「ないなぁ。どこにあるんだろう」

 稽古場の壁に箒を立てかけて、ふうと一息つき肩をぐるぐると回し身体をほぐした。
 自宅から通いながら千崎劇場で探し物を始めて一週間が経った。時折レッスンに呼ばれて一緒に稽古をすることもあったけれど、ほとんどは掃除や整頓ばかりをしているから劇場内が綺麗になっていく。さっきも掃除をしていると、主役を張っている女優さんからお褒めの言葉を頂いたばかりだ。それに玉緒さんからは無理しないでと声をかけられたし。
 ただし、探し物は見つかっていない。自宅に帰ってからも気になってしまうから、上の空の私に実が遊んでくれないと怒っていたっけ。ごめんね、実。私、頑張って見つけるから。

 「結構色んなところを探したんだけどな。次の場所を掃除しに行くかぁ」

 肩を落としたまま、箒を持って稽古場から出て廊下をとぼとぼと歩く。
 稽古場や控室だけでなく舞台の裏も観客席も念入りに調べた。もともと手がかりが少ないから、もしかしたら当てが外れているかもしれない。そうだったら振り出しに戻っちゃうなぁ。はあと深々と溜息を零して、何気なく顔を上げた。

 「あれ? 何だろう」

 奥の稽古場の廊下の暗がりの先に、鈍く光る扉の取っ手が見えた気がする。そう言えば、まだこの先には行ったことがなかったかも。
 辺りを見回し誰にも見られていないことを確認すると、早足で廊下の奥へと進んだ。

 「やっぱり扉があったのね」

 扉の取っ手は金属製で少し錆びついている。ざらりとした取っ手を握ってぐるりとひねると扉が開いた。黴臭い匂いが漂い鼻を突く。仄暗いその場所から現れたのは木造の階段だった。

 「え、階段? ここから二階に行けるのね」

 階段があるとは予想外だ。少しでも光が届くように扉は少し開けたままにして、木製の急な階段を上がった。一段一段上がる度にギイギイと軋む音が響いて耳障りだ。

 「何、ここ……」

 上がり切った先に現れたのは、西洋風の縦型の窓から薄く光が入る空間だった。そこここに雑然と置かれている照明や小道具の数々が目に入る。使われていないのか、埃をかぶってすっかり白くなっている。どうやら倉庫らしい。室内は埃っぽくて喉がイガイガする。
 ただやけに目を惹くものが壁際に置かれていた。竪型の漆黒のピアノだ。こちらもすっかり埃をかぶって白さを纏っていた。

 「もったいない。どうしてこんなところに」

 ピアノを目にしたのは久しぶりで黒川家の別荘以来だ。ピアノの近くの壁に箒を立てかけて懐かしくて近づいてみると、ピアノの端に違和感があった。

 「あれ? ここだけ埃が拭われている」

 埃をかぶっているはずのピアノの鍵盤蓋の端だけが、黒さを取り戻している。しかもなんだかここに手のひらで触ったかのような跡だ。誰かが鍵盤蓋を開けた?

 「開けてみよう」

 鍵盤蓋に手をかけて開けようとしたが思いのほか固い。両の手のひらにぐっと力を入れた。すると、ギギギギ……と嫌な音を立てながら蓋が上がる。
 その時、ボトン、と鈍い音が床を鳴らし、肩がびくんと跳ね上がった。

 「はあ、びっくりした。何か落としてしまったのかなぁ」

 ピアノの下から音がした。現れた鍵盤には見向きもせずに床にしゃがみこんだ。濃い黴臭い匂い鼻を突く。

 「あ……!」

 薄汚れた床に落ちていたのは帳面。しかも目にしたことのあるもの。すぐさま手を伸ばして帳面を拾う。パラパラと帳面をめくれば、女優志望の女性と思われる名前と金額が書かれている。それも数十人も。心臓がどくりと強く叩いた。

 「見つけた」

 これ、山下さんの帳簿だ。裏帳簿の可能性があるもの。まさかこんなところに隠しているだなんて! やっと見つけられた達成感に鼓動が早まる。すぐに白前掛けの隠しの中に帳簿を入れて、元来た場所へ戻るために階段に近づいた。
 瞬間、がちゃん、と扉が閉まった音がした。

 「誰かな、いけないことをしている子は」

 耳が音を捉えた瞬間、ひっ、と喉から悲鳴が漏れた。ギイギイと階段が軋む度に私は後退り、脳にけたたましく警告音が響く。

 「ああ、君か」

 階段を上がってきたのは薄明りでも損なわない美丈夫の山下さんだった。蛇のような目つきで射抜かれ、細かな震えが身体を襲った。

 「こんなところで何をしている」

 唇の震えを抑えながら、声を絞り出した。

 「……掃除です」
 「こんなところまで?」
 「掃除をしていない部屋を見つけたので」
 「へえ。ご丁寧にピアノまで」

 コツコツと革靴の音を響かせて一歩また一歩と近づいてくる。少しでも距離を取りたくてじりじりと一歩ずつ後退った。

 「……何を見た」

 底冷えのする低音に胃がきゅっと縮まった。

 「……何の、ことでしょうか」
 「何を見たと聞いている!」

 バシン、と衝撃音が脳を揺らした。次の瞬間ドン、と全身に激しい痛みが走り抜け、黴臭い匂いが濃くなった。頭が真っ白になり、肺がぐっと締まり上手く呼吸ができない。
 白くなった脳に徐々に彩りが戻ってくれば、自分が床に這いつくばっていることに気づいた。頬が熱くじくじくと神経に痛みを訴えている。頬を容赦なく叩かれたのか。

 「……ない。お前、帳簿をどこにやった?」

 痛む頬を手で押さえて身体を起こすと、ピアノの傍まで来ていた山下さんが私を睨みつけた。この部屋で真っ先に帳簿を気にしたのか。こほっと咳き込でから深い呼吸を一つし、肚に力を入れて立ち上がった。

 「大事な、帳簿なんですね」

 睨み返してやれば、彼が鼻を鳴らした。

 「お前、何を知っている」
 「何も知りませんよ。それが裏帳簿じゃないかと当たりをつけただけで」

 端正な顔が醜く歪んだ。図星、か。

 「頭が回る女だな」

 そう聞こえた瞬間、避ける間もなく一気に壁まで詰め寄られて胸倉をつかまれた。

 「大人しそうな顔をしてとんでもない女が紛れ込んだものだ。このまま絞め殺してやりたいくらいだ」

 山下さんの手が首にかかり軽く力を入れられた。ぐっと喉が閉まり、ひゅっと喉が鳴った。