「あ、本多さん。こちらでしたか」

 ふいに声をかけられて広げていた新聞から顔を上げると、部下である背広姿の早川が俺を覗き込んでいた。
 本日俺が出勤している場所は所轄署ではなく、警視庁の上級取締課である。制服ではなく早川と同じく背広姿の俺は、情報収集も兼ねて自分の席で新聞を読んでいたところだ。
 何の用だと片眉を上げると、近づいた早川が机の上に書類を差し出した。

 「決裁された書類です。課長が渡すようにと」
 「ありがとう、早川。助かる」
 「新聞ですか。わぁ、連日一面を飾っていますね。本多さんが解決した女優詐欺事件。お手柄でしたね」

 早川が人懐っこくにこにこと笑顔を向けてくる。

 「あれは俺だけの手柄じゃないだろう」
 「所轄署が動いていたのは確かですけど、本多さんがこの事件に加わったから事件は解決したんですよ。連続殺人事件の件で犬猿の仲の所轄署に潜り込んでいるから、上級取締課として恩を売れたのは大きい、と課長が喜んでいましたよ。さすが本多さん!」

 声高らかに誇らしげに語る早川に、俺は新聞を畳みながらわずかに苦笑した。
 帝都を巡回する制服姿の巡査部長は仮の姿であり、本来は警視庁の上級取締課の警部補である。上級取締課は華族が関わっていそうな複雑な事件を取り扱っている警視庁に創設された部署だ。部下である早川も上級取締課に所属している。
 今、俺たちが追っている事件は帝都で起こった連続殺人事件だ。新聞にも取り上げられた事件でもあるため、警視庁が総力を挙げて解決する案件の一つになっている。仲の悪い所轄署に潜り込んでいるのはそのためだ。
 その中で起こった事件が女優詐欺事件だ。直属の上司である課長に所轄署の事件を手伝うように言われたのは三週間前。華族出身である山下が関わっていることで動いたのだ。

 「俺としては連続殺人事件の犯人の方を捕まえたかったがな。千崎劇場の山下が怪しいとみていたんだが」
 「空振りでしたね」

 ふうと溜息を吐いた早川が肩を落とした。
 俺たちが目星をつけていた山下は女優詐欺事件の犯人だったが、殺人までは犯してなかったようだ。今は所轄署の留置室にいて余罪を調べられているらしい。そこは所轄署の警官に丸投げして手柄を譲っている。

 「早川、山下は取り調べの中で何か有益な情報を吐いていないのか」
 「うーん、そうですねぇ」

 早川は顎の下に指を添えて、とんとんとんと叩きながら頭の中を探る。

 「そう言えば所轄署の奴らが、山下が妙なことを言っていたと話していましたね」
 「妙なこと?」
 「はい。西洋の逸話の若い乙女の血の話って知っていますか?」
 「若い乙女の血の話?」

 片眉を上げると早川は慎重に口を開いた。

 「依り代の心臓に五人の若い乙女の血を注げば、不老不死になり死者をも復活するって話らしいんですけど、山下がその血を金持ちが欲しているって供述しているらしいんです」
 「若い乙女の血か」

 帝都の連続殺人事件は若い女性が犠牲になっている。これまで三人が犠牲になっていて、刺されている者もいれば血を抜かれている者もいて、共通していることは三人とも多くの血を無くして死亡していることだ。

 「今の話をなぞらえているとも言えなくもないな。八重が第一発見者になった三人目の被害者も若い女性だったしな。彼女の場合、千崎劇場に顔を出している女優だったから、山下と接触したことのある富裕層を当たってみてもいいかもしれない」
 「そうですね。何か糸口が見つかるかも」

 うんうん、と早川が頷くが、あ、と声を上げた。

 「若い乙女って五人ですよね。被害者は今三人。後二人犠牲になるってことですか!?」
 「そうなるな」
 「気をつけてくださいよ。島村さんは警護対象ですけど、若い女性で第一発見者なんだから、狙われかねないです」
 「それは肝に銘じているさ」

 次の犠牲者を出す前に犯人を逮捕したいところなのだが。はあと溜息を零して背凭れに背を預けた。

 「でも、まさか女優詐欺事件に島村さんが関わっているとは」
 「劇場で姿を見た時は肝が冷えたよ」
 「別れさせ屋、でしたっけ?」
 「そう。全く危ないことをする」

 八重の頬が腫れた姿を思い出して眉を顰めた。

 「助けられたから良かったものの、本当に殺人事件に巻き込まれたらどうするつもりだったんだか。八重から目を離すべきじゃなかったな」

 俺がいない間は他の警官に巡回を頼んでいたはずだが、碌に行っていなかったのだろう。八重にあっさり出し抜かれて劇場通いをされていたわけだ。
 職務怠慢に呆れて目頭を揉んでいると、早川は何かを言いたげに目をうるさく輝かせていた。

 「……なんだ」
 「多くの女性から秋波を送られているのに本命を作らないで有名な本多さんが、こんなにも女性に心を砕くとは!」
 「は? 八重だからだが」

 何を当たり前のことを、と首を傾げれば、

 「す、すごい女性が現れましたね」

 早川がごくりと生唾を飲み込んだ。だが、早川は一度周りの様子を伺った後、俺にこっそりと囁いた。

 「でも、彼女、人妻なんですよね。帝都には父親を探しに来たって言ったんでしたっけ」
 「……それを言うな」
 「なに地味に傷ついているんですか」

 頭の後ろをがしがしと掻いて、早川から目を逸らす。
 俺にとって八重は特別な存在だ。それに実も。
 八重、と心の中で呼んでいたことを、うっかり千崎劇場で口にしてしまったが、これからも呼ぶことを許してもらえた僥倖に恵まれた。八重、と胸の内で口にするだけで頬が緩みそうになる。
 けれども、彼女の帝都に来た理由が父親捜しのため。実という息子がいるのだ。父親がいて当然なのだが、八重の身体に先に触れた男がいると思うと、今度は腹の底に潜むどろりとした黒い何かが暴れそうになる。

 「一体誰が父親なんでしょうね?」
 「その話が出てからすでに探りをいれている」
 「うわぁ、相変わらず仕事が早いですね」

 呆れたように目を丸くしながら、今度は早川が俺から目を逸らした。
 父親は誰なのか。八重の口からは教えてもらえない。胸の内がささくれ立ち、あまり使いたくはないが本多子爵家が懇意にしている情報屋に、八重の過去を探らせている。

 「ホントにどれだけご執心なんですか。もしや島村さんの珍しい洋装姿に対しても……」
 「あの姿は本当に可愛かった。だから早く記憶から消してくれ、早川。八重が穢れる」
 「やっぱり! ひどいですよ、本多さん!」
 「うるさいぞ。そろそろ仕事に戻れ」

 しっしっと手で追い払いながら、俺は腕時計を確認してがたりと席を立つ。早川が不思議そうな顔をした。

 「あれ、どこかに行かれるんですか?」
 「ああ、人と約束をしている。しばらく席を外す。何かあれば戻ってきてから頼む」
 「わかりました。いってらっしゃい」

 中折れ帽を被り、早川に見送られて上級取締課を出る。そのまま警視庁の玄関を出て、通りに待たせている自動車に乗り込んだ。自動車は本多家が所有しているもので使用人に迎えを頼んでいた。

 「正宗様。お待ちしておりました」
 「ホテル翡翠楼まで頼む」
 「かしこまりました」

 運転手に目的地を告げた後、発動機が唸りを上げて車体を揺らしながら動き出す。車内の席の背凭れに身体を預けて、しばしの休息を取るために目を瞑った。