「本多様の私服姿、眼福だったわ」
 「本当よねぇ」

 姿が見えなくなったとたん、緊張が解けたように女性客たちがひそひそと囀りだした。

 「小さな子どもを相手にしている本多様も素敵よね」
 「でもあんなに仲良しって……もしかして隠し子だったりして」
 「まさかー」

 思わず耳がぴくりと反応する。待って。実がうわさの的になっているの? 心臓がどっと強く打った。
 今までも実のことを話す人はいたけれど大抵は店内だけの話だった。でも人目を惹く本多さんが絡んでくると話が変わってくる。うわさが広がりかねない。
 実だけはだめだ。実という存在がここにいることに勘づかれてしまったら……ぶるりと身体が震える。なんとかしないと。
 私は仕事が終わるまでそのことで頭がいっぱいだった。

 あれこれ考えながら仕事をしているうちに今日の勤務が終了する。
 うーん、一つの案は思いついたけれど……頭を悩ませていると店の窓から実の姿が見えた。じっと見ていると窓の向こうにいる実が気がつき、私と目が合うとにこっと目を細めて小さな手を振る。
 実が帰ってきた。今日は店から早く出た方がいいわね。これ以上うわさの種になるのは避けたい。詠子さんと同僚への挨拶もそこそこに店を飛び出した。

 「お母さん! お仕事終わった!?」

 すぐに私を見つけた実が笑顔で駆け寄ってくる。小さな体は勢いよく体当たりをして私を見上げた。

 「実、おかえり。お仕事終わったわよ。実が窓から見えたからすぐに出てきちゃった。本多さん、すみません。実の面倒を見てもらって。大変だったでしょう?」
 「そんなことはない。一緒に街を散歩できて楽しかったよ」

 どこか和やかな空気を纏って本多さんがゆっくりと近づいてきた。そんな雰囲気は珍しい。

 「あのね、お母さん。まささんにコロッケ買ってもらった!」
 「え、まささん? え、コロッケ!?」

 また予想外のことが起きて私は目を丸くした。名前呼びにも驚いたけれど、本多さんの持つ包みが気になって仕方がない。

 「俺の夕飯を買うついでだ。実も食べたがっていたし」
 「本多さん、すみません。買ってもらってしまって。ありがとうございます」
 「かまわない」

 すぐに頭を下げて礼を伝える。まさかお土産をいただくなんて。しかも店では見るけれど普段あまり食べない洋食だ。

 「実、ありがとうって言った?」
 「言ったよ。ね、まささん」
 「もちろんだ」
 「実。その呼び方、失礼でしょ」
 「えー、やだ!」

 ぷいっと顔を背けて意思表示を明確にする。これはかなり気に入っているな。どうしようかなぁ。

 「島村さん、いいんだ」
 「え?」
 「俺が呼び方を変えてもらったんだ。非番の日までお巡りさんと呼ばれるとな」
 「そうでしたか」

 本多さんは頭を掻きながら苦笑いをする。お休みの日くらい仕事から解放されたい気持ちはわかるなぁ。しかも警官のお仕事って非番の日も呼び出されることがあるって警官を恋人に持つ雪江さんが言っていたし。
 そう考えると……貴重な休みを実のために使わせて良かったんだろうか。しかもお土産までいただいている。なんだか申し訳ない気持ちが湧いてきて、背中に冷や汗が噴き出してきた。これはよろしくない。本当によろしくない。でも、ちょうどいいかもしれない。

 「あの、本多さん」

 顔をぐっと上げて呼びかけると本多さんはわずかに眉を上げた。ここはお礼を兼ねてあのことも提案してみよう。

 「よかったら我が家で一緒にお夕飯でもどうですか? 狭い家ですけど。今日のお礼をしたいんです」
 「え?」

 少しの沈黙の後、本多さんが目を丸くし息を飲んだように見えたけれど。

 「お母さん! まささん、お家に来てくれるの!?」

 足元の小さな体に腕を思いっきり引っ張られて視界がぶれる。痛いと言っているのに、頬を紅潮させて目を輝かせている実にはどこ吹く風。

 「あのね、実。本多さんがいいって言ったら」
 「行く。行かせてくれ」

 なぜか真顔で食い気味に答えられた。

 「あ、はい」
 「やった、まささんとご飯一緒だ! まささん、こっちだよ!」

 実がぴょんぴょん飛び跳ねながら本多さんを引っ張っていく。
 本多さんの顔をちらりと伺うと、口元が薄っすらと弧を描いていた。どうやらお招きして良かったようである。