「や、め……っ」
「ただ殺すには惜しい。お前の乙女の血でも貰おうか」
「乙女、血……?」
「知らないか、西洋の逸話で五人の乙女の血を使えば、不老不死になり死者をも復活するって話を」
眉を顰めると、ははっ、と彼が軽く笑った。
「知るわけがないか。洋行帰りの金持ちの話さ。世の中にはそれを欲しがっている人間がいる。お前の血が手に入れば、金持ち連中の仲間入りができるんだ」
まさか。
事件に巻き込まれた時の記憶が脳裏に明滅した。
あの人も若い女性だった。もしかしてこの人、帝都の連続殺人事件の……!?
目を丸くして凝視すれば、ニヤリと口の端を上げた。
まずい。
反射的に身体が逃げを打った。しかし、男の腕がそれを許さず壁にドッ、と私の背中をぶつけた。肺がぎゅっと縮まり一瞬呼吸が止まった。
それと同時に、甲高く不快なピアノの音が天井を跳ね返った。その衝撃は私の背中だけでなく壁を伝って、箒か何かを倒して鍵盤を打ち付けたのだろう。
「逃がす訳ないだろう。乙女の血が手に入るのに」
地を這うような重苦しい低音が耳を支配する。ずるずると壁を伝って座り込み、ガタガタと奥歯が鳴った。
「……良い表情をするじゃないか。犯せばもっと良い表情が見られそうだ。その後ゆっくり血をいただこう」
欲望に濡れた男の双眸に射抜かれて、全身が震えて鳥肌が立った。
「八重!」
刹那、ドゴッ、と重い衝撃音が響いた。目の前にいたはずの山下さんが真横に吹っ飛び、雑然と置かれている物をなぎ倒して床に転がった。ぶわりと白い埃が雪のように舞う。
な、何。
突然のことに両目を見開き、はっはっと浅く短い呼吸しかできない。
呼吸が整わないままそろりと顔を上げると、体格の良い背広を来た男性の、高く上がっていた逞しい脚がゆっくりと降ろされていた。
「現行犯で身柄確保だ」
この艶のある低音、知っている。
ダダダダ、と数人の足音が聞こえたかと思うと、黒い制服が現れた。警官だ。
床に伏してぴくりとも動かなくなった山下さんに近づいた警官たちは、彼の腕を強引に掴むと鈍く光る銀色の手錠を掛けて拘束した。
「八重、無事か?」
「本多、さん?」
呆然としながらぱちぱちと瞬きをして視線を合わすと、いつの間にか私の目の前で片膝をついた本多さんがいた。
「そうだ。俺がいるからもう大丈夫だ」
彼の目元が柔らかく緩んだかと思えば、ふわりと背広を肩にかけられ、そのままぎゅっと強く抱きしめられた。
「無事で良かった」
肩口に頭を乗せているからか、くぐもった声からりありと心配の色が乗っている。その声に押されて、おずおずと腕を伸ばし広い背中に縋りついた。
本多さんの逞しい身体から優しい温度が伝ってきて、震えていた身体が徐々に平穏を取り戻す。思わずほおと安堵の溜息を零した。
この人の腕の中は、ひどく安心する。
「頬が腫れているな。男にやられたか」
私を抱きしめたまま身体を少し離した本多さんに、痛まし気に見つめられた。聞かれるままこくりと頷くと、本多さんのから奥歯をぎりりと噛んだ音がした。
「あの、どうしてここに……」
「それは俺が聞きたいんだが」
「本多さん、男を署に連行します」
「頼む」
疑問は本多さんの苦笑と警官の声にかき消された。警官たちは気絶した山下さんを拘束し引きずりながら階段を降りていく。
「俺たちも行こう」
本多さんに支えられながら、私も警官たちに続いて階段を下りた。
下りた先にある扉から出るとざわめきが大きくなった。役者だけでなく裏方の人まで総出で出てきているようで、この成り行きを見守っている。
「八重さん、無事でしたか!」
劇場の玄関口に向って歩いていると、息を切らせて玉緒さんが駆けてきた。
「玉緒さん」
「良かったぁ。急に姿が見えなくなっていなくなったから心配したんですよ」
そう言って、玉緒さんは私の顔を見るなり固まった。
「やだ! 頬が腫れているじゃないですか。すみません、あの人がやったんですね」
玉緒さんは眉を顰めると私を抱きしめて、震える声でごめんなさい、と小さく呟いた。
「玉緒さんのせいじゃないですよ」
顔を上げさせて覗き込むと玉緒さんが弱々しく笑った。
「私こそすみません。心配をおかけしました。まさか警察沙汰になるだなんて」
暗に依頼のことを仄めかすと、玉緒さんは首を横に振った。
「八重さんのせいじゃないですよ。警察沙汰になったのはあたしのせいなんです」
「え?」
「実はさっきこちらの警察の方が巡回に来られた時に、偶然あたしが対応したんです」
首を傾げていた私に玉緒さんが本多さんを指し示した。
「その時、八重さんをちょうど探していたから、探すのを手伝ってもらったんですよ。そうしたら、八重さんと知り合いだって言うじゃないですか」
ちらりと本多さんを見ると眉を下げて苦笑した。
「偶然こんなところで八重に会って、事件が起こるとは思わなかったがな。ピアノの音が聞こえたから良かったものの。とにかく無事で良かった。後は警察に任せて欲しい。早川」
「はい!」
人好きのする笑みを浮かべた早川さんが、元気よく返事をしながら私たちのところに近寄ってきた。早川さんも来ていたんだ。制服じゃなく背広だなんて珍しい。
「島村さん、ご無事で何よりです」
「ありがとうございます。早川さん」
「早川、こちらの女性から事情聴取をしてくれ。山下の恋人だ」
「ちょっと待ってください、本多さん。玉緒さんは……っ」
なぜそんなことを知っている。まさか玉緒さんを疑っているのか。はっとして本多さんの腕をぐっと掴めば、その手を優しくぽんぽんと叩かれた。
「わかっている。彼女からは今後のことを進めるために話を聞くだけだ。彼女は山下の恋人というだけで、むしろ今回の事件の功労者だからな」
「島村さん、安心してください。彼女に乱暴なことはしませんよ」
柔らかい目で私を見る本多さんと、にこにこと安心させる笑みを浮かべる早川さんを信じてこくりと頷いた。
「ささ、お嬢さん。無理を言いますが署までご同行願います」
「わかりました。八重さん、しっかり手当をして今日は休んでくださいね」
「ありがとうございます。玉緒さん」
お互いに頭を下げ合った後、玉緒さんは早川さんに連れられて劇場を後にした。
「ただ殺すには惜しい。お前の乙女の血でも貰おうか」
「乙女、血……?」
「知らないか、西洋の逸話で五人の乙女の血を使えば、不老不死になり死者をも復活するって話を」
眉を顰めると、ははっ、と彼が軽く笑った。
「知るわけがないか。洋行帰りの金持ちの話さ。世の中にはそれを欲しがっている人間がいる。お前の血が手に入れば、金持ち連中の仲間入りができるんだ」
まさか。
事件に巻き込まれた時の記憶が脳裏に明滅した。
あの人も若い女性だった。もしかしてこの人、帝都の連続殺人事件の……!?
目を丸くして凝視すれば、ニヤリと口の端を上げた。
まずい。
反射的に身体が逃げを打った。しかし、男の腕がそれを許さず壁にドッ、と私の背中をぶつけた。肺がぎゅっと縮まり一瞬呼吸が止まった。
それと同時に、甲高く不快なピアノの音が天井を跳ね返った。その衝撃は私の背中だけでなく壁を伝って、箒か何かを倒して鍵盤を打ち付けたのだろう。
「逃がす訳ないだろう。乙女の血が手に入るのに」
地を這うような重苦しい低音が耳を支配する。ずるずると壁を伝って座り込み、ガタガタと奥歯が鳴った。
「……良い表情をするじゃないか。犯せばもっと良い表情が見られそうだ。その後ゆっくり血をいただこう」
欲望に濡れた男の双眸に射抜かれて、全身が震えて鳥肌が立った。
「八重!」
刹那、ドゴッ、と重い衝撃音が響いた。目の前にいたはずの山下さんが真横に吹っ飛び、雑然と置かれている物をなぎ倒して床に転がった。ぶわりと白い埃が雪のように舞う。
な、何。
突然のことに両目を見開き、はっはっと浅く短い呼吸しかできない。
呼吸が整わないままそろりと顔を上げると、体格の良い背広を来た男性の、高く上がっていた逞しい脚がゆっくりと降ろされていた。
「現行犯で身柄確保だ」
この艶のある低音、知っている。
ダダダダ、と数人の足音が聞こえたかと思うと、黒い制服が現れた。警官だ。
床に伏してぴくりとも動かなくなった山下さんに近づいた警官たちは、彼の腕を強引に掴むと鈍く光る銀色の手錠を掛けて拘束した。
「八重、無事か?」
「本多、さん?」
呆然としながらぱちぱちと瞬きをして視線を合わすと、いつの間にか私の目の前で片膝をついた本多さんがいた。
「そうだ。俺がいるからもう大丈夫だ」
彼の目元が柔らかく緩んだかと思えば、ふわりと背広を肩にかけられ、そのままぎゅっと強く抱きしめられた。
「無事で良かった」
肩口に頭を乗せているからか、くぐもった声からりありと心配の色が乗っている。その声に押されて、おずおずと腕を伸ばし広い背中に縋りついた。
本多さんの逞しい身体から優しい温度が伝ってきて、震えていた身体が徐々に平穏を取り戻す。思わずほおと安堵の溜息を零した。
この人の腕の中は、ひどく安心する。
「頬が腫れているな。男にやられたか」
私を抱きしめたまま身体を少し離した本多さんに、痛まし気に見つめられた。聞かれるままこくりと頷くと、本多さんのから奥歯をぎりりと噛んだ音がした。
「あの、どうしてここに……」
「それは俺が聞きたいんだが」
「本多さん、男を署に連行します」
「頼む」
疑問は本多さんの苦笑と警官の声にかき消された。警官たちは気絶した山下さんを拘束し引きずりながら階段を降りていく。
「俺たちも行こう」
本多さんに支えられながら、私も警官たちに続いて階段を下りた。
下りた先にある扉から出るとざわめきが大きくなった。役者だけでなく裏方の人まで総出で出てきているようで、この成り行きを見守っている。
「八重さん、無事でしたか!」
劇場の玄関口に向って歩いていると、息を切らせて玉緒さんが駆けてきた。
「玉緒さん」
「良かったぁ。急に姿が見えなくなっていなくなったから心配したんですよ」
そう言って、玉緒さんは私の顔を見るなり固まった。
「やだ! 頬が腫れているじゃないですか。すみません、あの人がやったんですね」
玉緒さんは眉を顰めると私を抱きしめて、震える声でごめんなさい、と小さく呟いた。
「玉緒さんのせいじゃないですよ」
顔を上げさせて覗き込むと玉緒さんが弱々しく笑った。
「私こそすみません。心配をおかけしました。まさか警察沙汰になるだなんて」
暗に依頼のことを仄めかすと、玉緒さんは首を横に振った。
「八重さんのせいじゃないですよ。警察沙汰になったのはあたしのせいなんです」
「え?」
「実はさっきこちらの警察の方が巡回に来られた時に、偶然あたしが対応したんです」
首を傾げていた私に玉緒さんが本多さんを指し示した。
「その時、八重さんをちょうど探していたから、探すのを手伝ってもらったんですよ。そうしたら、八重さんと知り合いだって言うじゃないですか」
ちらりと本多さんを見ると眉を下げて苦笑した。
「偶然こんなところで八重に会って、事件が起こるとは思わなかったがな。ピアノの音が聞こえたから良かったものの。とにかく無事で良かった。後は警察に任せて欲しい。早川」
「はい!」
人好きのする笑みを浮かべた早川さんが、元気よく返事をしながら私たちのところに近寄ってきた。早川さんも来ていたんだ。制服じゃなく背広だなんて珍しい。
「島村さん、ご無事で何よりです」
「ありがとうございます。早川さん」
「早川、こちらの女性から事情聴取をしてくれ。山下の恋人だ」
「ちょっと待ってください、本多さん。玉緒さんは……っ」
なぜそんなことを知っている。まさか玉緒さんを疑っているのか。はっとして本多さんの腕をぐっと掴めば、その手を優しくぽんぽんと叩かれた。
「わかっている。彼女からは今後のことを進めるために話を聞くだけだ。彼女は山下の恋人というだけで、むしろ今回の事件の功労者だからな」
「島村さん、安心してください。彼女に乱暴なことはしませんよ」
柔らかい目で私を見る本多さんと、にこにこと安心させる笑みを浮かべる早川さんを信じてこくりと頷いた。
「ささ、お嬢さん。無理を言いますが署までご同行願います」
「わかりました。八重さん、しっかり手当をして今日は休んでくださいね」
「ありがとうございます。玉緒さん」
お互いに頭を下げ合った後、玉緒さんは早川さんに連れられて劇場を後にした。


