とっぷりと日の暮れた夜、どたどたと床を駆ける足音が響いた。
「まささん、こんばんは。いらっしゃい!」
「実、こんばんは。島村さん、お邪魔するよ」
「こんばんは。本多さん」
小さな我が家に似つかわしくない艶のある低音が柔らかく挨拶をする。
本多さんは警官の制服ではなく初めてみる背広姿だったから、心臓が小さく跳ねた。
背が高くがっしりとした身体に背広がよく似合っていて、知的で落ち着きのあるその姿はカフェーの女性客が卒倒して大騒ぎになる状況が目に浮かぶ。
ただ難癖をつけるとするならば、その手に持っている野菜の頭が出ている風呂敷だろうか。
「まささん、遊ぼう!」
「実、すぐに行くから先に準備していてくれるか?」
「わかった!」
元気よく返事をした実は、とたとたと居間へ駆けて行く。
千崎劇場を後にして、カフェーに寄ってから実とともに我が家へ帰ってきた私は、すっかりいつも通りの着物姿に戻って夕飯を作っていた。
「島村さん、これ頼まれていた野菜」
ずいっと差し出されたのは本多さんが持っていた風呂敷。
「すみません、頼んでしまって」
「仕事帰りのついでだったし、俺が作ってもらっているんだから気にしないでくれ」
「ありがとうございます」
それを受け取って隣の台所に移動しながら感謝を伝えれば、当たり前のようについてきた本多さんが目を細めて一つ頷いた。
ふと、こんなに本多さんの近くにいても嫌な感じがしないことに気がついた。昼間に出会った同じ男性の山下さんには、そんなこと思わなかったのに。
「ここに置いておく」
「はい。助かります」
棚の上に置いてもらった風呂敷の包みをほどけば、お願いしていた大根や人参の根野菜や葉物野菜が入っていた。
このやり取りは初めてではない。本多さんの方から作ってもらっている手前、何かさせてほしいとお願いされてしまったから、夕飯代を出してもらっているだけでも助かっているのに、時折甘えてしまっている。
まさか今まで華族の人に頼み事していたなんて思いもよらなかったけれど。よくよく見れば動きが月子お嬢様のように洗練されていて、華族出身であれば違和感がない。
「そうだ、島村さん。オーナーから聞いたがどうして言ってくれなかったんだ」
「何をですか?」
「登美子のことだ」
きょとんとしているとぐっと顔を近づけられ、少し眉の上がった端正な顔立ちが視界いっぱいに広がった。ついでに本多さんから品のある匂いが漂ってきて、心臓が賑やかに鼓動を刻む。
「三日前、従妹の登美子がカフェーに行って、島村さんに失礼なことをしたと聞いた。俺に言ってくれれば良かったのに」
「いいえ、そこまでのことではなかったので」
視線を外して、軽く相手の胸を押して少し距離を取る。男前を間近で見るのは心臓に悪い。
「従妹がすまない」
「本多さんが謝ることでは……」
そう口にした後、可憐でかわいらしい、でも居丈高な登美子さんの顔が浮かんだ。
「あの、婚約される予定だと聞きました」
「は?」
少し息を飲んで本多さんが固まった。
「島村さん、それは誰が」
「登美子さんですけど。まさか婚約予定の女性がいるとは知らなくて。うちの家に呼んでしまって失礼だったんじゃないかと……」
本多さんがはあと深く溜息を零して頭を掻いた。
「島村さん、俺は登美子とは関係ない。登美子が勝手に言っているだけだ」
そうは言っても登美子さんが嘘をついていようがいまいが、華族の人間である本多さんはいずれ良き家柄の女性と結婚することになるだろう。それは当たり前のことで自分たちにはそれだけ壁がある。また少し胸の内がふっと重くなった。
「気にしないでほしい」
「でも……あの、私と実に気を遣ってもらっていますが心配無用ですよ」
「無用って」
「それに、私には実と探すべき父親がいますから」
「……父親」
自分で言って内心唇を噛んだ。自分と本多さんの間に壁があるのも本当だし、父親を探しに来たことは本当なのに。
「ここへは……帝都へは父親を探すために来たのか」
わずかに目を見開いた本多さんが零した言葉に息を飲んだ。
「え……はい」
「そうか」
どうして、それを。
私、どこから来たなんて話、した覚えがないのに。
「まささーん。早くー!」
「今行く」
実の声ではっと我に返る。実に呼ばれた本多さんはくるりと背を向けて居間に向かった。今のことを問いただしたい。でも墓穴を掘ってしまうような気がして口を噤んだ。
「……ご飯作らなきゃ」
その後は慌てて残りの準備をして夕食を作り終えた。
今日の夕飯はご飯と味噌汁はもちろんのこと、カフェーでもらってきたライスカレーの余った材料で作った煮物だ。贅沢に牛肉まで入っている。居間の卓袱台に本日の夕食を並べて、三人でいただきますと口を揃えた。
台所での話からなぜか本多さんは無口で黙々と箸を動かしている。よく観察してみると食べ方が綺麗だ。どうして気がつかなかったんだろう。
そしてその隣にいる実はもりもりと豪快に食べている。口の周りにご飯がついていてお行儀が悪いと思いつつもかわいい。でも、私の目はごまかせませんよ。
「こら、実」
ぴくりと手を止めた実は恐る恐る私を見た。
「嫌いな野菜を本多さんの器に入れてはいけません」
「えー」
実は本多さんの隙を突いて、せっせと嫌いな人参を器へ移していた。
「でも、まささん、ちゃんと食べてくれてるもん」
え、と言葉が詰まっている隙に、実が人参を入れると本多さんがひょいっと食べてしまう。いつもなら実に食べさせてくれるのに。どこかぼんやりとしていて、どうしたんだろう。
「ね!」
「ね、じゃないでしょう、実。あの、本多さん?」
はっと気がついた本多さんは私と目が合うと、珍しくへにょりと眉尻を下げた。
「まささん、こんばんは。いらっしゃい!」
「実、こんばんは。島村さん、お邪魔するよ」
「こんばんは。本多さん」
小さな我が家に似つかわしくない艶のある低音が柔らかく挨拶をする。
本多さんは警官の制服ではなく初めてみる背広姿だったから、心臓が小さく跳ねた。
背が高くがっしりとした身体に背広がよく似合っていて、知的で落ち着きのあるその姿はカフェーの女性客が卒倒して大騒ぎになる状況が目に浮かぶ。
ただ難癖をつけるとするならば、その手に持っている野菜の頭が出ている風呂敷だろうか。
「まささん、遊ぼう!」
「実、すぐに行くから先に準備していてくれるか?」
「わかった!」
元気よく返事をした実は、とたとたと居間へ駆けて行く。
千崎劇場を後にして、カフェーに寄ってから実とともに我が家へ帰ってきた私は、すっかりいつも通りの着物姿に戻って夕飯を作っていた。
「島村さん、これ頼まれていた野菜」
ずいっと差し出されたのは本多さんが持っていた風呂敷。
「すみません、頼んでしまって」
「仕事帰りのついでだったし、俺が作ってもらっているんだから気にしないでくれ」
「ありがとうございます」
それを受け取って隣の台所に移動しながら感謝を伝えれば、当たり前のようについてきた本多さんが目を細めて一つ頷いた。
ふと、こんなに本多さんの近くにいても嫌な感じがしないことに気がついた。昼間に出会った同じ男性の山下さんには、そんなこと思わなかったのに。
「ここに置いておく」
「はい。助かります」
棚の上に置いてもらった風呂敷の包みをほどけば、お願いしていた大根や人参の根野菜や葉物野菜が入っていた。
このやり取りは初めてではない。本多さんの方から作ってもらっている手前、何かさせてほしいとお願いされてしまったから、夕飯代を出してもらっているだけでも助かっているのに、時折甘えてしまっている。
まさか今まで華族の人に頼み事していたなんて思いもよらなかったけれど。よくよく見れば動きが月子お嬢様のように洗練されていて、華族出身であれば違和感がない。
「そうだ、島村さん。オーナーから聞いたがどうして言ってくれなかったんだ」
「何をですか?」
「登美子のことだ」
きょとんとしているとぐっと顔を近づけられ、少し眉の上がった端正な顔立ちが視界いっぱいに広がった。ついでに本多さんから品のある匂いが漂ってきて、心臓が賑やかに鼓動を刻む。
「三日前、従妹の登美子がカフェーに行って、島村さんに失礼なことをしたと聞いた。俺に言ってくれれば良かったのに」
「いいえ、そこまでのことではなかったので」
視線を外して、軽く相手の胸を押して少し距離を取る。男前を間近で見るのは心臓に悪い。
「従妹がすまない」
「本多さんが謝ることでは……」
そう口にした後、可憐でかわいらしい、でも居丈高な登美子さんの顔が浮かんだ。
「あの、婚約される予定だと聞きました」
「は?」
少し息を飲んで本多さんが固まった。
「島村さん、それは誰が」
「登美子さんですけど。まさか婚約予定の女性がいるとは知らなくて。うちの家に呼んでしまって失礼だったんじゃないかと……」
本多さんがはあと深く溜息を零して頭を掻いた。
「島村さん、俺は登美子とは関係ない。登美子が勝手に言っているだけだ」
そうは言っても登美子さんが嘘をついていようがいまいが、華族の人間である本多さんはいずれ良き家柄の女性と結婚することになるだろう。それは当たり前のことで自分たちにはそれだけ壁がある。また少し胸の内がふっと重くなった。
「気にしないでほしい」
「でも……あの、私と実に気を遣ってもらっていますが心配無用ですよ」
「無用って」
「それに、私には実と探すべき父親がいますから」
「……父親」
自分で言って内心唇を噛んだ。自分と本多さんの間に壁があるのも本当だし、父親を探しに来たことは本当なのに。
「ここへは……帝都へは父親を探すために来たのか」
わずかに目を見開いた本多さんが零した言葉に息を飲んだ。
「え……はい」
「そうか」
どうして、それを。
私、どこから来たなんて話、した覚えがないのに。
「まささーん。早くー!」
「今行く」
実の声ではっと我に返る。実に呼ばれた本多さんはくるりと背を向けて居間に向かった。今のことを問いただしたい。でも墓穴を掘ってしまうような気がして口を噤んだ。
「……ご飯作らなきゃ」
その後は慌てて残りの準備をして夕食を作り終えた。
今日の夕飯はご飯と味噌汁はもちろんのこと、カフェーでもらってきたライスカレーの余った材料で作った煮物だ。贅沢に牛肉まで入っている。居間の卓袱台に本日の夕食を並べて、三人でいただきますと口を揃えた。
台所での話からなぜか本多さんは無口で黙々と箸を動かしている。よく観察してみると食べ方が綺麗だ。どうして気がつかなかったんだろう。
そしてその隣にいる実はもりもりと豪快に食べている。口の周りにご飯がついていてお行儀が悪いと思いつつもかわいい。でも、私の目はごまかせませんよ。
「こら、実」
ぴくりと手を止めた実は恐る恐る私を見た。
「嫌いな野菜を本多さんの器に入れてはいけません」
「えー」
実は本多さんの隙を突いて、せっせと嫌いな人参を器へ移していた。
「でも、まささん、ちゃんと食べてくれてるもん」
え、と言葉が詰まっている隙に、実が人参を入れると本多さんがひょいっと食べてしまう。いつもなら実に食べさせてくれるのに。どこかぼんやりとしていて、どうしたんだろう。
「ね!」
「ね、じゃないでしょう、実。あの、本多さん?」
はっと気がついた本多さんは私と目が合うと、珍しくへにょりと眉尻を下げた。


