人の望みが叶えば、本当に幸せになるのだろうか。



 「ほ、本当に……彼と別れられて、新しい恋が上手くいくの!?」
 「この星占いがそう教えてくれていますよ」

 私の目の前の席に座る若い女性客が、瞳をキラキラとさせて頬を一気に赤らめた。
 私の手元には星占いの教本と、恋愛運を占った結果と森玉緒とお客様の名前を書き記した紙と鉛筆。
 活動写真に出てきそうな綺麗な女優さんのような顔立ちの人でも、私の占った結果でこんなに喜びを現わしてくれるのかと、どこか照れくさくておさげ髪に結んだ大きなリボンをもじもじと触った。

 大正期・帝都東京。
 私が働いているカフェー・麓音館は、市電が走る大通りから一本南にある通り沿いの、白い洋館の一階に構える人気カフェーだ。
 麓音館は美味しい珈琲はもちろんのこと、西洋画の聖母子の絵画をはじめ美術品が品よく飾られ、オーナーの美的感覚が光る居心地の良い空間だ。席数は多くないものの、いつもお客さんで賑わっている。

 「良かったわねぇ。八重さんの占いは当たるのよ。幸せ確定ねぇ」

 近くにいた常連客の雪江さんが、おっとりとでも喜色を含んだ声で祝う。占いは女性客の目を引き、それが始まると一緒に盛り上がることがよくある。

 「ありがとうございます、八重さん」
 「玉緒さん、決まったわけじゃ……これはあくまで占いですからね?」

 まだ瞳をキラキラさせている玉緒さんに見つめられると、鳩尾がきゅっとなり女給の制服である白前掛けをぎゅっと握りしめた。喜んでもらえるのは嬉しいけれど、現実が変わらなかったら申し訳なさすぎる。

 「そんなことないわよぉ。私も八重さんの占いで、素敵な彼と恋人同士になったんだからぁ」
 「ええ!? そうなんで……」

 玉緒さんの言葉を遮るようにカランコロンとドアベルが鳴る。その音とともに威圧的な黒制服を纏った二人の警官が入ってきた。

 「まあ! あれは本多様じゃない!?」
 「そうだわ!」
 「イイ男だわぁ」

 カフェーにいた女性客が色めき立ち、きゃあきゃあと黄色い声が上がる。相変わらずすごい人気に、いらっしゃいませと声をかけることを忘れて、口をぽかんと開けてしまった。

 「こんにちは! 失礼しますよ、お嬢さん方……って、あ、雪江さん!」

 警官の片割れが私たちの席へやってくる。厳めしい制服を身につけているはずなのに、人懐っこい柴犬を思わせる愛嬌を振りまいていた。

 「こんなところで会えるなんて! 嬉しいなぁ」
 「進作さん、私もよぉ。この人、私の恋人なのぉ」
 「どうも!」
 「まあ、この方が……!」
 「早川、仕事中だ」

 艶のある低音が鋭く飛んでくる。ぴしりという擬音が似合うほど、雪江さんの恋人である早川さんが背筋を正した。私もつられて背筋を正す。

 「はいはい、本多さん。今行きます!」

 早川さんを視線で追えば、早川さんとは対照的に警官の制服が恐ろしいほど似合う、背の高い体格の良い男性がいた。
 二十代の後半くらいだろうか、きりりとした目元の精悍な顔立ちは近づきがたいほど男前だ。確か本多正宗という名前で、お客さんがよく口にするから覚えてしまった。

 「オーナー、失礼する。巡回に来ました」
 「あらあら、ご苦労様です。本多さん、早川さん」

 本多さんの声で店のカウンターの奥から出てきたのは、オーナーである詠子さんだ。軽くウエーブのかかった断髪に洋装のワンピースを着こなす、女性の憧れのモダンガールだ。でも、東洋人は年齢不詳過ぎる、と外国人に言われてキレて暴れたことがあるので、年齢については触れてはいけない。

 「忙しいところすみません。オーナー、最近お困りごとはないですか?」

 早川さんが人好きのする表情で詠子さんに尋ねた。

 「困りごとねぇ」
 「昨今では侯爵令嬢の服毒自殺や帝都の若い女性を狙った連続殺人事件がありますからね。どうも女性がらみの事件が多いようで。それもあって巡回しているんですよ」
 「物騒になったものね。でも大丈夫ですよ。カフェーの女給たちは事件とは無縁でみな無事ですよ」
 「それは良かった。でも油断は禁物ですよ。身辺気をつけてください」
 「ありがとうございます。お二人とも職務でご多忙でしょう。休憩時間にでもお立ち寄りください。美味しい珈琲を振舞いますわ」
 「お気遣い感謝します」

 今まで口を挟まなかった本多さんが感謝を口にして、ふっと微笑んだ。
 柔らかい表情ができるんだ、と思ったとたんに、きゃあっ、と黄色い悲鳴が上がる。耳に刺さるような音にびくんと肩が跳ねて、その拍子に鉛筆を手から抜け落ち床にころころと転がった。
 あわわ、しまった。慌てて席を立ち拾いに行こうと屈んだら、ぬっと影が覆いかぶさった。

 「落としましたよ」

 艶のある低音と共に大きな手のひらが差し出される。手のひらには、私の鉛筆。
 ぱっと顔を上げれば、精悍な顔立ちが近くにあった。ひぃっ、と声を出さなかったことを褒めて欲しい。

 「す、すみません。ありがとうございます」
 「いや、かまいません」

 拾ってくれたのは膝を折った本多さんだ。だからなのか、方々から女性の視線が突き刺さって背中が痛い。思わず苦笑いをすると、本多さんが客席の方に視線を動かし煩わしそうに眉を顰めた。ひぃっ、とまた胸の内で悲鳴を上げる。男前の不機嫌な表情は心臓に悪い。

 「本多さん、次に行きましょう!」

 元気な声がカフェーに響く。ほっと安堵の溜息を零せば、本多さんがすっと立ち上がり、すでに玄関先にいた早川さんへと足早に向かった。

 「では、お嬢さん方。身辺気をつけてくださいね!」

 びしっと元気よく敬礼をした早川さんは本多さんに小突かれ、二人揃って出て行った。