さな身体が母の愛に応えようと立ちはだかる。その後ろにいる彼女の持つ愛の尊さに胸が震えた。
自分も八重の愛に触れてみたい。八重を、実を手に入れたい。ぐっと拳を握りしめる。
あまり執着心を持たなかった己の心が大きく動いた。
そこからは早かった。実と名乗った子どもの心を掴み、警護と称して八重と実の傍にいる権利を勝ち取った。仕事を終えて八重たちの自宅へ足を運ぶことが日常になった。
「あ、まささん!」
「こんばんは。実」
「いらっしゃいませ。本多さん」
「今日もお邪魔するよ。八重」
そんなやり取りを毎日行う。それは幸せなことではあるけれど、薄いが越えられない壁がある。
「ただいま」「おかえり」の言葉を言い合えない関係性はもどかしい。
己の願いを叶えたいとこんなに願ったことはない、と胸を何度もかき乱された。
自宅に招かれて夕食を共にし、距離が随分と縮まったと思う。
八重に近づくにつれ彼女が聖母でもなんでもなく、どこにでもいる普通の女の子だと分かる。抜けているところはあるし、お人よしでもある。若いながらに実を育てる立派な姿は尊敬の念を抱く。
けれども、彼女に踏み込めばどこかへ消えてしまいそうな危うさも感じていた。


