高く抜けた青空が見える日が三日続いた後、私は市電の駅に降り立った。向かう先である千崎劇場は市電に乗って二駅先、以前足を運んだホテル翡翠楼などがある街の中心街にある。

 「八重さーん、こっちこっち!」

 声が聞こえた方向に振り向くと、人が行き交う道を渡った向かいに、白の細いベルトが印象的な水色のきれいなワンピースを着た玉緒さんが手を振っていた。

 「玉緒さん!」

 ここで待ち合わせはしていなかったのに。少し目を丸くした私は小走りで駆け寄った。

 「迎えにきてくれたんですか!?」
 「もしかしたら迷うかと思って。入れ違いにならなくてよかったです」
 「すみません、わざわざ」
 「気にしないで。あたしが来たかったんですから。一緒に行きましょう」
 「はい。お願いします」

 玉緒さんに促されて目的地に向かって歩きだした。

 「玉緒さんの姿、素敵ですね。普段は洋服なんですか?」
 「そうなんです。女優として和装も洋装も着慣れておきたいんで。八重さんも洋装姿似合っていますよ。かわいい!」

 実は私も詠子さんの洋服を借りてモダンガール姿だ。女優志望という設定でフリルがあしらわれたブラウスとひざ丈のスカートという洋装姿なんだけど。

 「ありがとうございます。玉緒さんに褒めてもらえるのはうれしいんですけど、足元がすうすうして落ち着かないですよ」

 髪もいつもと違いマガレイトに詠子さんに結ってもらい、慣れない服装にそわそわしてしまう。でも、これで女中や女給には見えないだろう。

 「大丈夫。すぐ慣れますよ」

 洋装姿なんて慣れるものなのだろうか。疑問を抱きつつも今日は別れさせ屋の仕事だ。気合を入れつつ冷静に自分の心を整える。
 玉緒さんの依頼を遂行するために、まずは恋人である山下吉郎に接触することにした。玉緒さんの話を聞いただけでは仕事の難易度が分からないと思ったからだ。探りを入れて難易度が低そうならすぐに決行、高そうなら懐に入ってから決行すると決めている。

 「八重さん、ここです」

 しばらく歩いた後、玉緒さんが立ち止まったのは、外観が洋風の二階建ての建物の前。看板には大きく千崎劇場と毛筆で力強く書かれてあった。浅草六区と比べると大人しいけれど幟旗や女優さんの看板が劇所の玄関口を賑やかしている。

 「ここが千崎劇場ですか。初めてきました」
 「さあ、入ってください。吉郎さんには話をつけていますから」

 私がこくりと頷いたのを見て、玉緒さんが劇場の玄関口をくぐり、私もそれに続いた。
 劇場の内部は外観と違い、見慣れた木造の和風の内装だ。少し歩けば舞台と広い観客席が見えた。それを横目に細い通路を通って劇場の奥へ進んでいく。しばらくして事務所と書かれた古びた扉の前に着くと、玉緒さんがコンコン、と扉を叩いた。

 「吉郎さん、この間話した女優志望の子が来ているんですけど」
 「ああ。入ってくれ」

 ハリのある響く男性の声が飛んでくると玉緒さんが扉を開き入室した。その背に続いておずおずと私も入ると、そこは金で縁どられた絵画や壺、高価そうな謎の置物がある華美な部屋だった。派手を好んでいるんだろう。黒川侯爵家の別荘にはなかった感性で落ち着かない。

 「この子が女優志望の子かい?」
 「そうです。吉郎さん」

 ハリのある声の持ち主らしい美丈夫が机に腰かけていた。この人が玉緒さんの恋人か。
 三十代半ばくらいか、彫りの深い顔立ちにシャツにベストを粋に身につけた洋装の姿は、本多さんとはまた違った系統の美貌だ。二枚目の俳優上がりの支配人らしい。彼の側に立った玉緒さんと並ぶとお似合いの美男美女だ。

 「君、名前は?」
 「村島七重と言います」

 別れさせ屋の仕事の時は偽名を使うようにしている。

 「村島さんね、そこに掛けて」

 指し示された古びたソファに腰かけると、テーブルを挟んだ向かいのソファに座った彼に嘗めるように全身をくまなく見られる。蛇のような眼差しに無意識に肌が粟立った。どこか退廃的な匂いもして、玉緒さんには悪いけれどあまり好ましいとは思えない。
 同じ男性の本多さんにはそんなこと思ったことないのに。

 「俺は千崎劇場の支配人の山下だ。女優になりたいんだって?」

 長い足を組んだ山下さんは首を傾げて、私をじっと見た。

 「はい。劇場で華やかな女優さんたちを見たら、もう憧れちゃって。玉緒さんが女優をしていると聞いて、すぐに紹介してほしいとお願いしたんです」
 「へぇ、そうなんだ」

 わざと鼻息を荒くしながら言うと、山下さんが機嫌良さそうに側に立っている玉緒さんをちらりと見た。その目がよくやったと雄弁に語っている。どうせ私をいいカモだと思っているんだろう。カモはカモらしく話を振る。

 「普段は何か仕事でもしているのかな?」
 「はい。カフェーで女給を。あの、どうやったら女優になれますか? 私、早く女優になりたいんです」
 「早くなぁ。でも、女優の道は険しい。女優志望の子が多くて狭き門だ」
 「そんなぁ」

 湿った声を出して肩を落として見せると、山下さんがニヤリと口の端を上げた。

 「だが、君は運がいいよ。この千崎劇場に来たんだから」
 「というと?」
 「うちは女優のレッスンをやっているんだ」
 「レッスン?」
 「女優になるための基礎の稽古だ。それも帝国劇場の舞台を踏んだことがある女優から学べるから、誰よりも早く女優として活躍できる。うちのレッスンを受ければ帝国劇場の舞台も踏める可能性もあるし、そこらの男よりも大金が稼げる女優になれる。君の未来は順風満帆だ」
 「す、すごい!」

 朗々と語る姿はさすが元俳優らしい堂々としたもので、私もついつられて合いの手を入れてしまう。

 「ただ、頑張ってほしいのはレッスン料だ」
 「レッスン料?」

 小首を傾げながら内心、来たと呟いた。