「本多さん、本当に偶然だったんですか?」
隣の本多さんだけに聞こえるように声量を落として問う。どうして都合よく警官である本多さんがここにいたのか、気になって仕方がなかったのだ。
「以前、別の事件を担当するって伝えただろう?」
「そう聞いてはいましたけど……」
疑問がありありと表情に出ていたのだろう、ここだけの話にしてくれ、と本多さんが前置きをした。
「千崎劇場できな臭い情報がいくつか入っていたから、巡回しつつ監視体制を取っていたんだ。今日は本当に偶然で、俺が監視役だったってだけだ」
「事件って、ここで?」
「そうだ。言うなれば女優詐欺事件だな。山下からの被害を女優が客に漏らしたのがきっかけだ。客から警察へ一報が入ったんだ。それから彼女が山下の恋人である情報などを含めて色々調べを進めていてな。今日に繋がったというわけだ」
「そうだったんですね」
「山下は華族出身で詐欺だけじゃなく恐喝、暴行もある。たちが悪い。被害者もまだまだいそうだし、余罪がありそうだな」
「だったら、これを使いませんか?」
私は白前掛けの隠しに入れていた帳面を取り出した。
「これは?」
「山下さんの裏帳簿です」
「は!? 見せてくれ」
すぐさま帳面を手に取った本多さんはそれをパラパラと捲り、その目が徐々に見開いていった。
「八重、お手柄だ。被害者の女優たちの名前が一目瞭然だ。これをどこで?」
「さっきの部屋ですよ。偶然見つけたんです」
本当は探し回っていたけれど、それを言うと色々とばれそうだからしっかりと口を噤んだ。
「ありがとう、助かった。預からせてもらう」
「よろしくお願いします」
頭を下げると本多さんが大きく頷いた。まさか帳簿の使い道がこんなことになるなんて想定外だったけど、概ね目的は達成されたので良しとしよう。
山下さんはもう塀の中なのは確定的で、玉緒さんと彼との恋人関係は自然と切れるだろう。
「さてと、八重。俺としてはなぜこんな無茶をやっているのか、しっかり聞きたいところなんだが」
「え」
ひくりと口の端が引き攣った。
「な、な、何のことでしょうか」
「カフェーの女給がこんなところにいるのは不自然だろう。ああ、カフェーの裏の顔が関係していれば自然か」
顎に手を当てて思案しているような姿を見て唖然とした。どこまでこの人に見透かされているんだろう。余計な面倒ごとは抱えたくないのに。とにかく誤魔化さなきゃ。
「あ、あの。これから私も警察に行って、事情聴取に行くんですよね!? 当事者だし、あの時のことを聞かれるんだろうなぁ!」
「いや、事情聴取はしない」
「何で!?」
下手な誤魔化し方が吹っ飛ぶような回答だ。
「八重にはすぐに手当が必要だし、それは先ほどの女性に任せる。カフェーの裏の顔のこともあってややこしくなりそうだからな。それに実が待っている」
「あ……」
以前のように警察署で足止めをされてしまえば、自宅に帰れないこともあるわけで。そうなればまた実に淋しい思いをさせてしまう。それだけは避けたい。
「ただ車の中で手当てをしながら話を聞かせてもらう。逃す気はないからな」
「えー」
思わず実とそっくりの返事をしてしまい、本多さんが少し目を丸くした後、くすりと笑った。
もう本多さんの人となりを知っていると言えども、警察官に別れさせ屋の話をするのは気が引ける。ごめんなさい、詠子さん。今回は逃れられないようです。
「外に車を待たせている。行こう、八重」
こくりと頷きながら、唇がむずむずとした。そ、そうだ、聞きたいことがあったんだった。つい目を逸らしていたのだけど、どうしても心臓が小さく跳ねてしまうから。
「ところで、あの。一つ私から聞きたいことが……」
少し戸惑いながら声をかければ、進もうとした本多さんの足がぴたりと止まった。
「どうした?」
「その、名前」
「名前?」
「さ、さっきから八重って……」
ちらりと見上げると、本多さんの頬が一気に赤く染まった。すぐに顔を横に逸らして口元を抑える。つられて私の頬も熱くなった。
「す、すまない。つい」
よくよく見ると耳まで真っ赤だ。珍しい。照れて慌てている本多さんの表情を初めて見た。
「その、あの時は……居ても立っても居られなくてだな」
しどろもどろになる本多さんも珍しくて。心臓がトンと一拍跳ね上がった。
「名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかったので」
自分の名前を呼ぶ人はそう多くはない。帝都に来てから名前を呼ばれて親しみを感じる人もいれば、距離を取りたくなる人もいる。
本多さんの艶めいた低音に名を呼ばれるのは、嫌じゃない。むしろ、もっと……。
「すまない。不快だったのなら」
「……いいですよ、本多さんになら」
「え?」
「名前」
目の前で本多さんの喉仏がこくりと上下に動く。
「呼んでも、いいのか」
彼の真剣な双眸は私を見つめ、小さな声で伺う。私は一呼吸してから口を開いた。
「はい」
私の、たった一言なのに。
大事なものを貰ったとでも言うように、彼は眉尻も目尻も下げてはにかむように笑った。
それを目にしたとたん、目の奥が星でも降ったかのようにチカチカと煌めく。その煌めきは胸に届き形を作った。
ああ、好きだな。
ぽろりと胸の内に零れた、想い。心臓がとくんと優しく鳴った。
私、本多さんのこと、好きなんだ。
私の想いはすとんと肚に落ちる。それは細胞を通して熱へと変わり、じわじわと身体全体に行き渡っていく。
「ありがとう、八重」
本多さんに呼ばれた名前が、特別な響きを持ったように耳に届いた。脳の奥を揺らしたその声はゆっくりと神経を通り抜け、私の身体の中心をぎゅっと締め付けた。
どうして今この時に、この想いを知ってしまったのだろう。
胸が、痛かった。
隣の本多さんだけに聞こえるように声量を落として問う。どうして都合よく警官である本多さんがここにいたのか、気になって仕方がなかったのだ。
「以前、別の事件を担当するって伝えただろう?」
「そう聞いてはいましたけど……」
疑問がありありと表情に出ていたのだろう、ここだけの話にしてくれ、と本多さんが前置きをした。
「千崎劇場できな臭い情報がいくつか入っていたから、巡回しつつ監視体制を取っていたんだ。今日は本当に偶然で、俺が監視役だったってだけだ」
「事件って、ここで?」
「そうだ。言うなれば女優詐欺事件だな。山下からの被害を女優が客に漏らしたのがきっかけだ。客から警察へ一報が入ったんだ。それから彼女が山下の恋人である情報などを含めて色々調べを進めていてな。今日に繋がったというわけだ」
「そうだったんですね」
「山下は華族出身で詐欺だけじゃなく恐喝、暴行もある。たちが悪い。被害者もまだまだいそうだし、余罪がありそうだな」
「だったら、これを使いませんか?」
私は白前掛けの隠しに入れていた帳面を取り出した。
「これは?」
「山下さんの裏帳簿です」
「は!? 見せてくれ」
すぐさま帳面を手に取った本多さんはそれをパラパラと捲り、その目が徐々に見開いていった。
「八重、お手柄だ。被害者の女優たちの名前が一目瞭然だ。これをどこで?」
「さっきの部屋ですよ。偶然見つけたんです」
本当は探し回っていたけれど、それを言うと色々とばれそうだからしっかりと口を噤んだ。
「ありがとう、助かった。預からせてもらう」
「よろしくお願いします」
頭を下げると本多さんが大きく頷いた。まさか帳簿の使い道がこんなことになるなんて想定外だったけど、概ね目的は達成されたので良しとしよう。
山下さんはもう塀の中なのは確定的で、玉緒さんと彼との恋人関係は自然と切れるだろう。
「さてと、八重。俺としてはなぜこんな無茶をやっているのか、しっかり聞きたいところなんだが」
「え」
ひくりと口の端が引き攣った。
「な、な、何のことでしょうか」
「カフェーの女給がこんなところにいるのは不自然だろう。ああ、カフェーの裏の顔が関係していれば自然か」
顎に手を当てて思案しているような姿を見て唖然とした。どこまでこの人に見透かされているんだろう。余計な面倒ごとは抱えたくないのに。とにかく誤魔化さなきゃ。
「あ、あの。これから私も警察に行って、事情聴取に行くんですよね!? 当事者だし、あの時のことを聞かれるんだろうなぁ!」
「いや、事情聴取はしない」
「何で!?」
下手な誤魔化し方が吹っ飛ぶような回答だ。
「八重にはすぐに手当が必要だし、それは先ほどの女性に任せる。カフェーの裏の顔のこともあってややこしくなりそうだからな。それに実が待っている」
「あ……」
以前のように警察署で足止めをされてしまえば、自宅に帰れないこともあるわけで。そうなればまた実に淋しい思いをさせてしまう。それだけは避けたい。
「ただ車の中で手当てをしながら話を聞かせてもらう。逃す気はないからな」
「えー」
思わず実とそっくりの返事をしてしまい、本多さんが少し目を丸くした後、くすりと笑った。
もう本多さんの人となりを知っていると言えども、警察官に別れさせ屋の話をするのは気が引ける。ごめんなさい、詠子さん。今回は逃れられないようです。
「外に車を待たせている。行こう、八重」
こくりと頷きながら、唇がむずむずとした。そ、そうだ、聞きたいことがあったんだった。つい目を逸らしていたのだけど、どうしても心臓が小さく跳ねてしまうから。
「ところで、あの。一つ私から聞きたいことが……」
少し戸惑いながら声をかければ、進もうとした本多さんの足がぴたりと止まった。
「どうした?」
「その、名前」
「名前?」
「さ、さっきから八重って……」
ちらりと見上げると、本多さんの頬が一気に赤く染まった。すぐに顔を横に逸らして口元を抑える。つられて私の頬も熱くなった。
「す、すまない。つい」
よくよく見ると耳まで真っ赤だ。珍しい。照れて慌てている本多さんの表情を初めて見た。
「その、あの時は……居ても立っても居られなくてだな」
しどろもどろになる本多さんも珍しくて。心臓がトンと一拍跳ね上がった。
「名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかったので」
自分の名前を呼ぶ人はそう多くはない。帝都に来てから名前を呼ばれて親しみを感じる人もいれば、距離を取りたくなる人もいる。
本多さんの艶めいた低音に名を呼ばれるのは、嫌じゃない。むしろ、もっと……。
「すまない。不快だったのなら」
「……いいですよ、本多さんになら」
「え?」
「名前」
目の前で本多さんの喉仏がこくりと上下に動く。
「呼んでも、いいのか」
彼の真剣な双眸は私を見つめ、小さな声で伺う。私は一呼吸してから口を開いた。
「はい」
私の、たった一言なのに。
大事なものを貰ったとでも言うように、彼は眉尻も目尻も下げてはにかむように笑った。
それを目にしたとたん、目の奥が星でも降ったかのようにチカチカと煌めく。その煌めきは胸に届き形を作った。
ああ、好きだな。
ぽろりと胸の内に零れた、想い。心臓がとくんと優しく鳴った。
私、本多さんのこと、好きなんだ。
私の想いはすとんと肚に落ちる。それは細胞を通して熱へと変わり、じわじわと身体全体に行き渡っていく。
「ありがとう、八重」
本多さんに呼ばれた名前が、特別な響きを持ったように耳に届いた。脳の奥を揺らしたその声はゆっくりと神経を通り抜け、私の身体の中心をぎゅっと締め付けた。
どうして今この時に、この想いを知ってしまったのだろう。
胸が、痛かった。


