荒々しい音を立てて木造の長屋の壁が軋んだ。ごうごうと風の塊がぶつかり、家を激しく打ち付ける。春の嵐だ。
 鼓膜を揺らす大きな音でなかなか寝付けなかった私は、布団からむくりと起き上がる。これ以上は寝られる気がしない。だったら早めに朝支度をしようと、悴む両手をこすり合わせながら台所へ向かった。
 いつもなら朝日が届きはじめる時間帯だが、家の中は総じて薄暗い。
 台所の土間で草履を履いたその時、ドンッ、ドドドン、と勝手口の引き戸が激しく音を立てた。
 びくんと肩が跳ね上がって体が固まる。息を潜めてじっとしていると、もう一度、ドンッ、ドドドン、と風とは違う音が響き、何事かと慌てて戸を開けた。

 「や、八重!」
 「蕗さん!?」

 飛び込むようにして入って来たのは、母親ほど年の離れている蕗さんだった。髪を振り乱し血相を変えて、ぜえぜえと荒く息を吐いている。

 「ど、どうしたんですか。こんな朝早くに」

 俯いた蕗さんにぐっと腕を掴まれた。痛みに顔を顰めたけれど、蕗さんの手が小刻みに震えていた。

 「つ、月子……お、お嬢様が……」
 「お嬢様がどうしたんですか」

 顔を覗き込めば、蕗さんの瞼が震えて次から次へと目尻から涙が零れ始めた。

 「月子お嬢様が……亡くなられたわ」

 ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。声を出したいのに、喉が詰まって呼吸ができない。受け入れられなくて、何度も何度も頭を振った。

 「ど、どうして……」

 なんとか口にしたのはありきたりな言葉。
 だって、二日前に会った時はいつもより体調が良かったように見えたし、病魔が襲っているような話は聞いていなかった。

 「昨晩、葉山のお屋敷でパーティーがあったでしょう。警察が言うには、そこで毒を飲んだんじゃないかって」
 「毒を?」

 バチンと脳内で閃光が弾けた。まさか。心臓は激しく打ち付け、腹の底からどろどろと熱い何かが吹き出しそうになる。


 ――八重。よく聞いて。私はきっと毒を飲む。わたくしに何かあった時、わたくしの大切なものを守って。


 脳にお嬢様の鈴の音のような声が蘇る。ざざん、と砂浜へ打ち寄せた白波の音も聞こえた気がした。

 「そうだ、実」

 蕗さんの腕を余裕なく振りほどき、履いた草履を乱暴に脱ぎ棄てて、元いた部屋へどたどたと駆けた。

 「実!」

 スパンと勢いよく障子を開けた先には、敷布団に包まる小さな子どもがもぞもぞしていた。

 「実、起きて。行きましょう」
 「な、なに……?」

 無理やり掛布団をはがすと、実は小さな手で眠そうな目をこすりながら、むっくりと起きてきた。

 「八重、どこに行くというの!」

 悲鳴に似た声で蕗さんが私の腕を再び掴んだ。

 「葉山にいたらだめです。蕗さんもわかっているでしょう?」
 「ぼく、どこかに行くの?」

 眉をハの字にした実がこちらをじっと見つめる。実はまだ四歳だ。これから私がしようとしていることは酷だろう。
 それでも。

 「月子お嬢様との約束なの。大切なものを守るって」

 また蕗さんの腕を振りほどいた。はぁと深いため息が零れたが、聞かなかったことにした。
 いつでも旅立てるように予め用意していた荷物を押入れから持ち出し、実の服を着替えさせる。いつもなら自分でやりたいと騒ぎ出すところだけど、まだ眠たいのかされるがままだ。
 自分もさっさと身支度をする。余所行きの着物に着替えるけれど、長い髪はいつものように簡単に髪をひっつめた。
 そうだ、忘れずに持って行きたいものがある。箪笥の引き出しから取りだしたのは、月子お嬢様からもらったロケットペンダント。それを首から下げた。

 「実。ごめんね」

 小さな体をぎゅっと抱きしめると、ふるふると首を横に振り、温かさを分け与えるように小さな手で抱きしめ返してくれた。まるで自分を慰めてくれているみたいに。

 「八重。どこかに行く当てはあるの?」
 「……いえ」

 行く当てなんかない。葉山から離れることが最優先だと思ったから。
 返事をしながら実に小さな外套を着せた。昼間は温かい春の日差しが差し込むけれど、夜はまだ冷える。

 「じゃあ、帝都に行きなさい」
 「帝都に? でも、あの人に見つかるかもしれない」
 「帝都は人口も多いし、木を隠すなら森の中よ。私の知り合いが帝都にいるわ。まずはそこを訪ねなさい。時折手紙のやり取りをしているの。きっと助けてくれるわ」

 いつの間に用意してくれていたのか、蕗さんから手紙を受け取った。確かに帝都の住所だ。

 「蕗さん。ありがとうございます」
 「八重に頼むのは酷だけど、頼れるのは八重だけよ。後のことは私に任せて」
 「はい。お願いします。蕗さん、お世話になりました」

 深くお辞儀をすると、ぐずっと鼻を鳴らした蕗さんから肩をぽんぽんと優しく叩かれる。
 二人分の荷物と小さな実の手をぎゅっと握って、長らく住んだ家を後にした。

 すぐにこの地から離れなくてはならない。
 急ぎ足で乗合馬車の停留所へ向かう。馬車で駅へ向かい、着いたら鉄道に乗って帝都へ。
 強い風が吹きつける中、突然訳が分からないであろうことに巻き込まれた四歳の実が、必死に足を動かしている。その姿を見て、腹の底に抑えつけていたどす黒い熱が吹き出し始めた。

 許せない。
 どうしてもあの人を許せない。

 脳裏に過った姿に、かっと目の前が赤く染まった。


 ――お願い、八重。わたくしの大切なものを守って。八重がいれば安心だわ。


 お嬢様。必ずあなたとの約束を守ります。
 でも、私の願いはどんなに求めても、もう永遠に叶わない。
 だから、どうか復讐だけはお許しください。

 ふと振り向けば、毎日眺めていた海が荒々しい白波を立て、低く垂れこめた重たい黒雲に覆われていた。
 ぶるりと背筋が震えたが、小さな手をぎゅっと握って己を奮い立たせる。遠くの方で雷鳴が轟いていた。