おはようございます、とそこここで挨拶が溢れる。と言っても、すでに十一時を過ぎた頃で千崎劇場では稽古場でお芝居の稽古が始まるようだ。それから女優の卵たちは基礎レッスンを受けるために、別の稽古場に集合していた。
 翌日、千崎劇場に来た私もレッスンを受けるかと言えばそうではない。今の私は洋服にカフェーで使う白前掛けを身につけ、手には箒を持っている。

 「八重さん。どうしたんですか、その格好!?」

 基礎レッスンの稽古場から顔を出した玉緒さんが、私を見つけて慌てて飛び出してきた。

 「玉緒さん、お稽古があるんじゃ……」
 「ありますよ! 今はそれどころじゃないです。八重さんは一体何をしているんですか!?」
 「今後の費用が足りないって山下さんに伝えたら、裏方の仕事をくれたんです」
 「ええ!?」

 玉緒さんが目を白黒させた。そんな彼女に近づき小声で伝える。

 「昨日伝え忘れたんですけど、レッスンを受けることとは別に裏方の仕事をすることになったんです。玉緒さんの依頼を完遂するには時間がかかりそうなので」
 「だったら、あたしがなんとか出しますよ。あたしがお願いしたことだし」

 私は首を横に振って玉緒さんを押しとどめた。

 「ありがたいですが遠慮します。依頼料は払ってもらっていますし」
 「でも」
 「それよりも教えて欲しいことがあるんです」
 「教えて欲しいこと、ですか」

 こくりと頷くとすぐに玉緒さんは辺りを見回してから、こっちです、と人気の少ない廊下に連れ出してくれた。

 「八重さん、ここなら大丈夫です。それで教えて欲しいことって?」
 「山下さんが持っている帳面のことです」
 「吉郎さんの持っている?」
 「はい。昨日私が費用を支払った時に持っていたんです」

 玉緒さんは小首を傾げて思案し、ああ、と合点が言ったかのように目を開いた。

 「あれは帳簿ですね」
 「やっぱり」

 当たりをつけていたけれど、どうやら正解だったみたい。目の前で書き付けていたのはおそらく私の支払った金額だろう。

 「きちんと帳簿をつけるなんて几帳面なんですね」
 「几帳面というか、お金を増えていくのを眺めるのが好きだと言っていました」

 思わず目が半目になってしまった。なるほど。あの事務所の感性に通ずるものがある。

 「でも、いつもは持ち歩かないんです」
 「持ち歩かない?」
 「はい。あたしも数回しか見ていないし、劇場の帳簿とは違うような気がして。あたしは経理なんてわからないから、なんとも言えないんですけど」

 もしかして支配人しか知りえない、裏帳簿なのかもしれない。

 「仕事は自宅に持ち込まない人だし、どこに隠しているんだか」
 「それ、欲しいですね」
 「欲しい?」

 不思議そうな表情で私を見た玉緒さんに一つ頷く。

 「裏帳簿の可能性があります。それが手に入れば、早い段階で玉緒さんの依頼を完遂できるどころか、警察に突き出して女優さんたちみんなを助けられるかもしれない」

 何の因果か、警官とは知り合いだし。
 じっと玉緒さんを見れば、彼女はごくりと生唾を飲み込んだ。

 「ちょうど裏方の仕事をもらいましたし、劇場を探してみます」
 「あ、あたしにできることは……?」

 私は首を横に振った。

 「いつも通りに振舞ってください。北園家での女中の仕事もいつも通りに。玉緒さんが探すと勘づかれると思いますので」
 「わかりました。八重さんばかりが大変そうですみません」
 「謝らないでください、玉緒さん。これは仕事ですから。さあ、稽古場に戻ってください。さっそく私は探してみます」
 「お願いします。無理はしないでくださいね」

 ぺこりと頭を下げた玉緒さんは背を向けて稽古場へと戻っていった。
 彼の帳簿は一体どこにあるのだろう。帳簿を探して玉緒さんとの別れを要求することはもちろん、あの人に会わせろと脅してやるのだ。私は持っていた箒の柄をぐっと握りしめた。