「まさか本多様に会えるなんて!」
 「今日はツイてるわ!」

 二人が出て行ったとたん、頬を染めた女性客が興奮気味に口々にさえずりだした。

 「本多様ってホント男前よね。心が潤っちゃうわ」
 「本多様もいいけれど、私は大井財閥の伸隆様が推しなの。洋行帰りで陽に透けた髪が明るい茶色に見えて王子様みたいなのよ」
 「雑誌で見たわよ。もうすぐ三十路だったかしら。でも奥様も子どももいるでしょう。あたしは断然本多様。あのたくましい腕に抱きしめられたいわぁ。お巡りさんがみんな男前だったらいいのに」
 「え、お巡りさんが来てたの!? ぼく、会ってない!」

 カフェーに似つかわしくない幼い声が天井に跳ね返り、女性客の目が丸くなる。
 あ、出てきちゃだめって言ったのに!

 「あら、実ちゃん。声が聞こえちゃったのかしら」

 詠子さんから優しく声をかけられたのは、店の奥の部屋から出てきた小さな体。一生懸命きょろきょろしながら辺りを探っている。

 「こら、実。出てきちゃだめでしょ」
 「ぼくだって、お巡りさん見たかったのに!」

 ぷっくりと頬を膨らませた実は、慌てて駆け寄った私をじっと睨んでいる。どんぐり眼で睨まれてもかわいいだけなのに。ついつい頬が緩んでしまいそうになるけど、ここは引き締めないと。

 「お母さん、お巡りさんは?」
 「お巡りさんは巡回に行っちゃったわ」
 「えー」
 「残念ね、実。もういないから部屋へ戻りなさい」
 「えー」

 小さな足を踏ん張って、動かないぞと主張する。
 実は今お巡りさんに憧れている。だから、巡回にくるお巡りさんに会うことを楽しみにしているのだ。おそらくまた来るんじゃないかと期待している。実の気持ちもわかるけれどお客さんの目もあるし、早く元いた部屋へ戻ってほしいんだけど。

 「みんなお仕事中よ。実、部屋へ戻りなさい」
 「やだ!」

 思わず口角が下がりへの字になった。苛立つことに、最近あまり言うことを聞かない。これは戻る気配がないわね。
 うーんどうしようか。尋常小学校に通っている近所のお兄ちゃんたちが遊びに誘いに来てくれると助かるんだけど、お昼過ぎのこの時間帯は期待できない。
 ならば。

 「……実。あんまりわがままを言うんだったら、くすぐるわよぉ」
 「わわわ!」

 両手の指先をわきわきと動かすと、実はびくりと肩を跳ねさせ、じりっじりっと後ずさる。実はくすぐられるのが苦手なのだ。

 「まあ、かわいい子。この子は八重さんの息子さん?」

 先ほど占いを受けた玉緒さんが、にこにこと笑顔を浮かべて近づいてきた。おっかなびっくりした実は、ささっと私の背中に隠れてちらちらと様子を伺っている。

 「はい。すみません、騒がしくしてしまって」
 「そんな、全然! こんな幼い頃から顔立ちが整っているなんて、将来楽しみな息子さんですね」
 「いえ、ただのやんちゃ坊主ですよ。頼る親族もいなくてここで待たせてもらっているんです。すぐに戻らせますから」
 「じゃあ、お姉さんと一緒にシベリアでも食べない?」

 玉緒さんは小さな実と視線を合わせて、にっこりと笑った。

 「え! いやいや玉緒さん、そんな……」
 「お礼をしたいんです。八重さんに」

 慌てた私とは対照的に、玉緒さんが静かに呟いた。

 「お、お礼って……すでに星占い分の注文はいただいていますし」

 星占いは最初の注文に追加注文として甘味を注文すると承ることになっているけれど、これ以上いただくのは心苦しくなる。

 「素敵な星占いをしてくれたじゃないですか。あたし、すごく勇気を持てたんですよ」
 「勇気、ですか」

 そんなこと初めて言われた。きっと私はきょとんとしているだろう。
 占いの結果は結局のところ、良いか悪いかの二択だ。占いの結果に一喜一憂するのは良くないけれど、お客さんは自分の想像する現実が欲しいもの。でも、玉緒さんの受け取り方はどうやら違うらしい。

 「だからお礼です。少しの間ですけど、息子さんのこと、見ていますから」
 「で、でも……」
 「八重、お客様に甘えてはどう?」
 「詠子さん」

 会話を聞いていたらしい詠子さんが、私の肩を優しくぽんと叩いた。

 「お客様も実ちゃんも、みんな喜ぶじゃない」
 「……詠子さん、それって売上が上がるからですよね」

 半目でじろりと見れば、うふ、と詠子さんが可愛く笑って陽気に手を挙げた。

 「わかってるじゃなーい。シベリア一つ、注文いただきましたー」

 カウンター越しに料理長から是の返事が返ってくる。ああ、辞退はできなくなってしまった。はあと深く溜息を吐いた後、私はがばりと頭を下げた。

 「玉緒さん、すみません。ありがとうございます」
 「そんな大げさな! 八重さん、こちらこそありがとうございます」

 玉緒さんも頭を下げようとするから慌てて止めると、顔を合わせて二人で吹き出してしまった。お客様に恵まれている。そう思った。

 「さてと、お母さんからのお許しも出たことだし、お姉さんと一緒に食べようか」

 玉緒さんはすっと膝を折って、小さな実と視線を合わせた。

 「君、お名前言えるかな?」
 「実だよ。お姉さん、ありがとう!」

 ぷっくりとしたほっぺたを緩ませて、周りを明るく照らすようににぱっと笑った。

 「か、かわいい! 実くん、お姉さんのお席へ行きましょうね」
 「すみません。しばらくお願いします」
 「任せてください」

 実が玉緒さんに連れられて席へ着く。そわそわして目で追ってしまうけれど、玉緒さんとおしゃべりし出して落ち着いて座っていた。ほっと胸を撫で下ろす。

 「実ちゃんは大丈夫そうね」

 詠子さんがそっと呟いた。

 「すみません。お騒がせしました」
 「いいのよ。実ちゃんは賢い子だから心配していないもの。でも、ちょうど良かったわ」
 「ちょうど良かったって?」
 「もうすぐ特別なお客様が来るの。星占いを依頼されているのよ」

 詠子さんの声色が変わって、私はぴくりと片眉を上げた。

 「依頼、ですか」
 「八重、もう一つのお仕事よ」