この運命はミッション

【今週は、時間を意識するようにアドバイスいただいたことで、勉強にめりはりがつき、いつもよりも集中できたように思います。ラッキーアイテムのりんごも、久しぶりに食べたらとても美味しかったです。このように占っていただいているおかげで、普段自分では選ばないものを手にとることができるのもありがたく思っています。また、テスト前で気が張っていたのかあまり胃の調子がよくなかったのですが、りんごを食べたおかげでよくなった気がします。来週のテストのあとは、生徒会の選挙運動が始まります。生徒会長にふさわしいとみんなに思ってもらえるよう、何かアドバイスがありましたらお願いします。】
 ――生徒会長?
 メールを読みながら、もやつきを覚える。
 そんな話、まったく聞いていない。話す時間がなかったとも思えない。
 つまり、俺には話す必要のないことだと判断されていたのだろうと考えた途端、もやつきは小さな黒い雲となり、胸の中で苛立ちという名の稲妻を光らせ始める。
 もちろん、話す必要はないという判断は正しい。先輩が生徒会長になることに、俺はなんら関りがないのだから。そう自分に言い聞かせても、頭では理解できるのに、感情では納得できずに俺はため息をつく。
 立候補者を募集していたので、近々生徒会の選挙があるのは一応知っていた。冷静に考えれば、あのミスターノブレスを差し置いて生徒会長になろうという人物などいないだろうし、姫榊先輩が立候補するのは当然すぎるほど当然なのだけれど、生徒会が自分とは無縁なものだからか、全く想像もしていなかった。
 一緒に過ごす時間が増えて、気づかないうちに、先輩を自分と同じ場所にいる人だと勘違いしはじめていたのかもしれない。文武両道で、見た目がよくて、中身も真面目で、いつも前向きで、はるか高みにいるあの人を。
 「よくないな、よくない」
 呟いて、タロットカードを取り出す。
 カードがおさめられた箱の表面には「愚者」の絵が描かれている。カードとしては、決して悪くない。自由や可能性、好奇心の象徴で、新しい世界へ踏み出すイメージだ。でも、今の自分には、「愚者」の本来の意味そのままに「ばか者」と言われているような気がしてしまう。
 俺は偽物の運命の相手。先輩がなんでも話してくれるなんて、思い上がりも甚だしい。いくら先輩が運命の人として大事にしてくれていたとしても、もっと謙虚に、身の程をわきまえる必要がある。
 そこまで考えて、俺は自分のもやつきにもう一つの原因があることに気づいた。
 俺が運命の相手として現れてから、二週連続で先輩からのメールには「運命の人」について書かれていた。しかし、今回のメールでは一言も触れられていないのだ。
 気になって、先週の送信済みメールを見にいく。
 ラッキーアイテムは先輩が書いているとおり、「りんご」。
 俺と会うときに、りんごを用意しようと思ってもおかしくない気がするけど、どら焼きとりんご両方出すというのはなんか変だからやめたんだろうか。そういえば、用意された中にアップルジュースがあったような気がしないでもない。自分も落ち着かなかったから何があるかまで気が回らなかったし、選んだのはお茶だったから、さすがの先輩も運命の人とりんごを結びつけるのは無理だったか。
 そして、ラッキープレイスは「コーヒーショップ」。俺には関係なさそうだな、と結果を書き込んだことを思い出す。実際、今週、コーヒーに関するような場所で先輩と会うことはなかったから、メールで触れられなくてもおかしくはないかもしれない。
 まあだから、別に運命の人に興味がなくなった、というわけではないのだろう。
 そう結論付けて、うんうんと頷いた俺は、直後に自分の右頬をパーンと打った。
 正気を(たも)て。俺への興味をなくしてもらわないといけないのに、何をちょっと安心してんだ。
 「マジでよくないわ」
 再び呟いた俺は、いったん立ち上がって水を飲みに台所へといく。
 リビングのソファに座ってテレビを見ていた母が「今日の占い終わった?」と振り返って聞いてきた。
 「あー、まだ。なんか渉さん、生徒会長に立候補するらしくて、来週から選挙運動も始まるからさ。ちょっと占いの内容も考えないとと思って」
 「あら、そうなの。ならミス・アキュイティーとして励まさないとね」
 「うん」
 「励ますもなにも、渉さん以外が生徒会長になるなんてことはないだろ」
 ロッキングチェアでゆらゆらとしながらスマホでゲームをしている父が言って、母も「まあそうね」と同調する。
 当然のことながら両親には、自分が姫榊先輩の運命の相手として関わりを持っているということは言えていない。二か月過ぎれば、運命の相手ではなくなるのだから、無駄に心配させる必要もないだろう、と思ったからだ。
 「まあ、でも、生徒会長にふさわしいと思われるようなアドバイスがほしいって言われてるから」
 「さすが渉さん、(こころざし)が高いわね」
 「だね」
 それだけ言って、コップに注いだ水を一気にあおって部屋に戻る。
 そう、あの人は志が高くて、生徒会長になるべくしてなる人である。俺の感情なんてつまらないものは横に蹴り飛ばして占わないと。
 椅子に座り直した俺は、姫榊渉さんの運勢を教えてくださいと心の中で唱え、気合を込めて一枚目のカードを引く。
 ――「ワンドの5」の正位置
 いいカードだ、と思う。周りの人たちと理想を実現させていくために切磋琢磨して一皮むけるというような意味を持つ。生徒会長を目指すことを後押ししてくれるようである。
 続けて出たカードは「ソードのナイト」の正位置。勢いのあるカードだ。「動くべきときがきた」「追い風にのって進むとき」。
 三枚目は「審判」の逆位置。「過去にとらわれる」「失敗や後悔」「望まない結果」。
 四枚目は「節制」の正位置。「応用」「折り合う」「無理しない」「自然体で」。
 五枚目は、「ペンタクルの5」の正位置。意味は「喪失」「拒絶」「苦しい状況」。
 六枚目は、「ソードのキング」の逆位置。意味は「融通の利かなさ」「先入観や偏見」「自己中心的」。
 一枚目につながる七枚目は、「ワンドのナイト」の逆位置。意味は「強い自己主張」「独りよがり」「強引な態度」。
 最初が良かっただけに、後半のカードのネガティブさが気になるところではある。
 全体の印象としては、過去に何か行動しようとした結果失敗したことがあるようだ。その原因はおそらく思い込みや自己主張など、周りが見えていなかったことに起因しているものと思われる。ただ、一枚目のメインのカードがいいものなので、過去の失敗をとにかく糧にしろ、自然体でいけ、と念押ししている感じだろう。周りの意見をしっかり聞きながら進めば問題はなさそうに見える。
 そういえば、今回はあんまり恋愛っぽいカードが出なかったなと思う。
 ミス・アキュイティー以外好きになったことがないという先輩だから、過去の失敗というものが出ている段階で、この結果は恋愛とは関係ないものを示しているということだろう。
 占い結果を、そのまま生徒会長になるにあたってのアドバイスとしても伝えようと、俺はメールに文字を打ち込み始めた。

 *

 中間テスト一日目が終わった放課後。
 全然手応えがなかったという中田は、悲壮な顔をしていた。
 「さいごに精一杯あがきたいから俺は図書室に行く。家は誘惑が多すぎる」
 「そうか。頑張れ」
 「青木も行こう」
 「いや、別に俺、そこまで切羽詰まってないし」
 「俺はさ、図書室でも集中しきれない自信しかないから、お前という監視要員が必要なわけよ」
 「えー」
 「青木も勉強して帰ればいいだろ。見返りとして帰りに俺の特大な感謝を差し上げるし」
 「特大な感謝を差し上げられてもね……」
 とは言っても、家で勉強しても学校で勉強しても同じことだし、気分転換に図書室で勉強するのはいいかもしれない。
 「しかたねーな」
 立ち上がると、中田が「先に小さめの感謝を」と梅ガムを一枚渡してきた。中田は梅味のお菓子が好きなので、もらっているうちに自分も好んで食べるようになっている。
 図書室に向かいながら、そういや、今週の姫榊先輩のラッキープレイスは本が多い場所だったなと思い出す。
 本屋か図書館か図書室か、と書いておいたが、図書室で会ったりしたらどうしよう、と少しソワソワする。あんな正面切って可愛いと言ってきた人を相手に、自然に振舞うことができるだろうか。
 すぐ近くにあった先輩の顔が、ボンッと脳内に出てきて、顔が急激に熱くなるのを感じる。
 ――いや、その前に、先輩にとって俺と会うのがラッキーだっていうのが思い上がりなんだってば……
 そうだった、気を付けねば、と今度は眉根に力をこめて一人で頷いていると「どした。顔がにぎやかだな」と横から言われる。
 そんなに顔に出ていたか、と恥ずかしくなりつつ、小声で答える。
 「顔芸の練習を……」
 「練習か~ほな頑張らんとな~」
 よく分からない言い訳も適当に流してくれるのが、中田のいいところである。

 図書室は、けっこう空いていた。今さら図書室で必死に勉強しようと思う人なんて、あまりいないのかもしれない。
 どこに座ろうか、とキョロキョロしていると、奥のほうにある一人用の自習スペースに姫榊先輩が座っているのを見つけた。ほかがガラ空きなのに姫榊先輩の周りのスペースだけ、やけに女子で混みあっている。
 ラッキープレイスと言われたから、ここで勉強しようと思ったということだろう。もしかして、とは思っていたけれど、実際に先輩の姿を見ると変に緊張してしまう。
 どんな顔をして会えばいいか分からないし、先輩のファンなのであろう女子たちに気づかれても面倒くさそうだし、離れた場所に座った方がいいか、と考えるが、そんな俺の迷いなど知る(よし)もない中田が「あそこの長机にしようぜ」と自習スペースにずんずん近づいていく。
 その背中に隠れるようにして俺もついていき、中田とタイミングを合わせて他に誰も座っていない長机に並んで座る。
 俺より身体の大きい中田が先輩に近い方に座ってくれたので、よほど注意しない限り、俺は見えないはずだ。
 最初こそ緊張していたが、ちらっと見ても先輩がこちらに気づいている様子はないので、次第に落ち着いてくる。この前先輩の家で勉強したときにも思ったけれど、さすが勉強もできるだけのことはあって集中力がすごい。周囲を見回すことなんてないだろう。
 中田が何かと質問してくるのに小声で答えつつ、一通り明日のテスト範囲内の確認を終え、ぐーっと両手を上に伸ばしたところで、急に椅子の背もたれにドン、と衝撃がきた。
 えっと振り向くと、わざとぶつかってきたらしい姫榊先輩が笑顔で俺を見下ろしていて、心拍数が跳ね上がる。
 「あ……ども……」
 「お疲れ様。まだ帰らないの?」
 「いやまだ、あの、こいつの見張り番として来てるので」
 「あ、一緒に帰った方がいいなら、俺は全然置いていってもらえれば」
 中田が先輩と俺を交互に見ながら、どうぞどうぞ、とでも言いたげに笑顔を作る。気まずいから変に気を遣うな、と思いつつ「いいよ、まだ分かんないところあるんだろ」と答える。
 「なので――」
 もうちょっと勉強してから、と言いかけた俺から視線を外し、先輩が中田に話しかける。
 「そういえば君かな、冴介くんに面白いラジオを紹介してくれたの」
 「あ、あー、そうっす。なんだ、青木が聞きたいのかと思ったら、先輩に教えるためだったんだ」
 「そう、この前、家に来たときに教えてもらって、早速、聞いてみてるよ。面白いね」
 「家に!?」
 中田が素っ頓狂な声をあげ、さっきまで先輩が座っていたあたりが、ざわっとするのを感じとる。
 噂がまたすごい勢いで燃え広がりそうだ、と思いながら俺は慌てて立ち上がって少し声を張る。
 「そういえば、この前の相談の件なんですけどー」
 「え、相談の件?」
 きょとんとする先輩に構わず「あっちで話しましょう」と図書室の入口へと向かう。
 大人しくついてきた先輩と、廊下に出たところで向かい合う。
 「相談って何のこと?」
 先輩が首を傾げて尋ねてくるのに対し、俺は難しい顔をしてみせる。
 「あれはカモフラージュです」
 「カモフラージュ」
 よく分からない、といった顔で先輩がリピートする。
 「家にいったとか、そんなこと言ったらまたすごい噂されるじゃないですか。だから相談かなんかあったのかなって周りに思ってもらえるかと思って」
 「なるほど」
 「俺、目立ちたくないって言ってるのに……」
 拗ねたような口調になってしまい、わ、キモ、と思う。何、先輩に甘えたようなこと言ってるんだ。
 「ごめんね。なんか、その」
 しかし、俺の言葉を素直に受け取ったらしい先輩は、困ったように眉尻を下げる。
 「僕と勉強したときは距離とってたのに、彼とはずっと近い距離で勉強してたから、なんか僕も仲がいいってことをつい言いたくなってしまって……」
 「あの、近い距離って、図書室だと大きな声で話せないから近くに寄ってるだけで、別にあいつと近づきたいわけじゃないです。あと、俺、中田の家にはすでに二回行ったことがあるので、全然マウントになってないです」
 「マウント」
 またリピートした先輩が、はっとした顔をする。
 「なるほど、これがマウントの心理なのか。これまで、普通に会話にしているだけでも、マウントを取っているって言われることがあってね。でも、自分ではまったく自覚がなくて、いまいちその概念が分からなかったんだけど」
 まあそうだろう。身の回りに当たり前のようにあるものについて喋っているだけでマウントになってしまうような生まれなのだ。ピンとこないのも仕方がない。
 「つまり、マウントって必死のアピールなんだね。僕も、さすがに彼よりも自分のほうが冴介くんに近いとは思えないから、少しでも優位に立ちたくてこんな言動をしてしまうわけか。なんか恥ずかしいな。ごめんね」
 「別に謝るようなことではないですけど……こっちこそ過剰に反応してすみません」
 お互い薄暗い廊下でもぞもぞと謝りあったあと、しーん、となる。気まずい。
 「……じゃあ、そういうことで、お疲れさまでした」
 ぺこっと頭を下げて、姫榊先輩の横を通り抜けて図書室に戻ろうとすると、制服の袖口をつかまれる。
 「あの、あのさ。もちろん、僕にこんなことを言う権利はないのは分かっているんだけど、でも、もう少し友達と、距離をとって座った方がいいと思う。ほら、だって、あの友達と噂になっても冴介くんは嫌でしょ」
 俺と中田が噂になることはあり得ない。先輩相手だから噂になっているだけであって、そもそも中田とそこまで距離が近かったとも思えない。
 でも、真剣な先輩に反論する気になれず「分かったんで、離してもらっていいっすか」とだけ言うが、先輩が指の力を緩めてくれない。ぐっと引っ張るが、先輩もぐっとつかんできて、いたずらっぽい表情を見せる。さっき椅子にぶつかってきたときもそうだけど、俺にちょっかいを出すことが楽しくなってきているのかもしれない。
 ――好きな子の気を引きたい小学生かよ
 そう思った直後、自らを先輩の好きな子と定義してしまった自分自身に、バカ野郎が、と胸の中で悪態をつく。
 惑わされてはいけない。ふーっとため息をついて、先輩の指を一本ずつ袖口から外す。指先が触れ合うことにいちいちドキドキしてしまうのをやめたい、と思っていると、最後の一本を外したところで、突然ぎゅっと指先を握られ「ぎゃ」と言ってしまう。
 「ぎゃって……」
 ふふふっと笑った先輩が「ごめんごめん」と俺の指を離す。
 「じゃあ、また。連絡するね」
 そう言って、先輩は笑顔で去っていき、俺ももう一度小さくため息をついて図書室へと戻る。
 先輩の周りに座っていた女子たちの視線が突き刺さるのを感じながら、興味津々でこっちを見ている中田の横に座る。
 「一緒に帰んなくて良かったんか」
 「そういうんじゃないから。マジで」
 答えた俺は、少しだけ椅子を中田から離して、教科書を開いた。

 *

 水曜日、ようやく中間テストも終わり、なんとか生き延びた中田と一緒に教室を出る。
 今日から部活も再開である。少しだるくもあり、一方で体を動かしたくもあり、という感じだ。
 「便所行きたーい。これ頼みたーい」
 「うぃー」
 バッグと、おやつが入っているコンビニの袋を受け取り、トイレの前で待っていると、スマホがポケットの中で振動した。
 取り出して眺めると、姫榊先輩からのメッセージが入っていて、ん?となる。
 連絡が来るのは大抵夜である。こんな時間になんだろう、とメッセージを開く。
 【夜九時頃にLIMEで通話したいんだけど、どうかな】
 書かれていた内容に、少しだけドキリとする。これまで、LIMEで文字のやり取りはしているけど、通話をしたことはない。なんか通話って、ちょっとこう、親密度が高い感じがしてしまう。
 「お待たせー」
 トイレから出てきた中田に「ほい」とバッグを渡しながら、いや、別に友達とだって通話するよな、と思い返す。中田なんてむしろ通話派だ。文字でちまちまやり取りをするのが面倒くさいらしく、ちょっとしたことでも通話で連絡してくる。
 つまり、通話だって別にどうってことはない、と自分に言い聞かせながら【大丈夫です。ただビデオはなしでお願いします】と返事をし、卓球部の中田と昇降口で別れて部室へと向かう。顔を見ながらの通話とか、背景とか服とかいろいろ気になってしまいそうだ。
 でもなんで通話なんだろ。もしかして、生徒会長に立候補することを律儀に報告しようとしてるとか? いや、明日からどうせまた迎えにくるんだからそのときに話したっていいだろうし。それか、単純に声が聴きたいとか、そんな感じか?
 「それはないわ~」
 自分でツッコみながら指に引っかけているコンビニの袋をブラブラとさせたところで、はっとする。これ、さっき預かった中田のおやつだ。
 先輩との通話に気を取られて渡すのをすっかり忘れていた。慌てて(きびす)を返し、体育館へと向かう。
 高校の体育館は、三階建てである。
 はじめて見たとき、やけに立派だなと思ったものだが、数年前に寄付によって建設されたものと聞いて納得した。姫榊先輩が入学することを見越して、HSGKグループが寄付したのだろう。
 一階は武道場で、その一角を卓球部も使用している。二階は部室とトレーニング場。三階は天井が高くなっており、バスケ部とバレー部が使用している。幅広のキャットウォークもついていて、雨の日はそこで陸上部が練習することもあるらしい。
 ちなみに、野球部やサッカー部をはじめとする屋外で活動をする部活の部室棟も、体育館を建設した翌年にやはり寄付によって建て替えられている。部員全員が一人一個使っても余るほどの数のロッカーも完備されており、一年生にも入部後すぐに割り当てられた。姫榊先輩の存在に感謝である。
 体育館につき、入り口で急いで靴を脱ぐ。武道場の扉は開いていた。今さらながら、姫榊先輩とばったり顔を合わせる可能性があることに気づき、そーっと中をのぞく。
 まだ武道場の中は閑散としていた。剣道部が二人、柔道部が一人いるだけで、卓球部はまだ誰もきていない。姫榊先輩の姿がなかったことにちょっと安心しつつ、二階の部室へ続く階段に向かうと、扉近くの壁に寄りかかって喋っていた制服姿の女子グループの一人が「あ、姫榊くんのオキニだ」と言うのが耳に入った。
 「会いに来たんかな」
 「えー、ウザ」
 「ってか、なんであれがオキニなのか意味わかんなくない?」
 「あれじゃない、珍獣を愛でるみたいな」
 「ひっど。でも分かる」 
 「でももう終わりでしょ? ほら、イヨリが」
 「あー、明日から一緒に学校来るらしいしね」
 「悔しいけどイヨリならまだ納得するわ。美人だし」
 聞こえないふりで階段を一段飛ばしで駆けあがる。俺なんかが先輩と釣り合わないことは自分が一番よく分かっている。先輩の相手としては平凡すぎるという評価も、そりゃそうだとしか思わなかった。先輩の相手として噂されることでアンチがわくのも予想通りだ。
 だけど今、確かにショックを受けている自分がいた。先輩に可愛いと言われたり、ちょっかいを出されたりしているうちに、浮かれていたのかもしれないと思うと、自分に腹がたってくる。
 そして、イヨリさんって誰なんだろう。初めて聞く名前だ。これまで、誰の告白も受け入れなかったあの先輩が、誘われて一緒に登校しようと思うくらいなんだから、相当素敵な人なんだろう。その人と一緒に登校するってことは、もう俺を迎えに来ることはないってことか。あぁ、だからきっと、夜の通話もそのことで、先輩のことだから律儀に謝ってくるのかもしれない。君を運命の人だと思っていたけど、やっぱり違っていたみたいだ、とか。二か月経ってないけど、お試し期間は終わりにしよう、とか?
 ぐるぐると考えながら階段を最上段まで駆け上ったところで、下を向いていた俺は、勢いのままに誰かにぶつかった。あっと思ったときにはすでに遅く、踊り場にかけようとしていた右足がすべり落ち、後ろへと体が倒れていく。
 背後は階段だ。やばい、と思った瞬間、ぐっと手を引っ張られ、制服の背中を持つようにして抱き留められる。そのまま、受け身をとって後ろへと転がったその人に投げられるようにして、俺も踊り場に転がった。
 「あぶねーな! 前見とけよ!」
 「すみませんっした!」
 間一髪で助けてくれたのは柔道着を着た先輩で、起き上がってあぐらをかいたその人に何度も謝りながら、自分もなんとか四つ這いのような姿勢になる。
 「マジ助かりました……」
 「俺が加害者みたいになるとこだっただろうが。次から気を付けろよ」
 「はいっ!」
 その場で土下座した俺の頭を軽くぱしっと叩いた先輩が「わ、びびった、なんだよ」と声をあげる。
 「叩く必要は、ないよね」
 その低い声が姫榊先輩のものだと気付き、顔をあげる。剣道着を身に着けた見慣れない姿に一瞬目を奪われるが、すぐにその顔が思ったよりも怒っているうえに、俺を叩いたのであろう柔道部の先輩の右手首を持ち上げて、血管が浮くほど力を込めて握っていることに気づき、慌てて立ち上がる。
 「姫榊先輩、違うんです。俺が前を見てなかったせいで」
 「見てたから分かってるよ。それでも、叩くのはよくない」
 「でも、全然痛くなかったし、ほんと、その、こちらの先輩がいなかったら、俺、今頃救急車呼ぶことになってたかもしれないので」
 「だけどね」
 「だけどねじゃないんです! いいから、まずその手を離してください」
 俺が睨むと、姫榊先輩が渋々といった様子で手を離す。
 手首を解放された先輩は、立ち上がりながらちょっと驚いたように俺たちを見比べた。ミスターノブレスに対して、こんな口の利き方をするやつなんて、この学校内にはほかにいないのだろう。
 「ほんと、すみませんでした。先輩じゃなかったら、俺のことあんなふうに支えられなかったと思うし、おかげで命拾いしました」
 「いや……あの、こっちこそ叩いて悪かった」
 頭を下げあっている横から、姫榊先輩が「俺も支えられると思うけど」といらない口を挟んでくる。そんなことを言っている場合か。
 「ってか、姫榊先輩も謝った方がよくないですか」
 「……そうだね。ごめん。手首痛くなかった?」
 俺に促されて、穏やかに柔道部の先輩に声をかけるが、その目がまったく笑っておらず、ミスターノブレスの名が泣くぞ、と思う。
 「大丈夫大丈夫。じゃあ先いくわ」
 それだけ言ってそそくさと階段を下りて行く柔道着の後姿を見送る。俺の不注意で巻き込んで助けてもらって、そのうえ気まで遣わせることになってしまって本当に申し訳なかった。
 はぁ、とため息をつき、俺は姫榊先輩を見る。
 「ってことで、もう大丈夫なんで、姫榊先輩も部活行ってください」
 「え、僕に用事があったんじゃないの」
 「なんでですか。用事があるのは中田ですけど」
 「呼んだ~?」
 能天気な声がいつの間にかできていた人だかりの一角から聞こえる。
 「中田、探したわー」
 中田の姿を見つけ、ほっとしてそちらに歩き出す。早く注目の的から逃れたい。
 しかし。
 「じゃあまた夜にね」
 姫榊先輩が後ろから追い打ちをかけてきて、ひっとなる。慌てて振り向き、何か誤魔化せるような言葉を、と思うが、すでに姫榊先輩は階段を下りていた。結果、余計に注目される中、俺はとぼとぼと中田のもとへと向かい、コンビニの袋を「わすれもの……」と渡した。

 *

 九時ちょうどにかかってきたLIME通話に「はい」と不機嫌丸出しの声で出る。
 『もしもし、冴介くん? なんか電話越しだと声の感じが変わるね』
 楽し気な声に毒気を抜かれ、勉強用の椅子に姿勢を正して座っていた俺はため息をつく。
 「最初にいいですか。何度も言ってるんですけど、俺は注目されたくないし、噂の的になりたくないんです」
 『うん』
 「なのに、なんで、あんな風にまた夜にね、とか言うんですか」
 『またマウントを取りたくなってしまったのかな』
 「かな、じゃないんですよ」
 俺の返しに、先輩がスマホの向こうで柔らかく笑う。
 『でも、たぶん噂になるとしたら、僕のその言葉よりも、冴介くんの僕への態度だと思うよ』
 「え」
 『あのあと、剣道部の一年生の子がね、青木はいいやつなんですってフォローしにきてた』
 「えぇ……」
 『あと、冴介くんがぶつかった柔道部の彼もね、もしかして親戚なのかって聞きにきたし』
 「つまり、ミスターノブレスに生意気な口を利く怖いもの知らずな奴として名を馳せたわけですね」
 『僕は、冴介くんにあんなふうに接してもらえるのが嬉しいんだけどね』
 Mか、と思うが口には出さずにおく。
 『だけど、ほかに反省したこともあったよ』
 「はぁ」
 『黒井くんに、あ、黒井くんって言うのは冴介くんがぶつかった柔道部の彼なんだけど、あとから、確かに彼に対して冷静さを欠いてたなって思って、なぜだろうってずっと考えていたのだけど、冴介くんを助けた黒井くんに嫉妬していたことに気づいたんだよね。僕も、冴介くんが階段から落ちそうになったのを見てすぐに飛び出したんだけど間に合わなかったから。好きな子を自分で助けたかったけど、助けられなかった悔しさが根底にあったんだろうって』
 先輩の口調があまりにも真剣なので、こちらも黙って聞いているが、ムズムズする。
 なんでこの人、こんな風に好きな子とか、そういうことを当たり前みたいに言うんだろうか。
 『そこに、黒井くんが冴介くんを叩いたのを見てしまったから、その悔しさをぶつけるような形になってしまったんだと思う。八つ当たりみたいで良くなかったよね。でも、軽くだとしても、あんなふうに人を簡単に叩くのはよくないという気持ちは変わらないよ』
 「それは同意しますけど」
 『あと、もう一つの反省点としては、冴介くんが黒井くんじゃないと支えられなかったと言っているのを聞いて、僕も支えられるって言ってしまったことで』
 あぁ、確かにあのタイミングで謎アピールをしたことについては反省すべきかもしれない。
 『よく考えたら僕たちがあの角でぶつかったとき、冴介くんのこと支えられずに尻もちをつかせてしまったのに、えらそうなこと言ってしまったなって』
 「いや、反省点そこじゃないです」
 『え?』
 「あの謝罪しあっているタイミングで、俺だって、って子どもみたいに割り込んできたっていうのが反省点かと」
 『あぁ……そっちか……』
 「ですね」
 『うーん、冴介くんに関わることだと、冷静になれなくなるのかもしれないな。冴介くんに僕が一番だと思ってほしいっていう気持ちが何よりも前面に出てしまうというか』
 ビデオ通話にしなくて良かった、と顔が熱くなるのを感じながら思う。こんなこと顔を合わせて言われていたら挙動不審になってしまう。
 だって、本人はあまり意識していないんだろうけど、言われているほうからしてみれば、これってけっこうな口説き文句だ。自分にとっての長年の推しであり、どこからどう見ても頂点にいる、一番以外の何者でもない人が、俺に一番だと思ってほしいと不器用に足掻いているとか、そんなの……愛しい、じゃなくて、えーっと、そうだ、萌え、という概念が一番しっくり気がする。
 恋愛感情は先輩に対して持つべきではない。でも、萌えるのならありだろう。
 椅子をくるくると回転させながら、一人で必死に自分の感情を整理していると『そういえば、本題なんだけど』と先輩が続けた。
 『実は、明日からも一緒に登校できなくなったんだ』
 「イヨリさんと登校するんですよね」
 先輩が動揺するかと直球を投げてみるが、スマホの向こうの穏やかな声は変わらない。
 『そう。よく知ってるね』
 「風の噂で」
 『そうか……こんなことが噂になるんだから、冴介くんと僕のことも、それはすぐに噂になってしまうね』
 ここまでの会話で、イヨリさんの存在はそこまで気にならなくはなっていたけれど、一応聞いておこうと口を開く。
 「イヨリさんに一緒に登校しようって誘われたからって聞きました」
 『そう。実は僕、生徒会長に立候補するんだけど、イヨリさんは副会長に立候補するんだ。お互いほかに立候補者はいないから、信任投票になるんだけどね』
 「あ、そうなんですか」
 生徒会長のこともようやく聞けた。ミス・アキュイティーとしては知っているけれど、冴介としては知らないという状況もこれでなくなる。
 『うん。それで、明日から選挙活動が始まって、朝の挨拶運動がその一つなんだよね。七時半に集合だから冴介くんと一緒に登校すれば余裕で間に合うって思ってたんだけど、イヨリさんから登校中の時間を有効活用しませんかって提案されたんだ。ほかに立候補者がいないからこそ、会長と副会長で公約とかも擦り合わせてセットで信任してもらえるように頑張りたい、でも、学校で時間を作るのは難しそうだしって言われてね。迷ったけど、僕も生徒会長にならないといけないから、提案にのることにした』
 「そうだったんですね」
 イヨリさん疑惑が自分の中で完璧に消化できたことで安堵しつつも、『生徒会長にならないといけないから』という一言が引っかかる。生徒会長になりたいから、とか、なるために、とかではないのか。
 『選挙期間中は昼休みも校内放送をしたりとかクラスを回ったりとか、毎日やることがあるから、冴介くんと音楽室で過ごす時間がとれないし、本当は朝くらい冴介くんと過ごしたかったんだけど』
 「仕方ないですよ」
 しょんぼりとした先輩に引っ張られて、がっかりしそうな自分に喝を入れ、明るく答える。
 「この一週間が終わったら、また一緒に登校しましょう」
 『その翌週から、僕たち修学旅行があるから……』
 「あ~……」
 そうか、二週間くらい会えないのかと、今度こそつまらない気持ちになる。
 いや、だって、しょうがないよね。先輩は俺にとって推しなんだから。萌えを摂取できなくなるとなると、そりゃつまらなくても当たり前なわけで。
 誰に対してか分からない言い訳を胸の中で呟いていると『冴介くん』と先輩が静かに語り掛けてくる。
 『ごめん、今が正しいタイミングかどうかは分からないんだけど、その、二か月一緒に過ごすって話をしたけど、いつまでって具体的に決めてなかったよね』
 「そうですね。確かに」
 『二か月っていうのは、二か月後の同じ日付ってことでいいのかな。それとも八週間?』
 問われて、スマホのカレンダーを出す。角でぶつかったのは、ちょうど三週間前。そこから二か月後の同じ日付となると、十一月の最後の月曜日になる。八週間となると、その前の週の水曜日。どちらも中途半端だ。
 「それなら、間をとって、八週目の金曜日までってことでどうですか。区切りがいいし」
 『今回会えない二週間分を足してはもらえない?』
 「先輩は、最初からこういう予定になることが分かってたんですよね。なら、ダメです」
 あくまでも、軽く答える。そう。ダメだ。二か月を一緒に過ごして、やっぱり運命の人だと思えなかったって言わなければいけないのだから。二週間延ばしても、その答えが変わることはない。逆に、先輩の貴重な青春を俺が無駄に奪うだけになってしまう。
 『そっか』
 先輩の声も意外と暗くはなく、ほっとする気持ちと物足りない気持ちがないまぜになる。
 『じゃあ、せめて会えない期間、こうやって通話するのはいい?』
 「それはいいですけど」
 『良かった。じゃあ、通話したいときには今日みたいに先にLIME送るようにするね』
 「分かりました」
 『なんか長くなっちゃってごめんね。でもたくさん話せて嬉しかった。おやすみ』
 そう優しく言った先輩の声に、もっと話していたいとねだろうとするもう一人の自分をおさえながら、俺も「おやすみなさい」と告げて、通話を切った。
 ベッドに寝転がり、鈍く痛む胸に手を当てる。
 いつからか、ずっとチグハグなまま放っておかれている心が、その歪みに耐えられなくなってきているのかもしれなかった。