端的に言うと、お芝居は素晴らしかった。本当に素晴らしかった!
 盛大な拍手が千崎劇場の舞台に贈られたのを見届け、夢心地のまま観客席を後にする。
 支配人の山下さんに誘われた翌日、玉緒さんと連れられて、再び洋服姿で昼公演に足を運んだ。席はやや後ろの方だったけれど舞台の中央から観劇できて、役者が演じる物語を心行くまで堪能した。

 「やあ、舞台は楽しんでもらえたかな?」

 人の流れに流されるまま出口に向かっていると、通路の壁に背を預けた山下さんが私に向って手を上げた。呼ばれていることに気がついた私は、人の波から外れて近づく。

 「山下さん。ありがとうございました。素敵な席を用意してもらって」
 「かまわない。本公演は浅草オペラとはまた違った新劇なんだが、西洋の物語を日本風にした芝居も面白かっただろう?」
 「それはもう! 舞台に惹き込まれてしまって。俳優さんは憂いを帯びた深みのある演技だったし、女優さんは華やかで心を掴まれる演技だったし私の心まで鷲掴みですよ!」

 鼻息を荒くしてこの感動を伝えようとするけれど、それを語るにはもっと語彙力が欲しい! それに玉緒さんも端役で出演していたけれど、目を惹く演技で素敵だったのだ。

 「ははっ、その様子じゃあ楽しんでもらえたようだな」
 「はい!」
 「それじゃあ、今後のことについて話し合おうか」

 目を細めているけれど瞳の奥は笑っておらず、こちらを獲物として定めている視線を寄こされた。あ、仕事中だった。興奮で上がった熱は一気にスンと急降下して、私の意識は現実に帰ってきた。

 「これから事務所へ……って、ちょっと待っていてくれ」

 山下さんはくるりと背を向けて人の波へ足早に進む。何だろう。獲物を置いてどこへ行くのか。

 「大井様!」

 刹那、ぐっと息が詰まった。反射的に視線を向けて目を瞠った。
 そこには背広姿のすらりとした都会風の男性がいた。忘れもしない、劇場の照明に照らされ髪が明るく感じる少し垂れ目の甘い顔立ちの、あの人。

 「ああ、山下さん。こんにちは」
 「来てくださったんですか、大井様。いかがでしたか、今日の芝居は……」

 ざわめきが消失し、二人の会話だけが耳に届く。心臓が重く激しく打ち付け、はっはっと浅く短い呼吸しかできない。

 見つけた。見つけた、見つけた、見つけた!
 大井伸隆だ。

 こんなにも近い。帝都に来て半年間、ずっと探していた。まさか観劇に来ているとは。
 ふとあの人がこちらを見た。視線が絡んだ気がしたが、私に気づいた様子はない。それもそうか。月子お嬢様の女中だったのも五年も前の話。一女中など忘れているだろう。
 近づきたい。このまま近づいてその胸倉をつかんで……!
 今だ、やれ、と脳から指令が出ているのに、身体が金縛りにあったように足が動かない。
 なんで、どうして。そこに、そこにいるのに!
 震える手で首に提げているロケットペンダントをぐっと握った。

 「では、今晩以前の料亭で」
 「大井様、ありがとうございます。会食を楽しみにしております」

 会話が終了し山下さんが会釈をして、あの人は劇場の出口に向かってしまった。
 ああ、行ってしまう!
 奥歯をぐっと噛んで足を動かそうとしていると、それよりも早く山下さんが私のもとへ戻ってきてしまった。

 「おや、どうしたんだ? どこを見て……もしかして、あの大井財閥の御曹司に見惚れていたのか?」
 「え?」

 山下さんが片眉を跳ね上げた。
 見惚れるわけがない。そうではないけれど、そう勘違いをしてくれたのか。

 「女優になれば、あの御曹司に近づけられるぞ」

 顔を寄せられ、私にだけ聞こえるような声量で耳元に告げた。

 「妾も夢じゃないさ。金持ちの言う男の甲斐性というやつだ。ちなみに俺はあの御曹司と懇意だ。見ただろう?」

 そうか。あの人に近づけるまたとない機会なのか。
 別れさせ屋の仕事もあるけれど、山下さんとの接点を深めればあの人とつなげてもらえるかもしれない。半年追ってきたあの人に、近づける。

 「わかりました。私、女優になります」

 睨みつけるように山下さんに宣言した。ニヤリと口の端を上げた山下さんはきっと罠にかかったと思っただろう。

 「なぁに、心配はいらない。俺が君を女優にしてやる。事務所で手続きをしよう。来てくれ」

 山下さんに連れられて、昨日ぶりに千崎劇場の事務所へと足を踏み入れた。

 「そこへ掛けてくれ」

 言われるまま昨日座った古びたソファに再び腰かけると、手のひらほどの帳面を持って山下さんが向かいへ座った。

 「昨日伝えたレッスン料は持ってきたか?」
 「はい」

 持っていた小さなカバンから詠子さんにもらった料金をテーブルに置いた。昨日、詠子さんに状況報告をして相談した際に、必要経費だと言って持たせてくれた費用だ。
 一瞬ギラリと鈍く光ったように見えた双眸見せた山下さんが、テーブルに置いたお金を数え、持っていた帳面に何かを書き付けた。あれはもしかして、帳簿?

 「よしよし。確かに受け取った。これはひと月分だ。来月分は次に支払ってくれ」
 「え、月謝だったんですか!?」

 高額な料金だから、てっきり一回の支払いで済むものだと思っていたのに。目を丸くしていれば、当たり前だと言わんばかりに山下さんが背もたれに深くもたれた。

 「この業界じゃ珍しいことじゃない」
 「でも、すぐに用意できるとは……」

 どうしよう。別れさせ屋の仕事もあるけれど、今のところあの人に近づくためには山下さんの懐に入って繋げてもらうしかない。だけど、時間がかかってもおかしくはない。そうなると費用を用意することが難しい。だって、あの人のことを詠子さんには話していない。その場合、費用はどうしたって自分で出すしかない。

 「なら、仕事をやろう」
 「仕事、ですか」

 思わぬ申し出に、目をぱちぱちと瞬きをした。

 「この劇場の裏方の仕事さ。舞台や稽古場の掃除や衣装、小道具の整理とかだな。金は入用だろう?」
 「そうですけど。いいんですか?」
 「もちろんかまわない。ああ、でも」

 そう区切って、ぐっと身体を前に乗り出してきた。

 「もし俺の女になったら、給金をもっと弾むんだが」

 舞台俳優のように甘く艶めいた声音で囁いた。
 ぞわりと背筋に悪寒が走り、クズが、と脳内の詠子さんが喚いた。

 「それは遠慮します。知っているんですよ。あなたが玉緒さんの恋人だって」
 「潔癖なんだ」
 「純情だと言って欲しいですね」

 私はすくっと立ち上がって、山下さんを見下ろした。

 「いただいた仕事は一生懸命させてもらいます。明日から伺うということでいいですか?」
 「ああ。明日から始めよう」
 「よろしくお願いします。今日は失礼します」

 軽く頭を下げた後、背中にねっとりとした視線を感じたまま、早足に事務所を後にした。