今は何時くらいなのだろう。実は不安がっていないだろうか。心配で胸が痛くなる。

 「青白い顔をしている」

 ぽつりと呟かれて背の高い彼の顔を見上げる。私を捕まえた側の警察に心配されるとは思わなかった。

 「すまなかったな。留置室へ一晩留め置くことになってしまって」
 「いえ」
 「女性には酷だったな。送っていこう」
 「……えっと」

 送っていこう? 予想外の言葉に頭の中に大きな疑問符が浮かぶ。戸惑いを隠せないでいると、ふわりと肩に厚手の布のようなものを掛けられた。これは……男物の外套?

 「あの、この外套……」
 「着物の汚れが気になるだろう。俺のものですまないが着ているといい」
 「え、あ……ありがとうございます」
 「ついてきてくれ」

 それだけ言うと、本多さんはさっさと先に進んでしまう。
 えっと……どういうことだろう。送ると言う発言も外套を着せられたことも、狐につままれたような気分なんだけど。
 背を向けて前を歩く本多さんを伺うけれど、姿勢の良い真っ直ぐな背中が語るわけもなく、何を考えているのかわからない。今わかっていることは、この人について行かないことには外へ出られないということだけ。
 留置室を出て大人しくついていくと、人の気配が薄い所轄署内の窓から白み始めた空が見え、黄金色を従えた太陽が昇り始めていた。すっかり夜を明かしてしまったみたい。実は夢の中かしら。早く顔を見て安心したい。

 「ちょうど到着したようだな。来てくれ」

 正面玄関に出た時、今まで無言だった本多さんが振り返った。何が? と疑問に思っていると帝都でも数少ない自動車が止まっていた。車内には運転手がいる。

 「乗ってくれ。自宅まで送ろう」
 「え、自動車で!?」

 朝から素っ頓狂な声を上げてしまった。
 だって、自動車だよ? 帝都の街を走っているのを見ているけれど庶民にとっては縁遠いもの。なのに、私の自宅に行く!?

 「そうだが。不満か?」
 「あの、不満とかではなく……ちゃんと一人で帰れますけど」

 びっくりしすぎて目を泳がせていると、本多さんがふっと薄く笑みを浮かべた。

 「ああ、怖いのか。頑丈だし安心安全な乗り物だ。大丈夫だ」

 ぜんぜん大丈夫じゃない。自動車に乗るなんてど庶民には恐れ多くて安心できるわけがない。冷や汗をかいている私に気づかないのか、自動車の扉を開けて本多さんが待っていた。

 「早く乗ってくれ。子どもが待っているんだろう?」

 そうだった。実が待っている。あの子を早く抱きしめたい。
 小心者の私が暴れているけれど、意を決して自動車に乗り込んだ。本多さんに促され運転手に自宅の場所を告げた後、発動機が唸りを上げた。
 まさか私の人生で自動車に乗ることになるとは思わなかった。
 自動車初乗車で身体を固くしていても、自動車は勝手に目的地に向かっていく。朝日を浴びた帝都の道をすいすいと走り、やがて麓音館に近い通りで停車した。店の裏手の路地に自宅があるのだ。
 運転手さんにお礼を言って本多さんとともに降りる。自宅に向かうために慣れた細い路地を進むと、詠子さんに借りている木造のこじんまりとした我が家が見えた。
 見慣れた風景に胸を撫で下ろした時、少し洋風の混じった扉がガチャリと開いた。

 「お母さん!」
 「実!」

 私の姿を認めるとかわいらしい瞳をまん丸に見開き、小さな身体が飛び出してきた。

 「お母さん! お母さん!」

 呼ばれるたびに胸がぎゅっ詰まる。膝をついて腕を広げれば勢いよく胸に飛び込んできた。実の頬に両手を添えて顔を覗き込むと、みるみるうちに目尻に涙が溜ってくる。

 「お母さん、どこに行っていたの!」
 「ごめんね、実。帰ってくるのが遅くなって」
 「帰ってこないかと思った!」
 「ごめんね。寂しい思いをさせて」
 「ぼくを、置いていかないで!」

 実の瞳からぼろぼろと涙が零れて、ぷっくりした頬に伝う。目頭が熱くなり、言葉にならない熱が胸の内から込み上げ、突き動かされるように実をぎゅっと抱きしめた。

 「うわあああああんっ」

 悲しみを爆発させるように大声を上げて、小さな手が背に回り強く抱きしめ返してくれる。ぽんぽんとあやすように背を叩くと、今度は安心したように泣き出した。

 「実ちゃん、お利口さんに待っていたわよ」
 「詠子さん」

 えぐえぐと泣く実をあやしながら顔を上げると、扉の前に佇んでいた詠子さんが眉尻を下げていた。

 「実ちゃんね、家の前で足音が聞こえたからって、八重かどうかも分からないのにお母さんだ、って言って駆け出したのよ」
 「すみません。親子ともどもご迷惑をおかけして」
 「いいのよ、八重。八重が無事に帰ってきてくれて良かった」

 安堵交じりの声音が耳に届く。この優しい人に心配をかけてしまって心苦しく感じてしまうけれど、ここへ帰って来られたことにほっとした。

 「失礼。お身内を送らせていただきました」

 艶のある低音が静かに声をかけてきた。すると、ぱっと顔を上げた実がもぞもぞと動き出し、勢いよく腕から飛び出した。

 「あんた、誰だ!? お巡りさんなのに、お母さんをいじめていたんじゃないだろうな!」

 腕でぐいっと男らしく涙を拭き、眉を吊り上げて威嚇する。本多さんから私を守るように短い両腕を目一杯に広げた。
 本多さんの鋭い双眸でじっと見られているのに、憧れのお巡りさんに対して一歩も引かない。実の行動に息を飲む。しばし睨み合った後、本多さんがすっと膝をつき、実と目線を合わせた。