名前を呼ばれたような気がした。幼き日のように、優しく「リゼット」と。そう、ヴィクトル様に。

 だから答えたのに、『ヴィクトル様』は不思議な顔で私を見た。思わず「何で?」と聞こうとした口をギュッと(つぐ)む。

 そうだ。そうだった。優しく呼ばれたような気がしただけで、『ヴィクトル様』は私に婚約破棄を言い渡した人。私をいらないと、役立たずだと言った人たちと同じ……。
 ううん、違う。サビーナ先生が現れて、何だった、かな。よく思い出せない。

「危ない!」
「っ!」

 混乱していたからか、頭が振らつき、その重みで体が傾いた。すると、『ヴィクトル様』が手を差し伸べて、何故か助けてくれた。

 どうして? 貴方は私を見放したのに……。

 そう言いたいのに、いざ口を開けると言葉にできなかった。優しく接してくれる『ヴィクトル様』がまた、冷たくなったら、と思うと言えなかったのだ。

「大丈夫?」

 私は体を縮こまらせながら、頷いた。背中に回される『ヴィクトル様』の手が温かい。勇気を持って見上げると、安堵した表情と共に、笑顔を向けられた。

 良かった。これで合っていたんだ。

 ホッとしたのも束の間、『ヴィクトル様』はそっと、私を同じところに座らせてくれる。と同時に、離れていく距離。途端、私は寂しいと感じてしまう。
 多分、『ヴィクトル様』に優しくされたからだ。もう、随分となかったことだから、余計にそう思ったのかもしれない。

 けれど次の瞬間、私は再び『ヴィクトル様』から信じられない言葉を聞かされることになる。

「確認なんだけど、君はリゼット、でいいのかな?」
「っ!」

 思わずギュッと目を(つむ)る。
 五歳の頃からずっと共にいたのに、私を認識できないなんて……。婚約破棄を言い渡された時よりも、悲しかった。

 悲しくて悲しくて、顔を両手で覆う。けれど涙は出なかった。泣かないと決めていた習慣が、まだ残っていたなんて。それさえも悲しさに消えていった。

「ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだ。ただ確認したくて」

 必死に謝る『ヴィクトル様』の声に、私は両手を離した。直後、自分の手に驚く。

 私の手、こんなに小さかった?

 五本指はあるものの、違和感が先に生じてしまう。まじまじと見つめても、その正体が分からない。
 よく見ると、足もおかしい。

 固まる私を見て、何か察したのか、頭上から『ヴィクトル様』の声が降ってきた。

「あっ、えっと、やっぱり気になる?」
「……はい。上手く言葉にはできない違和感があるんですが、これは何なのでしょうか?」

 見上げながらそう尋ねると、『ヴィクトル様』は困ったような顔をした。

 あっ、これは聞いてはいけなかったこと、だったみたい。

「もし、君に今の状態を受け止められる覚悟があるのなら、教えてあげることができる。でも、そうじゃなかったら……」
「大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。けれど今は、知らないことよりも知りたいです。貴方のことも……。その……ヴィクトル様ではないんですよね」

 私をリゼットかどうか尋ねるところや、優しさ、気遣いなど、ヴィクトル様との相違点を感じる。間違って怒られても構わない。呆れられてもいい。
 それでも、確認したかった。彼が私に尋ねたように。

「うん。ごめん。僕は……ユベールって言うんだ」
「やっぱり……そうだったんですね。私はリゼット・バルテ……です。先ほどはお答えできずに申し訳ありません」

 さすがに伯爵令嬢、とまでは名乗れず、私はそう言って立ち上がり、挨拶をしようとした。が、足がうまく上がらない。まるで棒のように硬く、固まっているかのようだった。
 もたつく私の姿を見たユベール……くん? さん? は「ちょっとごめん」と言い、私を抱き上げた。

「あっ」

 ヴィクトル様と似た容姿をしているせいか、不謹慎にも胸が高鳴った。すでに婚約破棄を言い渡された身なのに、未練がましい……と思う。彼はヴィクトル様ではないのに。

「多分、今の自分の姿を見れば、立ち上がれなかった理由が分かると思うんだ。覚悟はいい?」
「……はい」

 いまいちユベールの言っていることが理解できなかったが、今は前に進むべきだと思った。
 ここで足踏みしていても何も分からない。分からないのなら、怖くても進んだ方がいい、と私の何かが言う。

 多分、彼の優しさが、私の背中を押してくれているのだろう。

 私を抱えたユベールは、室内を歩いて行く。
 すでにその抱え方や、彼との対比を考えれば、自ずと答えは出てくるはずなのに。けれど私はただ、ユベールの服を掴むことしかできなかった。

 覚悟を決めても、やっぱり怖いものは怖かったから。

「リゼット……」
「は、はい!」

 思わず声が上ずり、再び目をギュッと瞑る。するとユベールは、優しく私の頭を撫でてくれた。

「心の準備ができたら、目を開けて振り向いて。後ろに鏡があるから」
「ありがとうございます」

 優しく語りかけてくれるその言葉が、私の気持ちを和らげ、さらに勇気を持たせてくれた。

 焦らないでいい。自分のペースで。そうユベールは言ってくれているのだ。

 私はそっと目を開けて、後ろを振り向く。
 ヴィクトル様に似たユベール。同じ銀髪と紫色の瞳をしているけれど、最後に会ったヴィクトル様より幼く見える。

 その腕の中には、黒髪の人形が……。

 私が目を瞬きさせると、その人形も……。
 短くなった髪に触れる、その手の動きさえも……!

「どうして?」

 何でこんな姿に?

 感情の高鳴りと共に、胸元に付いている赤い宝石がキラリと光った。