それからというもの、お嬢様は恋のお相手である大井様と何度も手紙のやり取りをされていた。
ただ、身分差があり、ましてや婚約者同士でもない侯爵家の令嬢と男爵家の令息が、そう何度も会えるはずがない。お嬢様たちはこの別荘で開催される年数回のパーティーで、逢瀬を重ねていた。
お嬢様は大井様とダンスを踊るのを楽しみにしていて、私と一緒にダンスの練習を熱心にした。私は踊る場所なんてないのに、すっかり男性も女性も踊れるようになっていた。それから、お嬢様は少し体力がついたように思う。寝込むことが少なくなり顔色が良くなった。小さな頃からお嬢様のお世話をしていた蕗さんが、一番喜んでいたことだ。
一度だけ、大井様と直接会ったことがある。お嬢様が恋をしてから二年経った月夜の美しいあるパーティーの日。
裏方で走り回っていた私は振舞われるお酒を取りに行くため、屋敷の裏庭を通り抜けようとした時だった。
「あ、八重……?」
こんな暗がりに人がいるとは思わず、え、と反射的に振り向けば、思いもよらない人たちがそこにいた。
「え、あ……お、お嬢様……!?」
な、なんでこんなところに……!?
今日も着付けをお手伝いしたドレス姿の麗しいお嬢様と、その隣には見たことがないすらりとした都会風の男性がいる。月明りに透けた明るい茶色に見える髪で少し垂れ目の甘い顔立ちの人。何気なくその男性の手元を見ると、ほっそりとした指が手に絡まっていた。
はっと息を飲んで隣の男性をじっと見た。もしかして、この人が……。
「君、もしかして月子がいつも話している女中さんかな?」
お嬢様、私のことを話しているの……? ちらりとお嬢様を見ると、あちらも私を見ていたのか目線がぱちりと合う。お嬢様はじわじわと頬を染めてから、そっと目線を外した。
ああ、やっぱりこの人は大井様だ。
「ここで会ったことは内緒にしてほしい。僕たちは少しここを離れる」
「あ、あの、一体どこへ」
広間から細く聞こえてくる演奏は鳴りやまない。まだお開きにはなっていないのに。
「聞くだけ野暮だと思わないかい? 帰したくはないけれど、月子はちゃんと送り届けるよ」
「で、でも」
「八重。お願い、今日だけ」
引き留めようとした手が宙に浮いた。少し切羽詰まった声が私を押しとどめる。
お嬢様のそんな声、聞いたこと、ない。
二人の絡まった手にぎゅっと力がこもったのが分かった。
「行こう。月子」
大井様はお嬢様の手をぐっと引っ張り、裏門へ歩き出す。お嬢様もその力に逆らわずついていく。お嬢様は一度だけ私を振り向くと、声を出さずに「ごめんね」と唇を動かす。その後は背を向けて裏門から出て行ってしまった。
しばらく宙に浮いた私の手が、がくりと垂れ下がる。
私のお嬢様が、連れ去られてしまった。
認めたくはない。認めたくはないけれど。お嬢様がどれほどのお気持ちを持っているのかが分かってしまって。唇をぐっと痛いほど嚙みしめた。
その夜、お嬢様が帰ってくるまで、私は息をひそめて眠りもしないでじっと待っていた。
お嬢様が帰って来たのは夜明け前。ふんわりと夜の色香を纏ったお嬢様は、愛しい気持ちを隠さず目元を赤く染めていた。
私にとって忘れられない、夜。
わずかな機会しか会えなくても、二人の手紙のやり取りは頻繁だった。時折、帝都で流行りのチョコレートが贈り物として届く。お嬢様の好きなもの。お嬢様は口元をほころばせて、幸せそうだった。
ただ二人の関係性は、言葉として形作られることはなかったけれど。
「……八重、どうしましょう」
月夜の美しいパーティーから三か月後、椅子に腰かけたお嬢様がいつもなら柔らかな空気を醸し出して手紙を読んでいるのに、今日は俯いたまま手紙を握りしめてぽつりと呟いた。
「お嬢様、どうしましたか?」
「伸隆さんが……一緒にアメリカへ行こうって」
「それって、まさか……」
お嬢様の顔を覗き込むと、眉をひそめて唇を引き結び、込み上げる何かを耐えていた。
「どうなさるおつもりですか? それ……駆け落ちのお誘いですよね」
はっきりと言葉に出せば、お嬢様はこくりと頷いた。
お嬢様と大井様の関係は二年が経っても、黒川の旦那様に許されるものではなかった。
華族といえども身分差があり、またあちらのご両親も政略として黒川を選ばず、別の財閥のご令嬢と婚約を結ばれたと聞いたのは先日のことだ。先に出会ったのはお嬢様なのに。
しばらくの沈黙の後、お嬢様はぐっと手紙を握りしめて、はあと肺から深い溜息を吐き出した。
「わたくしは……行かないわ」
きっとそう言うのだろうと思っていた。お嬢様をずっと見守ってきたから何を言い出すのかは予測ができた。
「そして、もう終わりにしましょう」
静かな室内に重く響いた言葉は、二年続いた細い糸をぷつりと切った。
「お父様が許すはずもないし、伸隆さんにはもうご両親が決めた婚約者がいる。それに、一緒にアメリカへ行きたい、そんな気持ちもあるけれど体の弱い私があちらで耐えられるかどうか……きっとどこまでも伸隆さんに迷惑をかけてしまうわ」
最後の声音は震えていて、形の良い瞳からほろりと涙が零れた。涙は頬を伝い、ほろりと落ちた先の手紙を滲ませた。
「……華族とは、ままならないものね」
「お嬢様」
ほろりほろりと涙は何度も手紙を滲ませる。目を伏せたお嬢様は悲しみに暮れているけれど、どこか透明で清らかでその姿すら美しい。私は跪いてお嬢様の手をそっと取った。
「お嬢様。私がおります」
下から視線を合わせると、眉尻を下げて目に涙を湛えたまま唇に笑みを浮かべた。
「ありがとう、八重。あなたが傍にいてくれるから、決断できたのよ。だって、わたくしはひとりじゃないわ」
「私はいつだってお嬢様のお傍に」
それは私の心からの望み。この人とずっと一緒に生きていく。私がいるから悲しくないのですよ、とそんな気持ちを伝えたくて、お嬢様の手をぎゅっと握った。お嬢様のひんやりとした手に熱を込めるように。
「伸隆さんにお手紙を書くわ。それから八重、後でわたくしのわがまま、聞いてくれる?」
「はい。もちろんです」
あまりわがままを言わないお嬢様が願うことは、何でもかなえてあげたい。それが恋を終わらせるご褒美だとしても。
お嬢様はもう片方の手をお腹にあてて、優しくすりっと擦った。
「伸隆さんから、私は幸せをもらったわ」
顔を上げたお嬢様はもう泣いてはいなかった。
恋は甘くて、こんなにも苦い。
人は望みが叶うことを願うのに、それが本当に幸せになるのかどうかは分からない。
ただ、身分差があり、ましてや婚約者同士でもない侯爵家の令嬢と男爵家の令息が、そう何度も会えるはずがない。お嬢様たちはこの別荘で開催される年数回のパーティーで、逢瀬を重ねていた。
お嬢様は大井様とダンスを踊るのを楽しみにしていて、私と一緒にダンスの練習を熱心にした。私は踊る場所なんてないのに、すっかり男性も女性も踊れるようになっていた。それから、お嬢様は少し体力がついたように思う。寝込むことが少なくなり顔色が良くなった。小さな頃からお嬢様のお世話をしていた蕗さんが、一番喜んでいたことだ。
一度だけ、大井様と直接会ったことがある。お嬢様が恋をしてから二年経った月夜の美しいあるパーティーの日。
裏方で走り回っていた私は振舞われるお酒を取りに行くため、屋敷の裏庭を通り抜けようとした時だった。
「あ、八重……?」
こんな暗がりに人がいるとは思わず、え、と反射的に振り向けば、思いもよらない人たちがそこにいた。
「え、あ……お、お嬢様……!?」
な、なんでこんなところに……!?
今日も着付けをお手伝いしたドレス姿の麗しいお嬢様と、その隣には見たことがないすらりとした都会風の男性がいる。月明りに透けた明るい茶色に見える髪で少し垂れ目の甘い顔立ちの人。何気なくその男性の手元を見ると、ほっそりとした指が手に絡まっていた。
はっと息を飲んで隣の男性をじっと見た。もしかして、この人が……。
「君、もしかして月子がいつも話している女中さんかな?」
お嬢様、私のことを話しているの……? ちらりとお嬢様を見ると、あちらも私を見ていたのか目線がぱちりと合う。お嬢様はじわじわと頬を染めてから、そっと目線を外した。
ああ、やっぱりこの人は大井様だ。
「ここで会ったことは内緒にしてほしい。僕たちは少しここを離れる」
「あ、あの、一体どこへ」
広間から細く聞こえてくる演奏は鳴りやまない。まだお開きにはなっていないのに。
「聞くだけ野暮だと思わないかい? 帰したくはないけれど、月子はちゃんと送り届けるよ」
「で、でも」
「八重。お願い、今日だけ」
引き留めようとした手が宙に浮いた。少し切羽詰まった声が私を押しとどめる。
お嬢様のそんな声、聞いたこと、ない。
二人の絡まった手にぎゅっと力がこもったのが分かった。
「行こう。月子」
大井様はお嬢様の手をぐっと引っ張り、裏門へ歩き出す。お嬢様もその力に逆らわずついていく。お嬢様は一度だけ私を振り向くと、声を出さずに「ごめんね」と唇を動かす。その後は背を向けて裏門から出て行ってしまった。
しばらく宙に浮いた私の手が、がくりと垂れ下がる。
私のお嬢様が、連れ去られてしまった。
認めたくはない。認めたくはないけれど。お嬢様がどれほどのお気持ちを持っているのかが分かってしまって。唇をぐっと痛いほど嚙みしめた。
その夜、お嬢様が帰ってくるまで、私は息をひそめて眠りもしないでじっと待っていた。
お嬢様が帰って来たのは夜明け前。ふんわりと夜の色香を纏ったお嬢様は、愛しい気持ちを隠さず目元を赤く染めていた。
私にとって忘れられない、夜。
わずかな機会しか会えなくても、二人の手紙のやり取りは頻繁だった。時折、帝都で流行りのチョコレートが贈り物として届く。お嬢様の好きなもの。お嬢様は口元をほころばせて、幸せそうだった。
ただ二人の関係性は、言葉として形作られることはなかったけれど。
「……八重、どうしましょう」
月夜の美しいパーティーから三か月後、椅子に腰かけたお嬢様がいつもなら柔らかな空気を醸し出して手紙を読んでいるのに、今日は俯いたまま手紙を握りしめてぽつりと呟いた。
「お嬢様、どうしましたか?」
「伸隆さんが……一緒にアメリカへ行こうって」
「それって、まさか……」
お嬢様の顔を覗き込むと、眉をひそめて唇を引き結び、込み上げる何かを耐えていた。
「どうなさるおつもりですか? それ……駆け落ちのお誘いですよね」
はっきりと言葉に出せば、お嬢様はこくりと頷いた。
お嬢様と大井様の関係は二年が経っても、黒川の旦那様に許されるものではなかった。
華族といえども身分差があり、またあちらのご両親も政略として黒川を選ばず、別の財閥のご令嬢と婚約を結ばれたと聞いたのは先日のことだ。先に出会ったのはお嬢様なのに。
しばらくの沈黙の後、お嬢様はぐっと手紙を握りしめて、はあと肺から深い溜息を吐き出した。
「わたくしは……行かないわ」
きっとそう言うのだろうと思っていた。お嬢様をずっと見守ってきたから何を言い出すのかは予測ができた。
「そして、もう終わりにしましょう」
静かな室内に重く響いた言葉は、二年続いた細い糸をぷつりと切った。
「お父様が許すはずもないし、伸隆さんにはもうご両親が決めた婚約者がいる。それに、一緒にアメリカへ行きたい、そんな気持ちもあるけれど体の弱い私があちらで耐えられるかどうか……きっとどこまでも伸隆さんに迷惑をかけてしまうわ」
最後の声音は震えていて、形の良い瞳からほろりと涙が零れた。涙は頬を伝い、ほろりと落ちた先の手紙を滲ませた。
「……華族とは、ままならないものね」
「お嬢様」
ほろりほろりと涙は何度も手紙を滲ませる。目を伏せたお嬢様は悲しみに暮れているけれど、どこか透明で清らかでその姿すら美しい。私は跪いてお嬢様の手をそっと取った。
「お嬢様。私がおります」
下から視線を合わせると、眉尻を下げて目に涙を湛えたまま唇に笑みを浮かべた。
「ありがとう、八重。あなたが傍にいてくれるから、決断できたのよ。だって、わたくしはひとりじゃないわ」
「私はいつだってお嬢様のお傍に」
それは私の心からの望み。この人とずっと一緒に生きていく。私がいるから悲しくないのですよ、とそんな気持ちを伝えたくて、お嬢様の手をぎゅっと握った。お嬢様のひんやりとした手に熱を込めるように。
「伸隆さんにお手紙を書くわ。それから八重、後でわたくしのわがまま、聞いてくれる?」
「はい。もちろんです」
あまりわがままを言わないお嬢様が願うことは、何でもかなえてあげたい。それが恋を終わらせるご褒美だとしても。
お嬢様はもう片方の手をお腹にあてて、優しくすりっと擦った。
「伸隆さんから、私は幸せをもらったわ」
顔を上げたお嬢様はもう泣いてはいなかった。
恋は甘くて、こんなにも苦い。
人は望みが叶うことを願うのに、それが本当に幸せになるのかどうかは分からない。


