この運命はミッション

【アキュイティー先生から言われた「サポート」という言葉がキーポイントとなり、百%の信任を受けて、生徒会長となることができました。生徒会長として働くのは来月からとなりますが、僕らしく職務を全うしたいと思っています。来週は、修学旅行があります。楽しんできたいと思います。】

 *

 先輩からLIMEが来たのは、日曜日の昼のことだった。
 【今日の夜から、母がこっちに来ると言うので、残念だけど夜の通話はキャンセルさせてください】
 明日から二年生は修学旅行で沖縄へ行く。姫榊先輩のお母さんも、息子がきちんと準備できているのか心配なのかもしれない。
 正直に言えば寂しいけれど、良かった、とも思う。これまでと同じように先輩と接するために、少し冷静になる時間が俺には必要だ。
 先輩への気持ちは認めた。でも、だからといって、自分がHSGKグループを率いていく先輩の運命の人としてこれからずっと一緒に過ごすということは、考えらない。そもそも、先輩も俺のことを好きだとは言っているけれど、やはりミス・アキュイティーに言われたからだろう、という思いもどうしても拭えない。
 つまり、俺が先輩を好きになったところで状況は何も変わっておらず、先輩と俺の未来も変わらない。先輩を運命とは思えませんでしたと、自分の心に蓋をして告げて、それで終わり。今までと、同じように過ごすだけだ、と冷静に考えていた。
 それなのに、金曜日の夜に先輩と通話することになって、いつものように通話ボタンを押し、いつものように『もしもし、冴介くん?』と先輩が言っただけなのに、ぶわっと全身が熱くなって「こんばんは!」と無駄に元気な挨拶をかましてしまった。
 その後も、先輩が俺に対する好意をにじませる言葉を口にするたびにドキドキしすぎて、このまま心臓が止まるんじゃないか、と俺は本気で不安になった。そのうえ、前と同じように軽く流すような返事をしているつもりでも、本当にそう振舞えているのか、もしくは挙動不審になっているのか、自分では客観視できる余裕はなく、『冴介くんのおかげ』と繰り返す先輩に「そんな大げさな~」などと返し続け、「おめでとうございます」の一言すら伝えていないことに気づいたのは、通話を終えたあとだった。ダメダメである。
 土曜日にミス・アキュイティー宛に届いたメールで、俺のことにまた何も触れられていなかったことにも、むしろほっとした。変に運命の人が、などと書かれていたら、てんぱってしまって、俺と言う自我がミス・アキュイティーの言葉の間から漏れ出しかねない。
 こんなことなら、先輩は俺の推しだ、と自分を誤魔化し続ければよかった気もするが、時間の問題だっただろうとも思う。あんなかっこよくて可愛い気すらある人に、あれだけ好意を伝え続けられて、好きにならない方が無理というものだ。
 先輩に【分かりました。沖縄、楽しんできてください】と返信して、俺は立ち上がる。
 さすがに、修学旅行の間に通話をするなんてことはないだろうし、そうなると先輩と次に直接話すのは、修学旅行から帰ってくる木曜日の夜になるだろうか。それとも金曜日の朝には久しぶりに迎えに来るだろうから、木曜日に通話することはないだろうか。もともと、選挙運動で一緒に過ごす時間をとれない代わりに通話、ということになっていたのだから、選挙も終わった今、通話をする理由もないかもしれない。
 ――でも、俺がそれを指摘しなければ、先輩からわざわざ通話をやめるとは言い出さないかな
 だけど、ずるずると通話を続けるのも良くないんじゃ、と自問自答しながら台所で冷蔵庫を開けて中を物色する。
 今日の通話がなくなったことで少し緊張がとけたのか、身体が空腹を訴えていた。
 「あら、食欲出てきたの?」
 母親に声をかけられ「少しねー」と答える。
 金曜日はまったく食欲が出ず、夕飯を半分以上残して心配させてしまった。その後も食べてはいるものの、いつもよりは少なめにしている。
 風邪かしら、と心配する母に、恋の病ですと自白するわけにもいかず、俺は寒くなってきたからね~あったかくしとくわ、と答えた。
 何かの漫画で、恋愛中の主人公が、胸がいっぱいで何も喉を通らないというようなことを言っていたけれど、あれが比喩ではないことを、この身をもって学ぶとは思わなかった。
 調べたところ、恋愛によって放出されたホルモンが食欲を抑えるのだそうだ。人間の身体が、感情という見えないものに物理的に支配されることもあるのだと思うと興味深い。
 冷蔵庫にはめぼしいものがなく、腹にはたまらないけどアイスにするか、と冷凍庫を開けたところでピンポーンとチャイムが鳴る。
 「何か荷物でも頼んでたかしら」
 ぶつぶつ言いながら小走りでインターホンのところまで行った母親が「はーい」と答える。
 『突然、申し訳ございません。ミス・アキュイティー先生はご在宅ですか』
 機械を通しても分かる、上品な声。
 真っ青な顔をして振り返った母の肩越しに、冷凍庫に手をつっこんだまま、インターホンを見る。
 姫榊先輩の母と思われる女性が、小さな画面の中からこっちを真っすぐに見ていた。

 *

 リビングで、ソファに座る姫榊先輩のお母さんと、ダイニングから持ってきた椅子に腰かけた俺たちは向かい合う。コーヒーテーブルの上には一人分のコーヒーが用意され、端には、姫榊先輩のお母さんが持ってきてくれた高そうなお菓子の包みがおいてある。
 急いで片付けて、と小声で命じた母が玄関に向かったあと、ロッキングチェアでのんびりゲームをしていた父親と二人で、座卓の上に置きっぱなしになっていたチラシや本などをまとめて棚の中へとツッコみ、リモコンをテレビの前に戻し、ソファにかかっていた母親のエプロンをキッチンへ持っていき、とできる限り早く動いたが、それでも、どう見たって、リビングの中はあまりにも生活感にあふれていて、本来は管理人用だという先輩の部屋よりもさらに狭い。俺の格好もパジャマ兼用のスエットだ。
 あぁ、どう見られているのだろう。どう思われているのだろう。そして、何を言われるのだろう、何がどこまでバレているのだろう。
 あまりのことに吐き気すら覚えていると、姫榊先輩のお母さんが口を開く。
 「姫榊百合恵(ゆりえ)と申します。本日はお休みのところ、突然押しかけてしまい申し訳ございません」
 丁寧に頭を下げられ、慌てて、三人で頭を下げ返す。百合恵、という名前は知っていた。ファンレターをもらうようになった最初の頃、渉さんの名前の下に綺麗な字で併記されていた名前だ。
 「青木多恵子です。主人の康介と、息子の冴介、です」
 母の紹介に頷きながらそれぞれに向けられていた百合恵さんの目が、俺の上で固定される。
 「……ミス・アキュイティー先生ですね」
 母親が、横から何かを言おうとするのを手を出して遮り、俺は「はい」と静かに答える。
 「息子がお世話になっております。おかげさまで、あの子は姫榊家の長男として立派に成長いたしました」
 「申し訳ございません、姫榊様、これには事情があって、その、息子は悪くないんです。私が、私がこの子に無理やり占いを、編集部も知らなかったんです、ただ、私が」
 母が取り乱しながら口を挟んでくるのに対し、百合恵さんは微笑んで首を横に振った。
 「どうぞそのことは気になさらず。誰が占っていたにせよ、ミス・アキュイティー先生が、息子の心を守り、育ててくださった事実は変わりません。知った今も、わたくしたちの我儘(わがまま)を聞いて占いを続けてくださったことに感謝するだけです。そもそも、ミス・アキュイティー先生の素性を知るつもりはございませんでしたし、」
 母が隣でほっと肩の力を抜くのが分かる。しかし、俺はかえって緊張を強めた。ミス・アキュイティーが誰でもいいと思っているのに、ここにこうして訪ねてきた。つまり、他に気になることがあるということだ。だとしたら、その理由は一つ。
 「ただ、息子の運命の相手として現れた冴介さんを調べさせていただいたら、渉と同じ中学に通っていたことが分かり、お母様はミス・アキュイティー先生が連載していた雑誌の編集をされていたことも分かりましたので、偶然ではないだろうと思ったんです。はじめはお母様がアキュイティー先生かとも考えたのですが、それにしては、冴介さんがご自身で考えて行動されているように見えましたので、きっと冴介さんがそうなのだろうと。だとすれば、なぜ、ミス・アキュイティー先生がこのようなことをされているのかをお聞きしたく、こうして伺いました」
 「運命の相手……?」
 母が困惑したように俺を見る。父も、黙ったまま俺を心配そうに見てきた。
 俺はゆっくりと瞬きをして、百合恵さんを見る。すべてバレている、と思ったら逆に気持ちも徐々に落ち着いてきた。今さらじたばたできない。正直に答えるだけだ。
 「――お答えする前に、まず渉さんも僕をミス・アキュイティーだと分かっているのかどうか、ご存じでしたら教えていただけますか」
 「いいえ。息子はそんなことは夢にも思っていないかと」
 ほっとする。もし先輩が気づいていたとしたら、俺が、ミス・アキュイティーの占いを利用して、先輩を口説きにいっていたと思われてもおかしくなかった。それだと、また話がややこしくなる。
 「良かったです。ご心配をおかけしましたが、まず、僕は渉さんの運命の相手になろうとは思っていません。渉さんが僕の正体を知らないのであれば、このまま僕たちはただの先輩後輩に戻るはずです」
 俺は、順に説明をした。
 姫榊先輩から運命の相手と出会う方法を聞かれたこと。ミス・アキュイティーが伝えた人を運命の人だと思いこんでしまうだろうと思ったこと。先輩に釣り合わない人を運命の人だと思わせてしまうことだけは避けたかったこと。かと言って、運命の人と会うのはまだ先だと伝えて先輩が素敵な人と出会ったときに見過ごすのもよくないと思ったこと。
 「それなら、僕が運命の相手として現れたらいいかもしれないと思ったんです。このとおり平凡な顔をした坊主の男が現れたら、渉さんもさすがに運命の相手だとは思わないだろうって。正直に言えば、これをきっかけに、ミス・アキュイティーへ不信感を持ってもらって、占いの契約を終わらせられるのではないかということも、期待していました」
 「なぜ契約を終わらせたいと?」
 百合恵さんに不思議そうに尋ねられ、俺は少し笑う。
 「僕は占いをきちんと勉強したことはありません。渉さんへの占いも、自分流で占っていますが、適当なものといっていいかと思います。学生のうちは、それでもいいかもしれませんが、渉さんはこれから、姫榊家の事業を背負っていく人です。それを考えた時に、あそこまで占いを妄信するのは良くないと思っていましたし、僕も、会社を左右するようなことに関わるほどの覚悟はなかったので」
 百合恵さんが納得したように頷くのを見ながら、俺は続ける。
 「ですが、僕の側から辞めたいと言うのはできませんでした。もし渉さんがミス・アキュイティーが辞めることを納得しなかったら、今のように、姫榊家の情報網で中身が誰なのかすぐに突き止められるだろうと思っていたからです。そうなったときに、僕に占いをさせていた母やミス・アキュイティーを紹介した編集部に迷惑がかかることが不安でしたし、渉さんにも精神的なショックを与えるのではないかと心配もしていました」
 「あなたは、よく周りのことを考えることができるのですね」
 どうだろう、と首を傾げる。そうだろうか。自分が悪者になりたくなかっただけじゃないだろうか。
 黙っていると、コーヒーを一口飲んだ百合恵さんが話し出す。
 「ごめんなさい、念のために確認しますけど……冴介さんは、渉に恋愛感情を持っているわけではない、という理解でいいですか」
 「持っていません」
 間髪入れずに答える。逆に食い気味に答えすぎてしまったかもしれない、と思っていると「でも」と百合恵さんが続ける。
 「渉は、あなたのことを本当に運命の相手だと思っています。あなたたちがあの角でぶつかったとき、わたくしもその場にいました。わたくしは――ごめんなさいね、あなたは素敵な男の子だと思うけれど、でも、さすがに運命の相手ではないと思うって、あの子に言ったの。でも、渉はミス・アキュイティーの言ったとおりに出会った彼が、僕の運命の人だって言って聞かなくて。そのあとも、あなたに振り向いてもらうために頑張っているって言ってたわ」
 胸が痛い。先輩が最初から俺に向けてくれていた優しい笑顔を思い出して、今すぐ土下座したい気持ちになる。あんな純粋な人を、俺は自分に都合よくだまして、そのまま今日まで来てしまった。
 「……渉さんとは、二か月だけ、と約束しています」
 俺は声が震えないように気を付けながら百合恵さんに伝えた。
 「二か月一緒にいて、運命の相手だと僕が思えなかったら、諦めていただくことになっています。もちろん、僕は先輩を運命の人だとは思えなかったと伝える予定ですし、それで僕と渉さんが親しくするのも、終わりになると思います」
 二か月過ぎたあとも、ただの先輩後輩として仲良くなれれば、と思っていたこともあった。でも、俺が先輩を好きになってしまったから、これ以上は無理だ。
 「そう……あの子、悲しむわね」
 「そんなこともないと思っています。渉さんも、ミス・アキュイティーの占いがあったからこそ僕にこだわっているだけだと思うので。恋愛感情とかではなく。きっと、これから素敵な方に出会っていく中で、笑い話になるかと」
 淡々と答えた俺を、百合恵さんは先輩によく似た大きな綺麗な目で見つめていた。息子の心をよくも弄んでくれたな、とでも思われているのだろうか。いや、それよりも、なんでこんな平凡な男に息子は執着しているんだろうと、情けなく思っている可能性のほうが高い。
 「そうなのですね。それなら、ミス・アキュイティーであるあなたに、一つお願いしてもいいかしら」
 「はい」
 「もともと、今回、渉が運命の相手と言い出したのは、わたくしがあの子にお見合いの話をしたのがきっかけでした。お正月に、一度会ってみないかと言ったら、他に運命の人がいるかもしれないって言いだして」
 なんでこんな中途半端な時期に、運命の人と出会いたがっているんだろうと思っていたけれど、そういう理由があったのか、と変に冷静に思う。
 「その相手のお嬢さんと、再来週、いえ、もう来週ね、来週の月曜の祝日に、お見合いほど堅苦しくない場で、一度一緒にお食事でもどうですかってあちらのお母様からお誘いを受けて。だから、あなたから占いで、身近なところに本物の運命の相手がいるかもしれないって、そんなふうに渉に伝えてほしいんです」
 「……身近なところにいらっしゃるんですか」
 「えぇ、五徒有多子(うたこ)さん。ご存じでしょう。渉と一緒に生徒会の副会長に立候補したお嬢さん。きっとご縁があるのね。それに、今回の選挙活動を通じて渉のことをとても気に入ってくださったみたいで、よくご自宅でも渉のことを話しているんですって。渉も、有多子さんと公約について相談し合ったりして選挙もうまくいったと言っていたから、きっといい印象を持っていると思うんです。それなら、鉄は熱いうちに打てともいいますし、早めにきちんと会わせてみましょうということになって」
 俺は絶句したまま、微笑みながら話す百合恵さんを見る。
 みんなからお似合いと言われるあの人が、先輩の本物の運命の相手。俺は、ミス・アキュイティーとして今度こそ一生をともにする運命の相手と出会えると先輩に伝えて、二人がうまくいくようにアシストをする。
 先輩をだまし続けた、罰なのだろう。ささやかな善行を積んだところで帳消しにはなるはずがなかった。閻魔様に舌を抜かれる代わりに、俺は、自分の好きな人が他の人を好きになるために嘘をつき、好きな人が他の人の恋人として幸せに過ごす姿を見届けるのだ。

 *

 修学旅行先からも、姫榊先輩は毎日LIMEを送ってきた。
 今日はどこに行った、どんなものを見た、楽しかった、冴介くんとも来てみたい。まるで日記のようなLIMEを俺は読み、できるだけ感情をこめずに返信したり、スタンプを返したりした。
 先輩のことだから、きっと修学旅行らしく、学ぶべきことを学んで、楽しみつつも浮かれすぎることなく真面目に過ごしているのだろう。でも、本人が浮かれていなくても、呼びだされて告白をされたりということはあるかもしれない。ロマンチックな海辺で、二人きりで。あの選挙演説で、先輩の印象はアップデートされ、特に女子からの人気はさらにあがったようだし。
 もしかしたら、五徒先輩も姫榊先輩に告白してたりして、と余計なことを思い、急にずーんと暗い気持ちになる。考えたくないと思うほど考えてしまうのだから、たちが悪い。
 五徒家は、百合恵さんの遠い親戚なのだそうだ。百合恵さんもこの街の出身で、高校のときに先輩のお父さんと見合いをし、そのままお付き合いをして結婚したのだと言っていた。
 『大学生になると、出会いの機会も増えますでしょう。その前に、身元のしっかりとした、堅実なお嬢さんと婚約しておいたほうが安心ですから。上流階級のマナーだとか、そんなものはあとからでも身につけられますし』
 だから、お願いしますねと俺に念押しをした百合恵さんは、外で待っていた窓にスモークが貼られた黒塗りの車に乗って、帰っていった。姫榊先輩とぶつかった日に停まっていた車と同じものだろう。
 良かったじゃないか、と思う気持ちも確かにあるのだ。五徒先輩は、俺が先輩の運命の相手として思い描いていた人よりも、快活でしっかりしている印象だ。でも、素の姫榊先輩は少し弱気になることもあるから、儚げな女の子よりも、あのくらい強い人のほうが合っている気がする。今でもすでに綺麗な人だし、これから先輩の婚約者として東京でプロに磨かれていけば、人目を引くような美人になるだろうというのも想像できる。高校の生徒会の選挙活動を通じて信頼を築いたのが付き合うきっかけなんて、あまりにも完璧すぎるシナリオだし。
 ――分かってるんだけどな
 形を変えられてしまった心がそう簡単に納得するわけもなく、俺は深くため息をついた。

 木曜日の三時頃に、二年生たちは修学旅行から帰ってきた。
 スマホには、姫榊先輩からのLIMEが届いていたけれど、俺はわざと未読のまま放っておいた。
 いつも通りに部活に行って、白球を追い、声を出す。身体を追い込めば追い込むほど、余計なことを考えなくてすむから、今の俺にとって部活中が心を安らげることができる唯一の時間でもあった。
 「ありがとうございましたー!」
 しかしそんな時間もすぐに終わる。挨拶をしながら、チームメイトの一人が綺麗に丸刈りになっているのを見て、自分も床屋に行こうかなと思う。今日は両親ともに、仕事で帰りが遅くなると言っていた。暗い家に一人でいたら、姫榊先輩のことを嫌でも考えてしまうのは目に見えている。
 部室で制服に着替え、スマホを取り出し、先輩のLIMEは無視したまま床屋に今からでもお願いできるかと電話をすると、すぐ来るなら、と言われて、俺は急いで部室を飛び出した。
 中学のときも野球部だったけれど、セレブの多い学校だったし、坊主必須なんて言ったら親から大クレームが入る可能性があるからか、野球部もみんな髪を伸ばしたままだった。だから、高校に入って坊主が決まりだと言われたときは驚いたけれど、万が一にも先輩に同じ中学から来たと気付かれないためにも、そのほうがいいかもと喜んで坊主になった。そのときに家の近くだからと入ったのがこの床屋だが、微妙に長さを調整してくれて、坊主は坊主でもただの丸刈りではない、しゅっとした感じに仕上げてくれたので、そこからこの床屋にしか通っていない。
 先輩へのLIMEを読むのは、家に帰ってからでいいか、と小走りで床屋に向かいながら考える。
 たぶん、今日の夜に通話をしたい、という連絡か、明日の朝迎えに行くね、という連絡かだろうと思う。どちらも、今の自分には精神的な負担が大きい。けど断るにも理由がない。
 ――嫌なことを後回しにしたところで、どっちにしろ向き合わなきゃいけないって分かってるけど
 でもなぁ、と重い気持ちを抱えつつ床屋へ入り、無口なおじさんに十分ほどでしゅっとした感じに仕上げてもらって、千二百円払って外に出る。
 昨日あたりから気温がさらに下がってきている。髪を短くしたことで、よけいに寒いな、なんて考えながら歩いていた俺は、歩道橋が見えてきたところで足を止めた。
 学校から帰ってくるときはいつも歩道橋を渡ってくるけど、床屋にいくためにはそれだと遠回りになるので、もっと学校に近いところで横断歩道を渡って行ってきた。
 だから、今日は、歩道橋を渡らないで帰れるんだけど、と俺は歩道橋の上で手すりに肘をついている後姿を見つめる。
 なんであの人、こんなところにいるんだろうって、そんなの、俺に会うためでしかないだろう。
 でも、今、顔を見て冷静でいられる自信はない。それなら無視して帰った方がいいかもしれない。
 そう考えながらも、俺の足は歩道橋に向かって歩き出し、階段をのぼるときには走り出していた。
 「姫榊先輩!」
 声をかけると、先輩は驚いたように振り向いた。まさかこっち側から来るとは思わなかったのだろう。
 「どうしたんですか」
 「あ、ごめんね。お土産を渡したいと思って待ってた」
 「そんなの、別に明日でも」
 ぶっきらぼうに言った俺に、先輩が「まあそうだね。明日の朝でも良かったんだけど」ともごもごと言う。
 「なんか、それを口実に、ちょっと冴介くんに会いたかったっていうか。今日バイトもお休みにしてたからちょうどいいかなって」
 俺に会いたいと思ってくれたことへの嬉しさと、でもそれを伝えることはできない切なさに、胸がぎりっと引き絞られる。
 「……俺が来なかったらどうするつもりだったんですか。俺、床屋に寄ってきたから、この歩道橋を通らない予定だったし。そうしたら待ちぼうけでしたよ」
 「それならそれで仕方ないよ。LIMEも既読にならないから、気づいてないかもって分かっていたのに僕が勝手に待っていただけだから」
 俺が未読無視をしていたなんて、思いもしないのだろう。人を疑うことをしない、優しい人なのだと思って、また辛くなる。
 「髪もすっきりしたね。そんなに長くなっていたように思わなかったけど、こうやって見るとけっこう伸びてたんだね」
 「坊主なんてちょっと切ったくらいで何も変わらないですよ」
 「そうかな、意外と変わると思うけど。まあ、どっちにしろ冴介くんが可愛いことには変わらないけど」
 笑った先輩の顔が、急にぼやける。
 可愛いわけないのに。こんな坊主頭が。先輩がそんな風に言ったりするから。俺を可愛いって、好きな子だって、言うから。俺も、先輩を好きになってしまった。俺のものになってもらえることなんて、絶対にないのに。
 日曜日からずっと胸のうちにため込んでいた悲しみが一気にあふれてきて、俺は黙ったまま涙をボタボタとこぼした。
 先輩は目を見開いたあと、慌てたようにポケットからハンカチを出し、俺の涙を遠慮がちに拭いてくれる。修学旅行帰りのはずなのに、やっぱりそのハンカチはアイロンが綺麗にかかっていて、毎日きちんと取り替えてたんだろうな、なんて関係ないことを思ってしまう。
 「冴介くん、どうしたの。なにか嫌なことでもあった?」
 眉を八の字にして聞いてくる先輩を、これ以上困らせたくはない。でも、何もありませんって言ったって、こんな姿を見せてしまったからには納得してもらえるわけもなくて。
 俺は、しばらく黙ったあと、小さな声で言った。
 「――失恋したんです」
 「え?」
 「失恋したから、髪を切ったんです。切るほどの髪もないけど、でも、少しでも気持ちを切り替えたくて」
 少しの真実とたくさんの嘘を取り混ぜて伝え、俺はうつむいた。スニーカーに落ちた涙が跳ねる。
 馬鹿みたいだけど、これなら髪のことについて言われて泣いたこともギリギリ納得してもらえるだろう。本当のことなんて、この人は一生知らなくていい。
 「ごめんね」
 先輩がそう囁いてきて、先輩のせいじゃありません、と答えようとした俺は、次の瞬間先輩の腕に包まれ、固まった。
 先輩はもう一度「ごめん」と言って、俺をぐっと抱きしめた。
 こんな人目につくところでやめてください。
 そう言って離れなければ、と思うのにどうしても離れられず、俺は抱き寄せられるままに温かい先輩の胸に顔をうずめるようにして、涙を流し続けた。