その夜、久しぶりに懐かしい夢を見た。
きれい……。
私は目を細めて、洋風の窓から差し込む陽の光に照らされた月子お嬢様を見つめる。
自室の机に向かっているお嬢様の艶のある長い黒髪が光を反射し、この洋館の部屋と相まって一幅の絵画のよう。ほぉ、と溜息を吐いていると、お嬢様の背中がぷるぷると震えた。
「お、お手紙をいただいてしまったわ」
呟きが落とされて、私が渡したお嬢様宛の手紙に何か不備があったのかと思って近づいた。
「月子お嬢様。お手紙に何かまずいことでも……?」
「八重、どうしましょう。伸隆様からお手紙をいただいてしまったわ」
お嬢様を覗き込むと、頬を桃色に染めて、眉をへにょりと下げた表情が飛び込んできた。
「伸隆様……? あの、その方はどなたで?」
お嬢様の専属女中も長くなってきたけれど、その人の名前は知らない。きっと華族なんだろうけれど。
「先日、ここでお父様が主催されたパーティーがあったでしょう?」
「お嬢様がピアノを演奏された日ですね」
パーティーの日はいつだって裏方で走り回っている。でも、お嬢様の素敵なピアノの音は耳に届いていた。何という名の曲なのかは知らない。でも、月光を想像するような旋律でうっとりしたことを覚えている。
「そう。それに出席された大井財閥の伸隆様なのだけど」
「大井財閥?」
「海外との貿易を軸に近年急成長している財閥で、男爵家なのよ。そこのご子息なのだけど……実は、二人きりでお話させてもらって」
「え! お嬢様、二人きりになったんですか!?」
私の素っ頓狂な声が天井に跳ね返る。その瞬間、お嬢様の頬はさらに血色がよくなって、がたりと立ち上がると、勢いよく私の口を塞いだ。
「こ、声が大きいわよ。八重!」
「ふみまへん」
もごもごと謝るとお嬢様の手は離れていき、お嬢様は再び椅子に腰かけた。
「二人きりと言っても広間の片隅よ。私が壁の花になっているのを気づいてくださって、話しかけてくれたの」
「お嬢様、その方とどんな話をされたのですか?」
「その、ピアノ演奏が素敵って褒めてくださったり」
「お嬢様が喝采を浴びてらっしゃったと聞きました。さぞ素敵だったでしょうね」
「それから、ドレス姿がとても綺麗だと褒めてくださったり」
「お嬢様のお姿は月の女神のように神々しい美しさでしたから」
専属女中として着替えのお手伝いをしていたが、薄紫色のドレスがお嬢様の美をよく引き立ていて、うっとりと見惚れるほどだった。
「やだ、八重ったら言い過ぎよ」
「本当のことなのに」
「伸隆様も似たようなことをおっしゃってくださったの。あんまりにも褒めてくださるから、わたくしも燕尾服がお似合いで素敵ですねとお伝えしたら、優しく微笑んでくださって……す、素敵だったの!」
お嬢様の頬は熱を持ったまま。これはひょっとして……なぜか私の心臓の鼓動が早くなっていく。
「……お嬢様からそんなことを聞いたのは初めてです」
「わたくしも初めて言ったもの。それでね、お互いの好きな食べ物がチョコレートで、好きな音楽も一緒だったの。たくさん話をしたのだけど、帰り際に手の甲に口づけをいただいてしまって。これからお手紙を送ってくださるって……」
お嬢様はゆっくりと両手で顔を覆って、何かに耐えるようにぷるぷると震え出した。
「それでこのお手紙なのですね」
「そう。お返事を書くべきよね。でも、何を書いたらいいのかしら。わたくし、男性にお手紙をもらうなんて初めてで、どうしていいのかわからないのよ」
顔を覆った両手が下がると困ったように眉が下がっていて、瞳は雄弁にこちらに助けを求めてくる。
「何て書いてあったのですか?」
「や、八重には秘密よ。内容はわたくしと伸隆様だけが知っていればいいの」
恥ずかしそうに目を逸らしたお嬢様は、それはそれは可愛らしい。けれど、助けを求めているのはお嬢様なのに、手紙の内容を教えてくれないなんて。
……面白くない。だって、お嬢様は私のものなのに。
「別にかまいませんよ。教えてくれなくたって」
ぷっくりと頬を膨らませてすねてみせれば、お嬢様が慌てて顔を覗き込んできた。
「八重を仲間外れにしたんじゃないのよ? もちろん八重も大切よ」
「も、ってことは、お嬢様はその方を大切に想っているのですね」
「た、大切に……そうね、そうなのかもしれないわ。だってわたくしにはわかるの。伸隆様の苦しみが」
「苦しみ、ですか」
ふっと瞳を伏せたお嬢様の密度の濃いまつ毛がふるりと震えた。
「伸隆様は大井財閥のご嫡男で、将来は財閥の頂に立つ方。家からの期待と華族としての評判がその肩に乗る。そのしがらみがわたしくしは嫌でもわかってしまうの。……きっとわたくしたちは似ているのね」
最後の言葉は頼りなげで、でも瞳はどこか大人びていて。心が寄りかかるところを見つけたのか、お嬢様はどこか安堵を漂わせていた。
そんなお嬢様の姿、初めて見た。
いつも傍にいるのに、なぜだかお嬢様が遠くにいるように感じてしまう。私の知らない世界にお嬢様はいる。
「お嬢様の苦しみは、いつだって私が理解したかったんですけど」
ぽつりと呟いた声はさざ波のように私の体に寂しさを伝播させる。そんな私に気が付いたのか、お嬢様が私の手をぎゅっと握った。
「ふふ、八重。ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ。八重にはそのままでいてほしいから」
「お嬢様」
唐突に言葉にしたくなった。
この人は恋をしている、と。
私のちっぽけな嫉妬心も背伸びも、お嬢様は深く優しく呑み込んでいく。
心の拠り所を見つけたお嬢様は、泣きたくなるほどの愛情があふれ出していた。
「さてと。八重、わたくしは返事を書くわ。一人にしてくれる?」
「はい、もちろん。後で紅茶をお持ちしますね」
「ありがとう」
手から温もりが離れる。温もりを与えてくれたその手は、今度はペンを握って送り主へ向けて愛を届けるのだろう。
羨ましい。
素直にそう思った。
きれい……。
私は目を細めて、洋風の窓から差し込む陽の光に照らされた月子お嬢様を見つめる。
自室の机に向かっているお嬢様の艶のある長い黒髪が光を反射し、この洋館の部屋と相まって一幅の絵画のよう。ほぉ、と溜息を吐いていると、お嬢様の背中がぷるぷると震えた。
「お、お手紙をいただいてしまったわ」
呟きが落とされて、私が渡したお嬢様宛の手紙に何か不備があったのかと思って近づいた。
「月子お嬢様。お手紙に何かまずいことでも……?」
「八重、どうしましょう。伸隆様からお手紙をいただいてしまったわ」
お嬢様を覗き込むと、頬を桃色に染めて、眉をへにょりと下げた表情が飛び込んできた。
「伸隆様……? あの、その方はどなたで?」
お嬢様の専属女中も長くなってきたけれど、その人の名前は知らない。きっと華族なんだろうけれど。
「先日、ここでお父様が主催されたパーティーがあったでしょう?」
「お嬢様がピアノを演奏された日ですね」
パーティーの日はいつだって裏方で走り回っている。でも、お嬢様の素敵なピアノの音は耳に届いていた。何という名の曲なのかは知らない。でも、月光を想像するような旋律でうっとりしたことを覚えている。
「そう。それに出席された大井財閥の伸隆様なのだけど」
「大井財閥?」
「海外との貿易を軸に近年急成長している財閥で、男爵家なのよ。そこのご子息なのだけど……実は、二人きりでお話させてもらって」
「え! お嬢様、二人きりになったんですか!?」
私の素っ頓狂な声が天井に跳ね返る。その瞬間、お嬢様の頬はさらに血色がよくなって、がたりと立ち上がると、勢いよく私の口を塞いだ。
「こ、声が大きいわよ。八重!」
「ふみまへん」
もごもごと謝るとお嬢様の手は離れていき、お嬢様は再び椅子に腰かけた。
「二人きりと言っても広間の片隅よ。私が壁の花になっているのを気づいてくださって、話しかけてくれたの」
「お嬢様、その方とどんな話をされたのですか?」
「その、ピアノ演奏が素敵って褒めてくださったり」
「お嬢様が喝采を浴びてらっしゃったと聞きました。さぞ素敵だったでしょうね」
「それから、ドレス姿がとても綺麗だと褒めてくださったり」
「お嬢様のお姿は月の女神のように神々しい美しさでしたから」
専属女中として着替えのお手伝いをしていたが、薄紫色のドレスがお嬢様の美をよく引き立ていて、うっとりと見惚れるほどだった。
「やだ、八重ったら言い過ぎよ」
「本当のことなのに」
「伸隆様も似たようなことをおっしゃってくださったの。あんまりにも褒めてくださるから、わたくしも燕尾服がお似合いで素敵ですねとお伝えしたら、優しく微笑んでくださって……す、素敵だったの!」
お嬢様の頬は熱を持ったまま。これはひょっとして……なぜか私の心臓の鼓動が早くなっていく。
「……お嬢様からそんなことを聞いたのは初めてです」
「わたくしも初めて言ったもの。それでね、お互いの好きな食べ物がチョコレートで、好きな音楽も一緒だったの。たくさん話をしたのだけど、帰り際に手の甲に口づけをいただいてしまって。これからお手紙を送ってくださるって……」
お嬢様はゆっくりと両手で顔を覆って、何かに耐えるようにぷるぷると震え出した。
「それでこのお手紙なのですね」
「そう。お返事を書くべきよね。でも、何を書いたらいいのかしら。わたくし、男性にお手紙をもらうなんて初めてで、どうしていいのかわからないのよ」
顔を覆った両手が下がると困ったように眉が下がっていて、瞳は雄弁にこちらに助けを求めてくる。
「何て書いてあったのですか?」
「や、八重には秘密よ。内容はわたくしと伸隆様だけが知っていればいいの」
恥ずかしそうに目を逸らしたお嬢様は、それはそれは可愛らしい。けれど、助けを求めているのはお嬢様なのに、手紙の内容を教えてくれないなんて。
……面白くない。だって、お嬢様は私のものなのに。
「別にかまいませんよ。教えてくれなくたって」
ぷっくりと頬を膨らませてすねてみせれば、お嬢様が慌てて顔を覗き込んできた。
「八重を仲間外れにしたんじゃないのよ? もちろん八重も大切よ」
「も、ってことは、お嬢様はその方を大切に想っているのですね」
「た、大切に……そうね、そうなのかもしれないわ。だってわたくしにはわかるの。伸隆様の苦しみが」
「苦しみ、ですか」
ふっと瞳を伏せたお嬢様の密度の濃いまつ毛がふるりと震えた。
「伸隆様は大井財閥のご嫡男で、将来は財閥の頂に立つ方。家からの期待と華族としての評判がその肩に乗る。そのしがらみがわたしくしは嫌でもわかってしまうの。……きっとわたくしたちは似ているのね」
最後の言葉は頼りなげで、でも瞳はどこか大人びていて。心が寄りかかるところを見つけたのか、お嬢様はどこか安堵を漂わせていた。
そんなお嬢様の姿、初めて見た。
いつも傍にいるのに、なぜだかお嬢様が遠くにいるように感じてしまう。私の知らない世界にお嬢様はいる。
「お嬢様の苦しみは、いつだって私が理解したかったんですけど」
ぽつりと呟いた声はさざ波のように私の体に寂しさを伝播させる。そんな私に気が付いたのか、お嬢様が私の手をぎゅっと握った。
「ふふ、八重。ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ。八重にはそのままでいてほしいから」
「お嬢様」
唐突に言葉にしたくなった。
この人は恋をしている、と。
私のちっぽけな嫉妬心も背伸びも、お嬢様は深く優しく呑み込んでいく。
心の拠り所を見つけたお嬢様は、泣きたくなるほどの愛情があふれ出していた。
「さてと。八重、わたくしは返事を書くわ。一人にしてくれる?」
「はい、もちろん。後で紅茶をお持ちしますね」
「ありがとう」
手から温もりが離れる。温もりを与えてくれたその手は、今度はペンを握って送り主へ向けて愛を届けるのだろう。
羨ましい。
素直にそう思った。


