どうしてこんなことになってしまったんだろう。
小さく溜息を零した私は、硬く冷たい石畳の床の上でぽつんと独り膝を抱えて座っていた。
黴臭い匂いが鼻を突く暗闇に囲まれた留置室は、昔女中として働いていた葉山のお屋敷にあった倉庫室を思い出させて身体がぶるりと震える。
実、泣いてないかな……。
もう深夜だろうか。詠子さんに預けてはいるけれど、実とこんなに長い時間離れたのは初めてだ。ちゃんと夕ご飯は食べたのかな。ちゃんと眠れているのかな。いつも陽だまりのような温かい熱と一緒に過ごしているから傍にいないのが堪える。
今日は散々な日だ。別れさせ屋の仕事が無事に完遂して、しかも、やっとあの人に出会ったのに。
噂話は耳にするのに姿を見たことがなかった。ずっと八方塞がりだったけれど、ようやく小さな糸口が見つかった気持ちだった。それなのに、私はこんな牢獄の中にいる。
「お嬢様と同じ目に合わせてやりたいのに……」
いつも首から提げているロケットペンダントを取り出し、縋るようにぎゅっと握った。
「お嬢様、助けてよ……」
月子お嬢様がいたら小さな私に手を差し伸べてくれたように、また胸を押しつぶす牢獄から助けてくれないだろうか。
私と私の大事なお嬢様が出会ったのは、十を少し超えたくらいの年齢の時だった。
バシッ、と木の棒が撓り、打ち付けた嫌な音が背後からした。
「痛……っ」
歯を食いしばったけれど、じんじんとした痛みが広がる。座りこんだ私の背中に、新たな赤い傷跡が増えたんだろう。
「貧乏人のくせに、まだこの屋敷にいるの?」
「あんたに黒川侯爵家の女中なんてできるわけがないわ。早く出て行きなさいよ」
クスクスと蔑む笑い声が、耳に纏わりつく。
ちらりと振り向くと、二人の先輩女中が口元を歪ませて、三日月のように目を笑ませていた。
どうして自分ばかり……とは、もう思わなくなった。
いつものこと、だ。灰色の毎日がただ始まっただけ。
「泣きもしないなんてつまんないわ。もう行きましょう」
「ちゃんとあたしたちの代わりに、廊下の掃除をしてよね」
雑巾を叩きつけられて、またニヤリと笑って先輩たちは去っていった。侯爵家の屋敷の長い廊下を歩いて。
これからこの長い廊下を拭き上げなきゃいけないと思うと、肺から深い溜息が出た。
私にとってこの大きなお屋敷は牢獄のようで、薄ら寒い。まだお父さんと住んでいた木造のボロ屋の方がマシだった。
なぜか逗子・葉山の農村に住む貧乏農家の娘の私が、この屋敷、華族の黒川侯爵家の別荘で働くことになったのか。それは一年前、病で倒れたお父さんが死んでしまったからだ。
お父さんは黒川侯爵家に農作物を届けていて、その縁もあってなのか、お父さんの死後は黒川侯爵家に奉公に行くことが決まっていた。
何にも分からないまま女中の仕事をすることになったけれど、新人で貧乏人の私はちょうど良かったのだろう。先輩たちに目をつけられた。
毎日望まない傷が増えていく。まるで何かの生贄だ。
けれども、幼い私には逃げ出したくても行く当てがない。もっと悲惨な生活が待っているのは学のない私でもわかる。
そしてもう一つわかるのは、私の居場所はここにはないということだ。
どうして、お父さんはこんな場所に私を置いて行ったのだろう。
どうして、私を一緒に連れて行ってくれなかったのだろう。
冷たい雑巾で悴む両手を叱咤しながら、なんとか廊下の掃除が終わる。立ち上がってほっと一息つくと、じくじくと背中が痛みを訴え始めた。
夢中で忘れていた。また、薬を塗らなきゃ。
背中を庇いながら廊下を歩き、突き当たりにある倉庫室へ向かった。ガチャリと扉を開けると黴臭い匂いが鼻を突く。薄暗く散らかった室内を掻き分けて、お目当ての戸棚を探り当てた。
「あった」
そこにあったのは塗り薬。たぶんちょっと高級なそれ。貧乏人が持てるはずもないものを持っているのは、屋敷の主人が使う薬箱からくすねてきたから。ここなら誰も来ず、咎められない。昔、何もせずに放置して熱を出した。あの身体が蝕まれる苦しさはもう嫌だ。
着物をはだけさせて塗り薬を手に取った。背中に広がった全ての傷には塗れないけれど、沁みるのを我慢してそっと手を伸ばした。
「ひっ! あなた、それ!」
びくんと肩が跳ねた。恐る恐る振り向くと、扉の前に思いがけない人がいた。
うそ、どうして。
ガタガタと歯の根が合わない。扉も閉めたはずなのに、こんなところに人なんて来ないはずなのに。
「お、お嬢様……」
「そこで待っていて!」
艶やかな黒髪を靡かせてパタパタと駆けて行く後ろ姿は、間違いなく別荘の年若い主人である月子お嬢様だ。
まさか、お嬢様に見咎められるなんて。
追いすがりたかったけれど、震えて体が動かない。手に持っていたくすねた薬の容器がぽとりと落ちて、かたんと床を跳ねた。どうしよう。きっと大人を連れてくる。ゆく当てもないのに、追い出されてしまう。
小さくなった足音は、すぐに大きくなって戻ってきた。しかも二人分の音。
「蕗、こっちよ!」
月子お嬢様が連れてきたのは、中年の大人の女中だ。
もう、だめだ。それでも……もう行く当てはないのだから。
お父さんは私を連れて行ってはくれなかったのだから。
視界が滲んで喉がからからになりながら、それでも口を開いた。
「す、すみません! お、追い出さないで」
みっともなく這いつくばって土下座をした。額を床にこすりつければ、黴臭い匂いが鼻を突いた。
「追い出すわけないわ。早く手当をしないと。蕗、わたくしの部屋へ連れて行って」
「もちろんですよ、お嬢様。もう大丈夫よ。さあ、手当をしましょう」
「……へ?」
まん丸に目を見開いた私は、予想外の言葉に固まった。体を引っ張り上げられ、そのままお嬢様と大人の女中の蕗さんに、黴臭い部屋から連れ出された。
小さく溜息を零した私は、硬く冷たい石畳の床の上でぽつんと独り膝を抱えて座っていた。
黴臭い匂いが鼻を突く暗闇に囲まれた留置室は、昔女中として働いていた葉山のお屋敷にあった倉庫室を思い出させて身体がぶるりと震える。
実、泣いてないかな……。
もう深夜だろうか。詠子さんに預けてはいるけれど、実とこんなに長い時間離れたのは初めてだ。ちゃんと夕ご飯は食べたのかな。ちゃんと眠れているのかな。いつも陽だまりのような温かい熱と一緒に過ごしているから傍にいないのが堪える。
今日は散々な日だ。別れさせ屋の仕事が無事に完遂して、しかも、やっとあの人に出会ったのに。
噂話は耳にするのに姿を見たことがなかった。ずっと八方塞がりだったけれど、ようやく小さな糸口が見つかった気持ちだった。それなのに、私はこんな牢獄の中にいる。
「お嬢様と同じ目に合わせてやりたいのに……」
いつも首から提げているロケットペンダントを取り出し、縋るようにぎゅっと握った。
「お嬢様、助けてよ……」
月子お嬢様がいたら小さな私に手を差し伸べてくれたように、また胸を押しつぶす牢獄から助けてくれないだろうか。
私と私の大事なお嬢様が出会ったのは、十を少し超えたくらいの年齢の時だった。
バシッ、と木の棒が撓り、打ち付けた嫌な音が背後からした。
「痛……っ」
歯を食いしばったけれど、じんじんとした痛みが広がる。座りこんだ私の背中に、新たな赤い傷跡が増えたんだろう。
「貧乏人のくせに、まだこの屋敷にいるの?」
「あんたに黒川侯爵家の女中なんてできるわけがないわ。早く出て行きなさいよ」
クスクスと蔑む笑い声が、耳に纏わりつく。
ちらりと振り向くと、二人の先輩女中が口元を歪ませて、三日月のように目を笑ませていた。
どうして自分ばかり……とは、もう思わなくなった。
いつものこと、だ。灰色の毎日がただ始まっただけ。
「泣きもしないなんてつまんないわ。もう行きましょう」
「ちゃんとあたしたちの代わりに、廊下の掃除をしてよね」
雑巾を叩きつけられて、またニヤリと笑って先輩たちは去っていった。侯爵家の屋敷の長い廊下を歩いて。
これからこの長い廊下を拭き上げなきゃいけないと思うと、肺から深い溜息が出た。
私にとってこの大きなお屋敷は牢獄のようで、薄ら寒い。まだお父さんと住んでいた木造のボロ屋の方がマシだった。
なぜか逗子・葉山の農村に住む貧乏農家の娘の私が、この屋敷、華族の黒川侯爵家の別荘で働くことになったのか。それは一年前、病で倒れたお父さんが死んでしまったからだ。
お父さんは黒川侯爵家に農作物を届けていて、その縁もあってなのか、お父さんの死後は黒川侯爵家に奉公に行くことが決まっていた。
何にも分からないまま女中の仕事をすることになったけれど、新人で貧乏人の私はちょうど良かったのだろう。先輩たちに目をつけられた。
毎日望まない傷が増えていく。まるで何かの生贄だ。
けれども、幼い私には逃げ出したくても行く当てがない。もっと悲惨な生活が待っているのは学のない私でもわかる。
そしてもう一つわかるのは、私の居場所はここにはないということだ。
どうして、お父さんはこんな場所に私を置いて行ったのだろう。
どうして、私を一緒に連れて行ってくれなかったのだろう。
冷たい雑巾で悴む両手を叱咤しながら、なんとか廊下の掃除が終わる。立ち上がってほっと一息つくと、じくじくと背中が痛みを訴え始めた。
夢中で忘れていた。また、薬を塗らなきゃ。
背中を庇いながら廊下を歩き、突き当たりにある倉庫室へ向かった。ガチャリと扉を開けると黴臭い匂いが鼻を突く。薄暗く散らかった室内を掻き分けて、お目当ての戸棚を探り当てた。
「あった」
そこにあったのは塗り薬。たぶんちょっと高級なそれ。貧乏人が持てるはずもないものを持っているのは、屋敷の主人が使う薬箱からくすねてきたから。ここなら誰も来ず、咎められない。昔、何もせずに放置して熱を出した。あの身体が蝕まれる苦しさはもう嫌だ。
着物をはだけさせて塗り薬を手に取った。背中に広がった全ての傷には塗れないけれど、沁みるのを我慢してそっと手を伸ばした。
「ひっ! あなた、それ!」
びくんと肩が跳ねた。恐る恐る振り向くと、扉の前に思いがけない人がいた。
うそ、どうして。
ガタガタと歯の根が合わない。扉も閉めたはずなのに、こんなところに人なんて来ないはずなのに。
「お、お嬢様……」
「そこで待っていて!」
艶やかな黒髪を靡かせてパタパタと駆けて行く後ろ姿は、間違いなく別荘の年若い主人である月子お嬢様だ。
まさか、お嬢様に見咎められるなんて。
追いすがりたかったけれど、震えて体が動かない。手に持っていたくすねた薬の容器がぽとりと落ちて、かたんと床を跳ねた。どうしよう。きっと大人を連れてくる。ゆく当てもないのに、追い出されてしまう。
小さくなった足音は、すぐに大きくなって戻ってきた。しかも二人分の音。
「蕗、こっちよ!」
月子お嬢様が連れてきたのは、中年の大人の女中だ。
もう、だめだ。それでも……もう行く当てはないのだから。
お父さんは私を連れて行ってはくれなかったのだから。
視界が滲んで喉がからからになりながら、それでも口を開いた。
「す、すみません! お、追い出さないで」
みっともなく這いつくばって土下座をした。額を床にこすりつければ、黴臭い匂いが鼻を突いた。
「追い出すわけないわ。早く手当をしないと。蕗、わたくしの部屋へ連れて行って」
「もちろんですよ、お嬢様。もう大丈夫よ。さあ、手当をしましょう」
「……へ?」
まん丸に目を見開いた私は、予想外の言葉に固まった。体を引っ張り上げられ、そのままお嬢様と大人の女中の蕗さんに、黴臭い部屋から連れ出された。


