玉緒さんから聞いていた通り、早速お金の話を持ち出してきた。

 「玉緒。彼女にチラシを」
 「は、はい」
 「おい、もたもたするな。鈍臭い」

 一段低くなった声音に玉緒さんは肩をびくっと跳ねさせた。その冷たく突き放したような物言いに私の胃がキュッと痛くなる。私でさえそうなったのだから、玉緒さんの心情はいかほどか。
 彼女はあたふたしながら棚の引き出しからチラシを取り出すと、私の前に差し出した。

 「あの、これは?」
 「レッスンの内容が書いてある。それからレッスン料はここだ。必要な経費が書いている」
 「……このレッスン料、た、高いですね」

 料金を吹っ掛けられているのか、衣装代から始まり台本代、舞台代、特別講師料など色んな経費が上乗せされて十円と書かれている。
 背中にたらりと冷汗が流れた。これ、払わないと仕事にならないのかな。金に糸目を付けられない懐事情だから、これは詠子さんに相談する必要がある。それに相手は一筋縄でいかなさそうだ。できるだけ私に興味を持ってもらわないと。

 「誰よりも早く帝国劇場の舞台を踏める可能性があるんだ。高くて当然のことだよ。ただ、君の言うことも一理ある」

 芝居がかった口調に引きずられて顔を上げると、山下さんが身を乗り出し、三日月の形に目を細めた。

 「君は本当に運がいいよ。うちの玉緒の知り合いだから紹介割引をつけよう。君だけは二割引きだ」
 「あ、ありがとうございます」

 それでも十分に高い。この後すぐにカフェーに戻って詠子さんに相談しないと。考え事をしていたせいで口を噤んでいると、コツコツコツと爪で肘掛を叩く音がした。

 「君、まだ迷うことがあるのかい?」
 「それは、そうです。お、親に相談しないと……」

 山下さんの爪が上下にコツコツと叩く音を続けた後、そうだ、と言って私をじっと見据えた。

 「明日昼に芝居をやるんだが、君、来ないかい? 特別に観せてあげよう」
 「え、いいんですか!?」
 「ああ、かまわない。芝居を見れば気持ちが固まると思うよ」

 うっかり頬が緩む。仕事中なのに。でも仕事だとしてもお芝居は観たい。観たいものは観たい。まさかお芝居を観ることになるとは思わなかった。

 「ありがとうございます」
 「玉緒、必ず彼女を連れてくるんだ。迷ってはいけないからね」

 男の声音から蛇のようなねっとりとした気配を感じて、ぞわりと肌が粟立った。せっかく気分が上がったのに。親切な言葉に聞こえるけれども、私には逃すなという命令にしか聞こえない。
 こくりと小さく生唾を飲み込んで玉緒さんをちらり伺うと、表情がわずかに強ばっている。恐らく彼女も私と同じように捉えたのだろう。
 ただ釣り針に魚が引っかかったと言える。事を動かすのは次だ。もうこの場からお暇しよう。それにこれ以上、玉緒さんをここに居させたくはない。

 「明日伺いますね。お金のことを早く親に相談したいので、今日のところは帰ります。楽しみにしています。急がなきゃ」

 勢いよく立ち上がって頭をぺこりと下げた。慌てているふりをして強制的にこの場を終了させる。すぐさま玉緒さんの手首を掴んでぐいぐいと強く引っ張り、事務所の扉の取っ手をひねった。

 「明日、忘れるな」
 「もちろんです。失礼しました!」

 バタン、と強く閉まった扉を振り返ることなく、劇場の外まで玉緒さんを引っ張り続けた。

 「八重さん、八重さん!」
 「あ、ごめんなさい。玉緒さん」

 振り返った先に見えた玉緒さんは顔を顰めていて、慌てて掴んでいた手首を放した。

 「引っ張りすぎました。痛かったですよね。ごめんなさい」
 「大丈夫です。気にしないでください。あたしをあの場から連れ出してくれたんですよね」

 私はこくりと頷いたけれど、手首を擦る玉緒さんにバツが悪くなって視線を逸らした。

 「八重さん。今日は八重さんがいたから手を上げられなかったんです。いつもなら気に入らない時は手を上げるから」

 少し震えが混じる彼女の声音が昔の私が発したみたいで、胸がじりじりと痛くなった。

 「玉緒さん、あの」
 「はい」
 「私も折檻を受けてきました」
 「え?」

 玉緒さんが目を見開いて固まった。

 「私、帝都に来る前に女中をしていて、先輩から言われもない折檻を受けていたんです。でも私には助けてくれた人がいた。だから私も、あなたを助けたい」

 ぐっと拳を強く握りしめた。私も月子お嬢様のようにこの人を助けられるだろうか。私を救い出してくれたお嬢様の温かく強い手が忘れられない。あの手がうれしかったから、私もお嬢様のように手を差し伸べたい。

 「ありがとうございます。八重さん。その気持ちに救われます」

 ほろりと玉緒さんの眦から涙が零れた。

 「八重さんにもそんな過去があったんですね。あたしばかりが辛いと思っていました。だめですね」
 「ううん。辛くて当然だと思います。私もそうだったから」
 「いえ、実はあたしだけじゃないんですよ。他の女優志望の子たちも吉郎さんに手を上げられることがあるし。特にお金を払えないという理由で」
 「ひどい、ですね」

 そうでしょう、と言って、玉緒さんは指先で涙をぬぐった。

 「でもね、あたしを含めて、みんな女優になる夢を諦めきれないの」