必ずしも望みが叶うとは限らない。いくら胸が張り裂けても。



 あれから十日ほどたった昼下がり。相変わらず繫盛している麓音館に突然店のドアベルが乱暴にけたたましく鳴り響いた。

 「お嬢様。お待ちください、お嬢様!」

 思わず女給の仕事の手を止めてしまうほど、私の肩がびくりと跳ね上がる。ざわついていた店内も一瞬静かになった。
 何事かとぱっと振り向けば、一目で見て上質なものとわかる緋色の袴を身につけ、小柄で可憐な女学生がいた。
 その後ろには活動写真に出てきそうな綺麗な女優さんのような顔立ちの……ってあれは先日星占いをされた玉緒さんじゃない? 私と目が合うとあちらも私に気がつき、眉尻を下げて会釈をした。やっぱり玉緒さんだ。
 ということは必死に声をかけていたのは玉緒さんで、あの女学生はどこかのご令嬢なのか。その女学生はきょろきょろと店内を探るように見回していた。

 「いらっしゃいま……」
 「今日、正宗お兄様はいらっしゃらないの?」

 言葉を遮られ上目遣いで睨んでくる。可憐な雰囲気はすっかり霧散しているのだけど。
 というか、正宗お兄様って誰?

 「ここに警察官の本多正宗がよく来ているって聞いたのよ。わたくしは従妹なの」
 「従妹の方でしたか。今日はお見えでではないですね。いつもいらっしゃるとは限らないので」
 「そうなの」

 今日どころか、最近はもっぱら我が家に足を運んでもらっているので、麓音館には来ていないのだが。

 「お席へご案内し……」
 「あなた、このカフェーで星占いができるって聞いたのだけど」
 「あ、はい。私が承っております」
 「ふーん、あなたがね。占ってもらおうかしら」

 また言葉を遮られ、上から下まで値踏みをされるようにジロジロと見られ、思わず眉間にしわが寄った。いけない。お客様なのに。

 「かしこまりました。先にご注文を伺いますので、お席へご案内しますね」

 なんとか笑顔を作りながら二人を空いている席へと案内した後、注文を取った。その間、玉緒さんは伏し目がちでほとんど無言。この二人ってどういう関係なんだろうか。

 「星占いを始める前に、こちらの用紙に必要事項を記入していただけますか?」

 テーブルにいつも使用している用紙と鉛筆を置いて、厨房へ注文を伝えに行った。

 「八重。あの子、気をつけなさいよ」

 詠子さんにちょいちょいと手招きされて、艶やかな唇が寄せられる。

 「詠子さん、あの女学生さんのこと知っているんですか?」
 「確か北園子爵家のご令嬢の登美子さんよ。女学校では幅を利かせているらしくって、ご両親も手を焼いているみたい」

 さすが詠子さん、とわずかに目を見開いた。詠子さんの情報網ってどうなっているんだろうか。
 それにしても華族とは。あれ? と何かが過る。この人が従妹ならば……。

 「私も気をつけてみておくわ。はい、珈琲二つ。持って行って。残りの注文は後でね」
 「わかりました。星占いを始めるので後はお願いします」

 目配せをしてお互いに頷き合った。
 鼻孔をくすぐる香ばしい香りが立つ珈琲を受け取り、一度深呼吸をしてから玉緒さんと登美子さんの席へ向かった。

 「お待たせいたしました。こちら珈琲です。後の注文は後ほどお持ちします。先に星占いを始めさせていただいてもよろしいでしょうか」
 「よろしくてよ」
 「では失礼します」

 珈琲をそれぞれの目の前に配膳してから、登美子さんの向かいの席へと腰かけた。すると玉緒さんからすっと用紙を手渡された。

 「八重さん、これを」
 「ありがとうございます。えっと、恋愛運ですね。では始めます」

 受け取った用紙に目を通し、白前掛けのポケットから取り出した星占いの本を開いた。さっそく生年月日から……と手順を進めていく。

 「あなた、子どもを使って正宗お兄様に色目を使った女給よね?」
 「え?」

 突然の言葉にぴたりと手を止めた。い、色目?

 「聞いたのよ。星占いができる女給の子どもがお兄様と一緒にいるって」

 思わず唇を噛んだ。思いのほか、実と本多さんのことがうわさになっている。手を打つのが遅かったかもしれない。

 「わたくしの従兄である正宗お兄様は確かに素敵な方ですけれど、江戸から続く士族の流れを組む本多子爵家のご令息で、お父様は次期警視総監と名高い方なのよ。庶民で、しかも女給のあなたが手を出して良い方ではありませんの。弁えてもらえる?」

 高圧的な物言いよりも新たな事実に意識が向いた。
 ああ、やっぱり。本多さんは華族だったのか。登美子さんが従妹と言ったからまさかとは思ったけれど。
 しかも父親は次期警視総監とは……急に今まで見えていなかった壁を認識して、胸の内がふっと重くなった。

 「お嬢様、少しお言葉が過ぎ……」
 「心配するようなことは何も」

 玉緒さんが制しようとしてくれたけれど、それを遮って口を開いた。

 「おっしゃる通り、私はただの庶民で女給ですよ。息子の面倒をみていただいたこともありますが、私には息子と探すべき父親がいるので」
 「そう。わかっているのならいいわ」

 満足そうに吐息を零した登美子さんは珈琲を飲んだ。
 今言ったことは事実なのに小骨が喉に刺さったように小さくひっかかる。玉緒さんが形の良い双眸に心配の色を乗せてこちらを見たけれど、私は大丈夫だと伝えるために小さく頷き再び手を動かした。
 しばらくして残りの注文分も届いた頃、登美子さんの占い結果が出た。
 出たけれど……うーん、この人が受け入れてくれるかどうか。