「疲れた」

 自室の扉に背中を預けながら、私は呟いた。

 何になんて決まっている。生きていること、そのものに対してだ。
 けれど、ようやく解放されるのだ。一週間後には。

「これでもう、頑張らなくてもいいんだ」

 そう思うだけで、気持ちが楽になったような気がした。
 一日中部屋に籠り、何十時間と机にへばりつく日々も、同じ魔術書を何日も何日も熟読する日々も。する必要はないのだ。

 失敗が続いて落胆することも、価値のない自分に泣くこともまた……。

「それなのに何故、私は泣いているの?」

 辛かった日々を思い出せば思い出すほど、気持ちが溢れて胸が苦しくなった。それに呼応するように、じんわりと目に涙が溜まっていく。

「もうやらなくていいのよ。勉強も、生きることさえも」

 苦しさのあまりしゃがみ込んだ瞬間、閉じた瞼から何滴も涙が零れた。次から次へと、止めどなく床を濡らす。
 しかし、嗚咽(おえつ)は漏れなかった。

『声を出して泣くなんて、みっともない』『置かせてもらっている分際で』

 マニフィカ公爵家に来た時に言われた言葉の数々。
 たった五歳の子どもが手に入れた幸運に嫉妬して、口さがのない使用人たちが、わざわざ嘲笑(あざわら)いにやってきていたのだ。いや、それは今も変わらない。

 公爵家にもなると、使用人を取り仕切っている者は、同じ貴族であるため、私みたいな子どもは格好の餌食(えじき)だった。
 あわよくば、自身の娘をヴィクトル様の婚約者。または愛人にでもして、お(こぼ)れをもらいたい。そんな野心を抱く者たちにとって、私は邪魔な存在だったのだ。

「一週間後には死ぬのに、あんな人たちの言葉に従うなんて」

 どこまでも私は愚かなんだろう。残り僅かな人生さえも、自分のために生きられないなんて。けれど、すぐに変えることができるほど、私は器用ではない。

「それならいっそのこと、自分で命を断とうかな」

 私は立ち上がり、慣れ親しんだ机へと向かう。確かそこには、ナイフがあったはずだ。
 無くても、ペーパーナイフで喉を突き刺せば、死ぬことができるのではないだろうか。

 ふらふらした足取りで辿り着いた机の上には、何もなかった。ごちゃごちゃにしておくと、勝手に入ってくる使用人たちが悪さをするのだ。
 掃除という名目で、彼女たちは平気で物を盗んだり、時には壊したりする。

 隙を見せればやられる。私にとって、マニフィカ公爵邸はそんな世界だった。

 だから、机の中も最小限の物しか入っていない。その証拠に開けた瞬間、カラカラと物が流れる音がした。

 そう、広い引き出しの中をペンが、私の方に向かって転がって来たのだ。と同時に目に入ったのは、一本のナイフ。
 茶色い皮に包まれたそのナイフは、確かヴィクトル様にいただいた物だった。

「考えてみたら、自分で買い物に行ったことがないのだから、当たり前よね」

 誕生日や行事のプレゼントは勿論のこと。何でもない日でも、ヴィクトル様はお土産だと言って、私にくださった。
 昔から変わらないヴィクトル様の優しさであり、私の唯一の安らぎだった。

 大事にされている。錯覚でもいい。それを感じられる瞬間だったから。

 涙を拭きながら、引き出しから取り出す。
 勿論、ナイフを。カバーをゆっくり外し、両手でグリップを握り締める。さらに刃を自身の方に向けて、目を閉じた。

 これで準備は万端。あとは頭を少しだけ上げて、喉元にグサッと――……。

「うっ!」

 その瞬間、感じたのは痛みではなかった。けれど苦しい。

 一体何が起こったの!?

 私は目を開けて状況を確かめた。が、視界に映ったのは、一面の茶色。左右、上下と目を動かしても変わらない。
 頭を麻袋(あさぶくろ)か何かで覆われたらしい。

 そうだ、ナイフ!

 けれど気がついた時にはもう、腕が自由に動かせなかった。

「な、んで?」

 恐怖はない。すでに死を覚悟した身だ。殺されたって構わない。
 だからこそ浮かんだ疑問。

 名ばかりの婚約者を襲撃して、何の得がある? マニフィカ公爵家に与える影響など、何もない。
 それなら、ヴィクトル様が? いや、一週間後と言ったのはヴィクトル様の方だ。

 では一体、誰が私にこのようなことを?

 誰が。誰が。誰が――……。ヴィクトル様、教えて……。

 あぁ結局、私が頼れるのはヴィクトル様だけだったのね。

 さらなる悲しみに襲われた私は、それに耐えきれず意識を手放した。