「……八重。よく聞いて。私はきっと毒を飲む」

 私が黒川家の女中を辞めて五年。翡翠色に似た透明感のある海を目の前にして、月子お嬢様は砂浜で立ち尽くしていた。
 ざざん、と乳白色の泡立った波が砂浜へ打ち寄せる。吹き付ける潮風がお嬢様を連れて行ってしまいそうで、慌てて駆け寄りお嬢様の手を掴んだ。

 「お嬢様、どうしたのです。急にそんなことを」

 俯いているお嬢様が震えていることに気がつき、胃の中がぞわりとした。
 昔のようにいつもお嬢様のお傍にいるわけではない。でも、お嬢様のことならすぐにわかる。お嬢様の身に何か恐ろしいことが起こっている。

 「八重、わたくしに何かあった時、わたくしの大切なものを守って」
 「守るも何も、頼まれなくたってお嬢様の大事なものはずっと守り続けますよ。もう決めているんですから」

 自信を持ってきっぱりと告げると、お嬢様は泣き笑いのような表情になった。

 「……八重、わたくしが決めたことはいけないことだったのかしら」
 「いいえ」
 「わたくしの判断は、間違っていたのかしら」
 「いいえ、間違ってないです!」

 間違っている訳がない、と自分の正しさが伝わるように、お嬢様の手をぎゅっと握った。

 「でもね……わたくしが大事にしているものはきっと壊されてしまう。わたくしがあの人の願いを壊してしまったから」

 ざざん、と砂浜へ打ち寄せた白波の音が、鼓膜を揺さぶった。

 「まさか……今頃になってお嬢様に何か言ってきたのですか? もう昔のことなのに!?」

 五年前、あの方とお嬢様は終わりを迎えた。あの方は日本を出て、音信不通だったはずだ。なのに、どうして今頃になって。
 胃の中から何かがせり上がってくるようで気持ちが悪い。

 「手紙を、もらったの。今度、一時帰国して葉山のパーティーに来るそうよ。わざわざ、わたくしの好きなチョコレートを贈ってくださるみたい」

 バチンと脳内で閃光が弾けて、ひゅっと息を飲んだ。
 お嬢様は最初に何と言った?

 「お嬢様、お嬢様はお会いにならないですよね!?」

 鼻の奥がツンとした。目尻から何かが零れてきそうで、ぐっと奥歯を噛んでそれを耐える。
 私の優しい月子お嬢様がいなくなるなんて考えたくなかった。

 「……お父様からそのパーティーに出席するように言われているわ」
 「そんな」

 そんな、ひどい。
 ひどくて、あんまりだ。

 また、ざざん、と泡立った白波の音が、鼓膜を揺さぶった。

 「あの人はわたくしに永遠を願っている。わたくしが壊してしまったから。きっともう、逃げられないわ」
 「そんなことありません。旦那様や奥様に言えば……」
 「お父様もお母様も、黒川のために動くことができない体の弱い私に何もしないわ」
 「嫌です。嫌です、お嬢様! 私がお守りしますから」

 何度も何度も首を横に振って、その考えを否定する。でも、握りしめていたお嬢様の手は、私の手からするりと抜けていった。

 「ありがとう、八重。優しい八重が大好きよ」
 「私だって、お嬢様のことが大好きですよ」
 「ふふ、ありがとう。同じようにね、あの人のことを嫌いになれないの。不思議ね」

 遠くへ視線をやったお嬢様の横顔が、知らない大人びた表情で。そこに込められた想いは、私の胸の内にやるせなさと嫉妬が入り混じった感情が渦を巻かせた。

 「お願い、八重。わたくしの大切なものを守って。八重がいれば安心だわ」

 その淡い笑みは誰に向けられたものだったのか。
 何もかもを受け入れて許した、美しい女神のような佇まいだった。




 ガチャンと扉が軋む耳障りな音が聞こえた。
 ふっと意識が浮上した私は薄っすらと瞼を押し上げる。目を開けても暗闇。頭を上げれば自分が膝を抱えて顔を埋めていたことに気がついた。
 私、眠ってしまっていたんだ。あふっと欠伸が出たと同時に、カツンカツンと靴音が近づいてきた。ぱっと電球の明かりがついて、久しぶりの光に反射的に目を細める。

 「出てくれ」

 艶のある低音を耳で捉え、振り返ると目を見開いた。本多さんが鉄格子の向こうにいた。彼は鉄格子にかかった錠前に鍵を差し込み開錠すると、鉄格子の扉を軋ませながら開いた。

 「島村さん。証拠不十分で釈放だ。それに鈴木男爵家の夫人と連絡がつき、身元の確認が取れた」
 「え……」

 奥様が協力してくださったってこと?
 ここから出られることに胸を撫で下ろしたけれど、同時に罪悪感が湧き上がる。依頼者である奥様に迷惑をかけてしまうなんて。これはどうお詫びすればいいのか。

 「完全に疑いが晴れたわけではないが、君を犯人にするには証拠があまりにもない。だから釈放が決まった」
 「そうですか。ありがとうございました」

 頭を下げて、促されるように扉をくぐった。