【今週は幾何学模様のハンカチを持つようにしていたおかげで、運命の人が倒れそうになるのを支えることができました。また、帰り道も途中まで送っていったのですが、橋の上から運命の人が帰るのを見ていたら、振り返って手を振ってくれました。ラッキーアイテムとラッキープレイスをアドバイスいただいたおかげです。勉強面でも、古典の文法に苦手意識を持っていましたが、諦めずに取り組んだおかげで、金曜日の小テストでいい点が取れました。有難うございました。来週もよろしくお願いします。】
自分が「運命の人」と呼ばれ続けることに若干の気まずさを覚えながら、メールを読み終える。せめて「青木」だから「Aさん」とか、そういう呼び方にはならないものか。
それにしても、ともう一度読み直す。
自分で占ったことなのに、ラッキーアイテムもラッキープレイスも全然意識していなかった。
だいたい、両方とも、それはラッキーではありませんよね……?と思ってしまうような些細な出来事だ。立ち眩みした俺を支えた、俺が手を振った、たったそれだけのことなんて、先輩の日常の中で埋もれてもおかしくないような一コマでしかないのに。
――まあ、先輩にとっては、やっぱり占いが当たった、と思うから特別な出来事に思えるんだろうな
占いが当たったと思いたいがために、当てはまりそうな出来事を無意識のうちに探している、とも言えるけれど。
そもそも、エセ占い師である俺の占いが、なぜこれほど当たるのか。
毎週のように、こんないいことがあった、あんないいことがあった、と書かれているうちに、もしや俺は本当に何か特別な力を持っているのでは、と自分を怪しんだ時期もあった。
しかし、どう考えてもそんなわけはなく、それなら占いがなぜ当たるのかと調べてみたことがある。
その結果分かったのは、「予言の自己成就」の影響が大きいということだ。占いの内容を信じることにより、無意識にその内容に沿った行動をすることで、結果的に占いが当たったように感じるという現象である。今週で言えば、古典の勉強をしていい点数をとったのは先輩の努力の結果でしかないのだけれど、占いのとおりに真面目に取り組んだからいい結果が出た、というように先輩は受け取っている。
さらに、これまで占いが外れたことだってあったはずだし、姫榊先輩に当てはまらないとことだってあったとは思うけれど、先輩がミス・アキュイティーの占いはすべて当たっていると思い込んでいるのには、心理学的な理由もある。
その一つが「確証バイアス」。自分に都合がいい情報だけに注目し、集めてしまうというもので、例えば、折り畳み傘がラッキーアイテムとして書かれていたとして、持ち歩いていたら三日目ににわか雨が降って濡れずにすんだとする。それまで折り畳み傘を持っていても意味のなかった二日間があったとしても、意味があった三日目だけに注目する、というようなことである。今週の占いで言えば「幾何学模様のハンカチ」を毎日持ち歩いていた日常の中で、俺と保健室で会ったことにだけ注目して、やっぱり当たった、と思ってしまっているわけだ。
それから「バーナム効果」というものもある。誰にでも何にでも当てはまるような曖昧さのあるものを、自分に当てはまるものだと解釈して受け取ってしまう、という心理現象である。血液型による性格診断なんかがまさにこれだ。先輩が、自分がいた「歩道橋」を占いにあった「橋」として捉えているのもその一つと言えるだろう。もし先輩と高校の渡り廊下で偶然会ったとしたら、「渡り廊下」を「橋」と捉えていたかもしれない。
つまり、俺の占いが当たっているのだとすれば、それはすべて先輩の努力と勘違いと思い込みによって「当たられている」というのが正しい。
そうやって占いに自ら当たりにくる先輩が、たとえ平凡坊主の俺が相手だとしても、すべてをポジティブに捉えて、運命の人だと信じこむというのは当然だよな、と今さら痛感せずにはいられない。
「でもほかにいい方法もなかったしなぁ……」
ため息をつき、引き出しからタロットカードを取り出す。
あのとき、運命の人とはまだ出会える時期ではない、と回答することも考えた。しかし、そうなると、先輩のことだからミス・アキュイティーのゴーサインを素直に待っただろう。その間に、出会うべき人を運命の人じゃないからと見逃すことにでもなったらよくないと思い、早々に却下した。先輩を青春から遠ざけるのは不本意だ。
でも、校内で俺と先輩の噂が広まったとなると、結果として先輩の青春を俺が邪魔しているというか汚しているというか、とにかくそんな状況になっているわけで、それならまだ運命の人が現れるのはもう少し先ですと言っておいた方が良かったかもしれない。
一緒に過ごす中で、俺が平凡でつまらない人間だと知られたら、先輩の気持ちを萎えさせることができるのではという希望的観測も、運命の人というフィルター越しに見ているから、何をしても好感度があがるというゲームのバグのような状態に陥っているのを見ると、すぐには無理そうだ。
――大人しく二か月間一緒に過ごして、やっぱり運命の人だとは思えませんでした、というのが一番いいのかもな
なんか先輩の二か月を無駄に使わせるようで申し訳ないけど、とタロットカードを手に持った俺は、息を吐いて気持ちを切り替え、占いを始める。
いつもの手順で進めていき、メインの運勢を示す一枚目のタロットカードを引いた俺は、先週に引き続き「なんでやねん」とカードにツッコむ。
出てきたのは六番「恋人」の正位置。そのままと言えばそのままの意味である。「恋の幸せ」「充実」「気の合う人との出会い」。イメージとしては、気持ちが高揚し浮かれている感じと言えばいいだろうか。
まあ、他のカードを見てから最終的な意味を捉えようと、残りのカードを並べていく。
再来週の月火は中間テストである。そこに向けて、勉強のモチベーションがあがるような結果を伝えようと、俺は円を描くカードをじっと見つめた。
*
先週の金曜日、姫榊先輩は前日に見送ってくれた歩道橋の向こう側で、傘をさして待っていた。
月曜日の朝、先輩は歩道橋の真ん中くらいに立って俺を見つけると手を振ってきた。
そして火曜日の今日。先輩は歩道橋のこっち側まで迎えにきた。
「あの」
「ん?」
「なんかメリーさんっぽいですね……」
「メリーさん? 羊??」
「違います。私、メリーさん、今どこどこにいるの、みたいな電話をかけてくる怖い話あるじゃないですか」
俺の言葉に隣を歩く先輩は首を傾げた。
「初めて聞いたよ。どんな話?」
「えー、えーっと電話がかかってくるたびに、メリーさんの居場所が自分に近づいてきて、最後は『あなたのうしろにいるの』っていう話です」
「逃げても追いかけてくるってこと?」
「家にいる間に、どんどん近づいてくるという話なので、逃げるとどうなるのかはちょっと分からないんですけど」
「なるほど、固定電話がメインの時代に作られた怪談なんだね。何が話のもとになったんだろう。ストーカーとかかな。興味深いね」
その視点で怖い話を聞く人を初めて見た、と思っていると、先輩がはっとした顔をする。
「そうか。確かにこうやって少しずつ家に近づくと言うのは、見方によっては家を特定するためのストーカー行為みたいなものだね」
「いや、まあ、この前も言いましたけど別に知られても……」
「でも、勝手に近づくのは良くないよね。言い訳をさせてもらうと、一緒に過ごす時間を冴介くんに負担にならない程度にちょっとずつ増やしたいと思っただけで、他意はなかったんだ、本当に」
真剣な顔で言い訳をする先輩にちょっと笑ってしまう。
「すみません、俺のほうこそ怖い話に例えたりして。冗談のつもりでしたけど、厭味みたいになっちゃいました」
「あぁ、冗談……」
そう言った先輩の眉が少し下がる。
「ごめん、僕は冗談を理解するのが普通の人より苦手みたいで。周りに今みたいに気を遣わせてしまうことが多いんだよね。申し訳ない」
「え、そんな、その素直さが先輩のいいところでもあるんじゃないですか」
「いや、みんな笑ってくれるけど、内心呆れられていることも多いと思う。でも、こういう冗談って勉強するのが難しいんだよね。落語とか好きなほうではあるんだけど」
「落語と現代の冗談はちょっと違うかもしれないですね……」
「そうか。笑いにも世情が現れるものだしね」
そういう高度な話ではないのだけど、と思いつつ、難しい顔をしている先輩に「それなら」と提案する。
「芸人さんたちのラジオとか聞いてみたらどうですか」
「ラジオか。確かにお笑い芸人さんのラジオは聞いたことがないかもしれない」
「じゃあぜひ」
「冴介くんのおすすめの番組とかある?」
「言っておいてなんですけど、俺もそんなに聞かないんですよね……でも、友達がラジオのヘビーリスナーなんで、おすすめを聞いてみますよ」
ただし、あの中田の聞いているラジオが、先輩にも聞かせられるような内容であるかどうか若干不安ではある。
「その友達の話はやっぱり面白い?」
「面白いというか、独特な世界観を持っていると言うか、まあ話していて飽きないです」
「いいね、僕も話していて飽きないって冴介くんに言われたい」
にこっと笑った先輩に顔を覗き込まれ、思わず目を逸らしてしまう。
なんでこんなちょっと甘い雰囲気を俺相手に出してくるのか。イケメンの無駄遣いでしかない。
「……別に先輩に面白さは求めてないですけどね」
ちょっとつっけんどんに言い過ぎた、と思い、少しだけ口調をやわらげて続ける。
「たぶん、周りの人もそう思ってると思います。逆にその生真面目さからくる面白さというか、といっても、バカにしているとかではなく、なんだろうな、可愛げというか、そういうところが先輩がみんなに好かれている理由の一つだとも思うので。先輩はいろいろ完璧すぎるから、そうやって、ちょっと苦手なこともあるほうが、人間味があっていいですよ」
「そういうものかな」
「はい」
「冴介くんも、そう思ってくれてるってことでいい?」
「まぁ……」
先輩を見ると、期待のこもった目でこっちをじっと見ていた。大型犬のようだ。尻尾を振っている幻覚が見える気がする。
さっき口にしたことで改めて実感したけど、ほんと可愛げがあるんだよな。この人。
周りから「ミスターノブレス」と親しみをこめて呼ばれているくらいだから、そういうところがあるのは分かっていたけれど、実際こうして話すようになったら思っていた以上だ。でもこんなことをそのまま言ったら、また好感度をあげすぎてしまうかもしれない。
「――先輩と話すのは楽しいです」
平凡すぎる俺の返事を聞いた先輩は「僕も」と間髪入れずに返してきた。
「楽しい。本当に」
微笑みながらしみじみとした口調で言われ、ふいに胸の中で何かが羽ばたいたかのように心臓がざわつく。
そのざわつきの正体を見ないように、俺は急いで「そういえば」と話題を変えた。
「テスト前だから明日から朝練がないんです。だから迎えはなしでお願いします」
「登校する時間帯に合わせて迎えにくるというのは――」
「人目が気になるのでだめです」
「だめか」
少し笑った先輩が「それなら、テスト期間中はお互い部活がないわけだし放課後に会ったりはできない?」と聞いてくる。
「部活がないのは勉強のためなんで、真面目に勉強した方がいいかと」
「放課後に図書室で一緒に勉強するとか」
「それこそ人目が気になるので絶対無理です」
「人目が気にならない場所ならどう? そうだな。例えば僕の家とか」
え、と先輩を見ると、純粋そのものな目で見返されて、一瞬警戒してしまった自分を恥じる。
自意識過剰すぎた。ミスターノブレスが二人きりになったからといって何かしようだなんて思うわけがない。そもそも俺のことを本当に好きなわけではないのだし。
でも、だからといって、のこのこと着いていくのもどうなんだろうか。本物の運命の相手でもないのに、そんな好奇心だけで推しのプライベートに踏み込むのはよくないような気もする。
うーん、と悩んでいると、姫榊先輩が「冴介くんは甘いもの好き?」と聞いてくる。
「え、あー、好きですね。ただ、洋菓子はそんなでもなくて、和菓子が好きです」
「それなら、すごく美味しいどら焼きがあるんだ。用意しておくから、ぜひ来て」
「行きます」
流れるように返事をしてしまい、「あ」と顔をしかめた俺を見て、先輩がおかしそうに笑う。
「美味しいどら焼きを知っててよかった」
「すみません……食い意地がはってて……」
だって、姫榊家が用意してくれるどら焼きなんて、絶対に最高級だし、と胸のうちで言い訳していると「木曜と金曜、どっちにする? まあ、明日の昼にまた話せばいいか」と言われて、ん? となる。
「明日って……」
「あ、先週も水曜日だったからなんとなくそう思ってたけど、ほかの曜日のほうがいい? 僕はいつでも大丈夫だよ」
そういえば、週に一度昼休みに誘ってもいいかと聞かれたとき、明確に答えず流していた気がする。嫌だと言わないということは受け入れたと判断されていたということか。
「場所はまた目立たないように音楽室がいいよね」
いやいやいやいや。
目立たないと思っているのは本人だけで、俺が再び現れたら密かに音楽室まで先輩を追ってきているファンたちの誤解をさらに深めることになりかねない。
家に行くなら昼休みなしでも、と答えようかと一瞬思うが、会う機会を減らしすぎて、まだお互いを知るための時間が足りない気がするとかなんとか言われて、期間を延長されても困る。
「……じゃあ、明日で」
俺が言うと先輩はにっこりと笑った。
*
金曜日、俺はソファに座りながら、先輩の部屋の中を落ち着きなく眺めていた。
意外なことに、リビングには高価そうな壺とか価値のありそうな絵だとか何も見当たらない。むしろ物がなさすぎて質素に感じるほどだ。問題集や本などが並ぶ小さな棚と壁掛けのテレビだけが、かろうじてここに暮らしがあることを教えてくれる。
もちろん、質素に感じるだけで、実際はこの部屋そのものが相当特別な空間であることは、ここに来るまでによく理解した。
待ち合わせはスーパーの鮮魚コーナーだった。鯛のぎょろりとした目と見つめあっていると名前を呼ばれ、俺は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉から差し出された手に招かれた。そのままバックヤードの廊下を通って二階にあがり、シンプルな「Office」のプレートが貼られた部屋に入った先輩のあとをついていくと、強面のおじさんが先輩に「お帰りなさい」とにこやかに言いつつ鋭い目つきで俺をじっと見てきた。先輩は店のマネージャーだと言っていたけど、たぶん守衛的な存在なのだろう。
さらにそのオフィスの左奥にあったエレベーターは、先輩がプレートに手をかざすだけで動き出し、いざ乗ったらボタンがなどもなく、先輩の部屋があるフロアへと直行した。エレベーターから降りたら廊下は上品そうな柄の絨毯が敷かれていたし、木目調の天井にはシャンデリアが等間隔に並んで煌々と輝いていたし、とにかく俺には未知な世界すぎた。
同じ階にあるメインの部屋は一人には広すぎるから、狭い管理人室を使わせてもらっていると事前情報ももらっていたが、いざ中に入ったら、うちの家族が四人で住んでいた東京の3LDKのマンションより広く、狭いの概念どうなってんだ、心の中でツッコまざるを得なかったし。
でも、物が極端に少ないから、より広く見えているのかもしれない、と改めて部屋の中を見まわしていると、先輩がどら焼きを載せた大皿と小皿を持ってきた。
「はい、約束のどら焼き」
大皿を座卓の真ん中に置き、小皿を俺の前に置いた先輩はまたすぐにキッチンへと戻り、今度は十本くらいのペットボトルとコップ、さらに銀色に光るコースターをお盆にのせて持ってきてくれる。
「冴介くんが何を飲みたいか分からなくて……炭酸とかフルーツ系のジュースとか、あ、お茶もあるから好きなのを取ってね。あと、冷蔵庫に牛乳もあるしペットボトルの水もあるから遠慮なく。温かいコーヒーがよければ、すぐに淹れるし」
コースターの上にコップを置いたあと、ペットボトルを次々に座卓の上に並べ、若干前のめりになって「どれがいい?」と聞いてくる先輩から、なんとかもてなしたいという気持ちが伝わってきて、俺もあたふたとペットボトルを見る。
「なんかいろいろすみません。じゃあ……えーっと、この緑茶をもらいます」
「やっぱり和菓子には緑茶だよね。買っておいて良かった」
頷いた先輩が別のメーカーのお茶のペットボトルを手に取り、ほかの飲み物をお盆の上に戻す。
普段ならペットボトルのまま飲むのだが、せっかく用意してもらったので、蓋を開けてコップにお茶を注ぐ。
たぶんこのコップも高価なのだろうと、無駄に慎重になってしまう俺に先輩が声をかけてくる。
「冴介くんって、所作が丁寧だよね」
「高いグラスを壊して弁償するのが怖いだけです」
俺の返しに「全然高いものじゃないよ」と先輩が笑うが、この人の高くないという言葉を鵜呑みにすることはできない。
ゆっくりとお茶を注ぎ終えると、先輩が和紙にくるまれたどら焼きを一つ箱から出して、俺の前の小皿に置く。
「どうぞ食べて」
「じゃあ、すみません、いただきます」
親戚が来た時に食べ物をすすめるうちのおかんのようだ、と思いつつ、俺は軽く手を合わせてどら焼きを手に取った。
「わ、うま」
一口食べて、思わず呟いてしまう。あんこの中に細かく砕かれた甘い栗が入っている以外、なにが普通のどら焼きと違うのか分からないけど、とにかく美味しい。
「美味しいよね。これ、うちのスーパーで売ってるどら焼きなんだけど」
「え、これですか?」
てっきり東京とかにある有名店のどら焼きだと思いこんでいた。
上品な包み紙を改めて見てみると、その端には隣の市の住所が印字されていた。
「へー、地元の和菓子屋さんなんですね」
「うん。父が学生のときに食べたのがきっかけで、姫榊のスーパーでも贈答用として扱うようになったって聞いてる」
「そうなんですか」
「父はいいものを見つけるのがうまいんだよね。センスがあるというか」
独り言のようにさらっと言った先輩が、どら焼きをちぎって口に運ぶ。
言外に、自分はそうではないけれどといったニュアンスを感じとり「先輩もいいもの見つけるじゃないですか。『Sulfur』とか。センスありますよ」と冗談っぽく言ってみる。
俺の言葉を聞いた先輩が、ちょっと笑う。
「つまり冴介くんもセンスがあるってことだ」
「当然です」
「なら『Sulfur』のほかに冴介くんが聞いてるおすすめの曲も聞いてみたいな。あ、そういえば、友達のおすすめのラジオも教えてもらうんだったね。ちょっと待って、スマホを持ってくるから。ラジオアプリ入れたんだ」
ついでにペットボトルもぬるくなるといけないし冷蔵庫に入れてくるね、とお盆を持って立ち上がった先輩をどら焼きを頬張りながら見送る。
まだ先輩のお茶もどら焼きも半分以上残っている。全部食べ終えてからにすればいいのに、やっぱり落ち着かないのかもしれない。
おとといの音楽室でも、『同年代の人を家に連れて行ったことがないからちょっと緊張するかも』と言っていた。
それなら無理に一緒に勉強しなくても、と答えたら、そんな意地悪言わないでとクゥーンという効果音がつきそうな困った顔で言われ、やっぱり可愛げがあるなと思ってしまった。この辺も、先輩が女子に人気がある理由の一つなのだろう。ギャップ萌えというやつだ。
ちなみに音楽室に行ったときには、わざと大きな声で「今日も『Sulfur』の曲、聞かせてもらうの楽しみですー!やっぱいいっすよねー」と、あくまでも『Sulfur』の曲を聞かせてもらうために来ているということを先輩のファンたちにアピールしてみた。効果があったかどうかは分からない。
ただ、中田情報によると、さすがにどこからどう見ても平凡なあの男が相手というのは無理がある、という意見が次第に強くなってきているようだ。しかし、タイミング的にも先輩の言動の変化にまったく関わっていないとも考えられないことから、俺を通じて誰かとつながっているのではという仮説が立ち、さらに俺が最近東京から引っ越してきて、都内の大学に通う姉がいるという話がどこかから流れ、その姉が実は相手なのではないかとまで言われているらしい。美人かどうかを中田が聞かれ、『会ったことないけど都内の女子大生は美人しかいないはず』と答えてスルーされたと嘆いていたが、とにかく噂の飛躍具合がすごすぎて怖い。
果たしてのんきに微笑みながら「スマホ持ってきた」と戻ってきたこの人は、そんな盛り上がる噂の渦中にいることを知っているのかどうなのか。台風の目は無風であるように、渦中のど真ん中すぎて、何も気づいていない可能性も十分あった。
勉強する時間は、思っていた以上に快適だった。
俺のスマホから、よく聞いている歌が小さな音で流れ続ける中、お互い座卓の上に教科書とノートを広げ、黙々と勉強した。たまに先輩が気になった曲について「これは?」たずねてくるのに対し、スマホを確認してタイトルを教え、先輩が自分の音楽アプリで検索して保存し、またお互いに勉強に戻り、ということを繰り返した。
数学をきりのいいところまで終えたところで顔をあげると、窓の外はもう暗くなっていた。時計を確認すると七時になろうかという時刻になっていることに気づき、少し驚く。
「先輩、俺、そろそろ帰りますね」
俺の声掛けに、顔をあげて壁の時計を見た先輩も、少し目を見開く。
「もうこんな時間なんだね。びっくりした」
「ほんとですね。すげー集中しちゃいました」
「僕も」
当たり前のように健全そのものの時間だったな、と思いながらカバンに勉強道具を片付けていると、先輩が座卓の上にどら焼きの入った大皿をのせる。
「よければこれも持って帰って」
「え、いいんですか」
「もちろん。賞味期限もそんなに長くないからもらってもらえたほうが有難い」
「ならいただきます。うちの親も和菓子好きなんで」
「飲み物は?」
「さすがにそれは申し訳ないっす」
「じゃあ、今度また冴介くんが来てくれるまで置いておこうかな。どら焼きと違って賞味期限も長いしね」
何気なく言われた言葉に、あと五週間のうちに俺がこの部屋にもう一度来ることはあるのだろうかと考える。
まあでも、運命の人じゃなかったとしても、普通に仲のいい先輩後輩として二か月間のお試し期間のあとも付き合いを続けていく可能性はあるのかもしれない、などと思っているうちに返事のタイミングを失ってしまった俺は、無言のままどら焼きを一個ずつかばんに入れていく。
そして、最後の一つを取ろうとした瞬間、どら焼きが移動し俺の手が空をつかんだ。
え、と顔をあげると、どら焼きを持った先輩が、座卓の向こうから微笑んで俺を見ていた。
「ね、また来てくれる?」
「それは……なんとも……部活も始まりますし……」
言い淀む俺を見つめていた先輩が、目を伏せて「そっか」とどら焼きを差し出してくる。
おそるおそる受け取ろうとすると、またぱっとどら焼きが手から逃げていった。
その行動の理由が分からず、どう反応すべきかも分からない。ただ単にからかってるのか、本気でどら焼きを交換条件にしようとしているのか。もしや全部持っていこうとしている俺を図々しいと思っていたりする?
そーっとその表情をうかがうも、先輩の方も俺のことをうかがうようにじっと見ているだけで、気持ちがまったく読めない。分かるのはイケメンであるということだけだ。
いったい俺の顔の造形と何がそこまで違うんだろ、と今さらながらに思いつつ座卓越しに見合っていると、先輩がふいにくしゃりと笑って、今度こそ俺の手の上にどら焼きを置く。
「ごめん、つい、冴介くんが可愛いから」
「は?」
「これまで、好きな子にちょっかいを出す心理っていうのがまったく分からなかったんだよね。好きならそんなことしないほうがいいのにって。でも、なるほど、確かにこう、いつも淡々としている子が自分の行動に対して、いつもと違う反応をしてくれるのって嬉しいもんなんだな」
可愛い?
好きな子?
思わぬ言葉にぽかーんとしてしまう。
もちろんこれまでも、先輩は俺を特別扱いしていたけれど、それは俺が運命の人だからで、本気の恋愛感情なんてないはずだ。
それなのに、まるで、先輩自身が本当に俺のことが好き、みたいな。
そこまで考えて、いやいやいや、と思い切り脳内で否定する。もしそうだとしても、先輩の俺に対する感情は、すべてミス・アキュイティーへの妄信が生み出した勘違いでしかない。
「……俺が可愛く見えるとか、運命の人っていうフィルターがかかりすぎだと思います」
なんとか、そう口に出すと、先輩は首を傾げた。
「そうかな。可愛いよ」
「落ち着いてください。坊主頭のこの普通の顔をした俺のいったいどこに可愛いの要素が」
「どこって言われても――」
「そうですよね。ないですよね。誰から見ても可愛いの要素なんて皆無なんです。先輩の運命の相手じゃないかって一時期噂されましたけど、さすがにあの普通すぎる男がそんなわけないだろうって、疑いもあっという間に晴れたみたいですし、とにかく俺は平凡そのものなんで、ほんと、可愛いとかそんな」
正面切って可愛いと言われたことでテンパってしまい、必死に否定していると、ふいに座卓の上に身を乗り出した先輩に両手で頬を挟まれて、俺は息をのんだ。
「どこが可愛いのか分からない、じゃなくて、どこって言えないくらい全部が可愛いと思ってるんだよ、僕は」
顔を覗き込みながら優しく言われ、顔が熱くなっていく。
「だから、普通過ぎるとか冴介くんが言われているのは、僕としては納得がいかないけど……でもそうだな、みんなに冴介くんの可愛さがバレてあまりモテても困るから、いいのかな」
「も、モテるなんて、絶対、一生ないです……」
俺の答えに、ふふっと笑った先輩と見つめあっていることに耐えられず、俺は視線を泳がす。心臓がバクバクとしすぎて、自分がちゃんと喋れたのかどうかも分からない。
広い部屋は自分たちが黙ると途端に静寂に包まれ、二人きりだということを嫌でも実感させられる。緊張しすぎて、手に持ったままのどら焼きを握りつぶしてしまいそうだ。
どうすれば、と思っているうちに、頬にあてられた先輩の指先が耳の下あたりをそっと擦ってきて、俺は固まる。先輩も黙ったまま、俺の顔をじっと見ているのが目をそらしていても分かる。
なんかヤバイ気がする。経験がないからよく分からないけれど、キスとかされそうな、変な雰囲気になっているような。
だとしたら良くない。俺はどうでもいいとしても、先輩のファーストキスを偽の運命の相手が奪うわけにはいかないのだ。もし先輩がキスしようとしてきたら、どう行動するのが最適だろう。とりあえず口を押さえて避けて、それから何もなかったかのようにどら焼きへのお礼でも言って立ち上がって帰るそぶりを見せる。そんな感じでいくしかない気がする。そこまでしたら先輩もたぶんそれ以上無理強いをしようとすることはないはず。
「冴介くん、こっち見て」
囁くように言われ、いつもより少し低いその声にまたどきりとする。マジでこの人俺にキスしたいとか思ってるんだろうか。
ゆっくりと前に視線を向けると、真顔の先輩と目が合い、圧を感じて思わず瞬きしてしまう。こんな綺麗な目に自分みたいなのが映っていることが申し訳ないような気にすらなってくる。
いっそのこと謝って解放してもらおうか、と考えていると、ふっと笑顔になった先輩が急に両方の耳たぶを引っ張ってきて「わ」と声が出た。
「すごい、福耳なんだね。正面から見ても横に飛び出してる」
笑いを含んだ声で言った先輩が、ぱっと俺の耳から手を離して立ち上がった。
「下まで送るよ」
「あ、ありがとうございます」
慌てて手に持っていたどら焼きをバッグに詰め、俺も立ち上がる。
まじまじと見られていると思ったけど、あれは俺の福耳を見ていたということか。だとしたら勘違いしていた俺、めちゃくちゃ自意識過剰で恥ずかしすぎる。
ここは、自分も福耳を見られているんだと思っていたとアピールしたほうがいいかもしれないと、先輩に話しかける。
「福耳は、母親ゆずりで……母親は福をキープするためにピアスとかしないって言ってます」
「今の自分の人生を福だと思えているのが素敵だね」
いつもの穏やかなテンションで先輩が返事をしてきて、ほっとする。
エレベーターで下まで降りた後、スーパーの従業員の出入口に連れて行ってもらった俺は、先輩に頭を下げて家路についた。
ひっきりなしに過ぎ去っていく車のライトを、緊張から解放された俺は歩きながらぼんやりと眺める。
キスしたいなんて先輩が思うわけがないのに、一人で意識しまくって馬鹿じゃん、と思った瞬間、先輩の声が耳の奥で響く。
――どこって言えないくらい全部が可愛いと思ってるんだよ
「うぁ~~」
思い出しただけでドコドコドコドコと踊りだす心臓が手に負えず、思わず胸をおさえて呻いてしまう。
なんなんだ。なんなんだあの人。
あんなこと言われたら、そりゃ俺だって意識しまくっちゃうよ。キスされるかもって思っちゃうよ。仕方ないだろ。
はあ、とため息をついたあと、まだ先輩の手の温もりが残っている気がして、俺は両手でごしごしと乱暴に頬をこする。
俺が先輩を正しい方向に導かないといけないのに、このままだとミイラ取りがミイラになってしまいそうで不安しかない。
先輩はあくまでも推しであり、恋愛対象ではないということを、自分自身も再認識する必要がありそうだった。
自分が「運命の人」と呼ばれ続けることに若干の気まずさを覚えながら、メールを読み終える。せめて「青木」だから「Aさん」とか、そういう呼び方にはならないものか。
それにしても、ともう一度読み直す。
自分で占ったことなのに、ラッキーアイテムもラッキープレイスも全然意識していなかった。
だいたい、両方とも、それはラッキーではありませんよね……?と思ってしまうような些細な出来事だ。立ち眩みした俺を支えた、俺が手を振った、たったそれだけのことなんて、先輩の日常の中で埋もれてもおかしくないような一コマでしかないのに。
――まあ、先輩にとっては、やっぱり占いが当たった、と思うから特別な出来事に思えるんだろうな
占いが当たったと思いたいがために、当てはまりそうな出来事を無意識のうちに探している、とも言えるけれど。
そもそも、エセ占い師である俺の占いが、なぜこれほど当たるのか。
毎週のように、こんないいことがあった、あんないいことがあった、と書かれているうちに、もしや俺は本当に何か特別な力を持っているのでは、と自分を怪しんだ時期もあった。
しかし、どう考えてもそんなわけはなく、それなら占いがなぜ当たるのかと調べてみたことがある。
その結果分かったのは、「予言の自己成就」の影響が大きいということだ。占いの内容を信じることにより、無意識にその内容に沿った行動をすることで、結果的に占いが当たったように感じるという現象である。今週で言えば、古典の勉強をしていい点数をとったのは先輩の努力の結果でしかないのだけれど、占いのとおりに真面目に取り組んだからいい結果が出た、というように先輩は受け取っている。
さらに、これまで占いが外れたことだってあったはずだし、姫榊先輩に当てはまらないとことだってあったとは思うけれど、先輩がミス・アキュイティーの占いはすべて当たっていると思い込んでいるのには、心理学的な理由もある。
その一つが「確証バイアス」。自分に都合がいい情報だけに注目し、集めてしまうというもので、例えば、折り畳み傘がラッキーアイテムとして書かれていたとして、持ち歩いていたら三日目ににわか雨が降って濡れずにすんだとする。それまで折り畳み傘を持っていても意味のなかった二日間があったとしても、意味があった三日目だけに注目する、というようなことである。今週の占いで言えば「幾何学模様のハンカチ」を毎日持ち歩いていた日常の中で、俺と保健室で会ったことにだけ注目して、やっぱり当たった、と思ってしまっているわけだ。
それから「バーナム効果」というものもある。誰にでも何にでも当てはまるような曖昧さのあるものを、自分に当てはまるものだと解釈して受け取ってしまう、という心理現象である。血液型による性格診断なんかがまさにこれだ。先輩が、自分がいた「歩道橋」を占いにあった「橋」として捉えているのもその一つと言えるだろう。もし先輩と高校の渡り廊下で偶然会ったとしたら、「渡り廊下」を「橋」と捉えていたかもしれない。
つまり、俺の占いが当たっているのだとすれば、それはすべて先輩の努力と勘違いと思い込みによって「当たられている」というのが正しい。
そうやって占いに自ら当たりにくる先輩が、たとえ平凡坊主の俺が相手だとしても、すべてをポジティブに捉えて、運命の人だと信じこむというのは当然だよな、と今さら痛感せずにはいられない。
「でもほかにいい方法もなかったしなぁ……」
ため息をつき、引き出しからタロットカードを取り出す。
あのとき、運命の人とはまだ出会える時期ではない、と回答することも考えた。しかし、そうなると、先輩のことだからミス・アキュイティーのゴーサインを素直に待っただろう。その間に、出会うべき人を運命の人じゃないからと見逃すことにでもなったらよくないと思い、早々に却下した。先輩を青春から遠ざけるのは不本意だ。
でも、校内で俺と先輩の噂が広まったとなると、結果として先輩の青春を俺が邪魔しているというか汚しているというか、とにかくそんな状況になっているわけで、それならまだ運命の人が現れるのはもう少し先ですと言っておいた方が良かったかもしれない。
一緒に過ごす中で、俺が平凡でつまらない人間だと知られたら、先輩の気持ちを萎えさせることができるのではという希望的観測も、運命の人というフィルター越しに見ているから、何をしても好感度があがるというゲームのバグのような状態に陥っているのを見ると、すぐには無理そうだ。
――大人しく二か月間一緒に過ごして、やっぱり運命の人だとは思えませんでした、というのが一番いいのかもな
なんか先輩の二か月を無駄に使わせるようで申し訳ないけど、とタロットカードを手に持った俺は、息を吐いて気持ちを切り替え、占いを始める。
いつもの手順で進めていき、メインの運勢を示す一枚目のタロットカードを引いた俺は、先週に引き続き「なんでやねん」とカードにツッコむ。
出てきたのは六番「恋人」の正位置。そのままと言えばそのままの意味である。「恋の幸せ」「充実」「気の合う人との出会い」。イメージとしては、気持ちが高揚し浮かれている感じと言えばいいだろうか。
まあ、他のカードを見てから最終的な意味を捉えようと、残りのカードを並べていく。
再来週の月火は中間テストである。そこに向けて、勉強のモチベーションがあがるような結果を伝えようと、俺は円を描くカードをじっと見つめた。
*
先週の金曜日、姫榊先輩は前日に見送ってくれた歩道橋の向こう側で、傘をさして待っていた。
月曜日の朝、先輩は歩道橋の真ん中くらいに立って俺を見つけると手を振ってきた。
そして火曜日の今日。先輩は歩道橋のこっち側まで迎えにきた。
「あの」
「ん?」
「なんかメリーさんっぽいですね……」
「メリーさん? 羊??」
「違います。私、メリーさん、今どこどこにいるの、みたいな電話をかけてくる怖い話あるじゃないですか」
俺の言葉に隣を歩く先輩は首を傾げた。
「初めて聞いたよ。どんな話?」
「えー、えーっと電話がかかってくるたびに、メリーさんの居場所が自分に近づいてきて、最後は『あなたのうしろにいるの』っていう話です」
「逃げても追いかけてくるってこと?」
「家にいる間に、どんどん近づいてくるという話なので、逃げるとどうなるのかはちょっと分からないんですけど」
「なるほど、固定電話がメインの時代に作られた怪談なんだね。何が話のもとになったんだろう。ストーカーとかかな。興味深いね」
その視点で怖い話を聞く人を初めて見た、と思っていると、先輩がはっとした顔をする。
「そうか。確かにこうやって少しずつ家に近づくと言うのは、見方によっては家を特定するためのストーカー行為みたいなものだね」
「いや、まあ、この前も言いましたけど別に知られても……」
「でも、勝手に近づくのは良くないよね。言い訳をさせてもらうと、一緒に過ごす時間を冴介くんに負担にならない程度にちょっとずつ増やしたいと思っただけで、他意はなかったんだ、本当に」
真剣な顔で言い訳をする先輩にちょっと笑ってしまう。
「すみません、俺のほうこそ怖い話に例えたりして。冗談のつもりでしたけど、厭味みたいになっちゃいました」
「あぁ、冗談……」
そう言った先輩の眉が少し下がる。
「ごめん、僕は冗談を理解するのが普通の人より苦手みたいで。周りに今みたいに気を遣わせてしまうことが多いんだよね。申し訳ない」
「え、そんな、その素直さが先輩のいいところでもあるんじゃないですか」
「いや、みんな笑ってくれるけど、内心呆れられていることも多いと思う。でも、こういう冗談って勉強するのが難しいんだよね。落語とか好きなほうではあるんだけど」
「落語と現代の冗談はちょっと違うかもしれないですね……」
「そうか。笑いにも世情が現れるものだしね」
そういう高度な話ではないのだけど、と思いつつ、難しい顔をしている先輩に「それなら」と提案する。
「芸人さんたちのラジオとか聞いてみたらどうですか」
「ラジオか。確かにお笑い芸人さんのラジオは聞いたことがないかもしれない」
「じゃあぜひ」
「冴介くんのおすすめの番組とかある?」
「言っておいてなんですけど、俺もそんなに聞かないんですよね……でも、友達がラジオのヘビーリスナーなんで、おすすめを聞いてみますよ」
ただし、あの中田の聞いているラジオが、先輩にも聞かせられるような内容であるかどうか若干不安ではある。
「その友達の話はやっぱり面白い?」
「面白いというか、独特な世界観を持っていると言うか、まあ話していて飽きないです」
「いいね、僕も話していて飽きないって冴介くんに言われたい」
にこっと笑った先輩に顔を覗き込まれ、思わず目を逸らしてしまう。
なんでこんなちょっと甘い雰囲気を俺相手に出してくるのか。イケメンの無駄遣いでしかない。
「……別に先輩に面白さは求めてないですけどね」
ちょっとつっけんどんに言い過ぎた、と思い、少しだけ口調をやわらげて続ける。
「たぶん、周りの人もそう思ってると思います。逆にその生真面目さからくる面白さというか、といっても、バカにしているとかではなく、なんだろうな、可愛げというか、そういうところが先輩がみんなに好かれている理由の一つだとも思うので。先輩はいろいろ完璧すぎるから、そうやって、ちょっと苦手なこともあるほうが、人間味があっていいですよ」
「そういうものかな」
「はい」
「冴介くんも、そう思ってくれてるってことでいい?」
「まぁ……」
先輩を見ると、期待のこもった目でこっちをじっと見ていた。大型犬のようだ。尻尾を振っている幻覚が見える気がする。
さっき口にしたことで改めて実感したけど、ほんと可愛げがあるんだよな。この人。
周りから「ミスターノブレス」と親しみをこめて呼ばれているくらいだから、そういうところがあるのは分かっていたけれど、実際こうして話すようになったら思っていた以上だ。でもこんなことをそのまま言ったら、また好感度をあげすぎてしまうかもしれない。
「――先輩と話すのは楽しいです」
平凡すぎる俺の返事を聞いた先輩は「僕も」と間髪入れずに返してきた。
「楽しい。本当に」
微笑みながらしみじみとした口調で言われ、ふいに胸の中で何かが羽ばたいたかのように心臓がざわつく。
そのざわつきの正体を見ないように、俺は急いで「そういえば」と話題を変えた。
「テスト前だから明日から朝練がないんです。だから迎えはなしでお願いします」
「登校する時間帯に合わせて迎えにくるというのは――」
「人目が気になるのでだめです」
「だめか」
少し笑った先輩が「それなら、テスト期間中はお互い部活がないわけだし放課後に会ったりはできない?」と聞いてくる。
「部活がないのは勉強のためなんで、真面目に勉強した方がいいかと」
「放課後に図書室で一緒に勉強するとか」
「それこそ人目が気になるので絶対無理です」
「人目が気にならない場所ならどう? そうだな。例えば僕の家とか」
え、と先輩を見ると、純粋そのものな目で見返されて、一瞬警戒してしまった自分を恥じる。
自意識過剰すぎた。ミスターノブレスが二人きりになったからといって何かしようだなんて思うわけがない。そもそも俺のことを本当に好きなわけではないのだし。
でも、だからといって、のこのこと着いていくのもどうなんだろうか。本物の運命の相手でもないのに、そんな好奇心だけで推しのプライベートに踏み込むのはよくないような気もする。
うーん、と悩んでいると、姫榊先輩が「冴介くんは甘いもの好き?」と聞いてくる。
「え、あー、好きですね。ただ、洋菓子はそんなでもなくて、和菓子が好きです」
「それなら、すごく美味しいどら焼きがあるんだ。用意しておくから、ぜひ来て」
「行きます」
流れるように返事をしてしまい、「あ」と顔をしかめた俺を見て、先輩がおかしそうに笑う。
「美味しいどら焼きを知っててよかった」
「すみません……食い意地がはってて……」
だって、姫榊家が用意してくれるどら焼きなんて、絶対に最高級だし、と胸のうちで言い訳していると「木曜と金曜、どっちにする? まあ、明日の昼にまた話せばいいか」と言われて、ん? となる。
「明日って……」
「あ、先週も水曜日だったからなんとなくそう思ってたけど、ほかの曜日のほうがいい? 僕はいつでも大丈夫だよ」
そういえば、週に一度昼休みに誘ってもいいかと聞かれたとき、明確に答えず流していた気がする。嫌だと言わないということは受け入れたと判断されていたということか。
「場所はまた目立たないように音楽室がいいよね」
いやいやいやいや。
目立たないと思っているのは本人だけで、俺が再び現れたら密かに音楽室まで先輩を追ってきているファンたちの誤解をさらに深めることになりかねない。
家に行くなら昼休みなしでも、と答えようかと一瞬思うが、会う機会を減らしすぎて、まだお互いを知るための時間が足りない気がするとかなんとか言われて、期間を延長されても困る。
「……じゃあ、明日で」
俺が言うと先輩はにっこりと笑った。
*
金曜日、俺はソファに座りながら、先輩の部屋の中を落ち着きなく眺めていた。
意外なことに、リビングには高価そうな壺とか価値のありそうな絵だとか何も見当たらない。むしろ物がなさすぎて質素に感じるほどだ。問題集や本などが並ぶ小さな棚と壁掛けのテレビだけが、かろうじてここに暮らしがあることを教えてくれる。
もちろん、質素に感じるだけで、実際はこの部屋そのものが相当特別な空間であることは、ここに来るまでによく理解した。
待ち合わせはスーパーの鮮魚コーナーだった。鯛のぎょろりとした目と見つめあっていると名前を呼ばれ、俺は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉から差し出された手に招かれた。そのままバックヤードの廊下を通って二階にあがり、シンプルな「Office」のプレートが貼られた部屋に入った先輩のあとをついていくと、強面のおじさんが先輩に「お帰りなさい」とにこやかに言いつつ鋭い目つきで俺をじっと見てきた。先輩は店のマネージャーだと言っていたけど、たぶん守衛的な存在なのだろう。
さらにそのオフィスの左奥にあったエレベーターは、先輩がプレートに手をかざすだけで動き出し、いざ乗ったらボタンがなどもなく、先輩の部屋があるフロアへと直行した。エレベーターから降りたら廊下は上品そうな柄の絨毯が敷かれていたし、木目調の天井にはシャンデリアが等間隔に並んで煌々と輝いていたし、とにかく俺には未知な世界すぎた。
同じ階にあるメインの部屋は一人には広すぎるから、狭い管理人室を使わせてもらっていると事前情報ももらっていたが、いざ中に入ったら、うちの家族が四人で住んでいた東京の3LDKのマンションより広く、狭いの概念どうなってんだ、心の中でツッコまざるを得なかったし。
でも、物が極端に少ないから、より広く見えているのかもしれない、と改めて部屋の中を見まわしていると、先輩がどら焼きを載せた大皿と小皿を持ってきた。
「はい、約束のどら焼き」
大皿を座卓の真ん中に置き、小皿を俺の前に置いた先輩はまたすぐにキッチンへと戻り、今度は十本くらいのペットボトルとコップ、さらに銀色に光るコースターをお盆にのせて持ってきてくれる。
「冴介くんが何を飲みたいか分からなくて……炭酸とかフルーツ系のジュースとか、あ、お茶もあるから好きなのを取ってね。あと、冷蔵庫に牛乳もあるしペットボトルの水もあるから遠慮なく。温かいコーヒーがよければ、すぐに淹れるし」
コースターの上にコップを置いたあと、ペットボトルを次々に座卓の上に並べ、若干前のめりになって「どれがいい?」と聞いてくる先輩から、なんとかもてなしたいという気持ちが伝わってきて、俺もあたふたとペットボトルを見る。
「なんかいろいろすみません。じゃあ……えーっと、この緑茶をもらいます」
「やっぱり和菓子には緑茶だよね。買っておいて良かった」
頷いた先輩が別のメーカーのお茶のペットボトルを手に取り、ほかの飲み物をお盆の上に戻す。
普段ならペットボトルのまま飲むのだが、せっかく用意してもらったので、蓋を開けてコップにお茶を注ぐ。
たぶんこのコップも高価なのだろうと、無駄に慎重になってしまう俺に先輩が声をかけてくる。
「冴介くんって、所作が丁寧だよね」
「高いグラスを壊して弁償するのが怖いだけです」
俺の返しに「全然高いものじゃないよ」と先輩が笑うが、この人の高くないという言葉を鵜呑みにすることはできない。
ゆっくりとお茶を注ぎ終えると、先輩が和紙にくるまれたどら焼きを一つ箱から出して、俺の前の小皿に置く。
「どうぞ食べて」
「じゃあ、すみません、いただきます」
親戚が来た時に食べ物をすすめるうちのおかんのようだ、と思いつつ、俺は軽く手を合わせてどら焼きを手に取った。
「わ、うま」
一口食べて、思わず呟いてしまう。あんこの中に細かく砕かれた甘い栗が入っている以外、なにが普通のどら焼きと違うのか分からないけど、とにかく美味しい。
「美味しいよね。これ、うちのスーパーで売ってるどら焼きなんだけど」
「え、これですか?」
てっきり東京とかにある有名店のどら焼きだと思いこんでいた。
上品な包み紙を改めて見てみると、その端には隣の市の住所が印字されていた。
「へー、地元の和菓子屋さんなんですね」
「うん。父が学生のときに食べたのがきっかけで、姫榊のスーパーでも贈答用として扱うようになったって聞いてる」
「そうなんですか」
「父はいいものを見つけるのがうまいんだよね。センスがあるというか」
独り言のようにさらっと言った先輩が、どら焼きをちぎって口に運ぶ。
言外に、自分はそうではないけれどといったニュアンスを感じとり「先輩もいいもの見つけるじゃないですか。『Sulfur』とか。センスありますよ」と冗談っぽく言ってみる。
俺の言葉を聞いた先輩が、ちょっと笑う。
「つまり冴介くんもセンスがあるってことだ」
「当然です」
「なら『Sulfur』のほかに冴介くんが聞いてるおすすめの曲も聞いてみたいな。あ、そういえば、友達のおすすめのラジオも教えてもらうんだったね。ちょっと待って、スマホを持ってくるから。ラジオアプリ入れたんだ」
ついでにペットボトルもぬるくなるといけないし冷蔵庫に入れてくるね、とお盆を持って立ち上がった先輩をどら焼きを頬張りながら見送る。
まだ先輩のお茶もどら焼きも半分以上残っている。全部食べ終えてからにすればいいのに、やっぱり落ち着かないのかもしれない。
おとといの音楽室でも、『同年代の人を家に連れて行ったことがないからちょっと緊張するかも』と言っていた。
それなら無理に一緒に勉強しなくても、と答えたら、そんな意地悪言わないでとクゥーンという効果音がつきそうな困った顔で言われ、やっぱり可愛げがあるなと思ってしまった。この辺も、先輩が女子に人気がある理由の一つなのだろう。ギャップ萌えというやつだ。
ちなみに音楽室に行ったときには、わざと大きな声で「今日も『Sulfur』の曲、聞かせてもらうの楽しみですー!やっぱいいっすよねー」と、あくまでも『Sulfur』の曲を聞かせてもらうために来ているということを先輩のファンたちにアピールしてみた。効果があったかどうかは分からない。
ただ、中田情報によると、さすがにどこからどう見ても平凡なあの男が相手というのは無理がある、という意見が次第に強くなってきているようだ。しかし、タイミング的にも先輩の言動の変化にまったく関わっていないとも考えられないことから、俺を通じて誰かとつながっているのではという仮説が立ち、さらに俺が最近東京から引っ越してきて、都内の大学に通う姉がいるという話がどこかから流れ、その姉が実は相手なのではないかとまで言われているらしい。美人かどうかを中田が聞かれ、『会ったことないけど都内の女子大生は美人しかいないはず』と答えてスルーされたと嘆いていたが、とにかく噂の飛躍具合がすごすぎて怖い。
果たしてのんきに微笑みながら「スマホ持ってきた」と戻ってきたこの人は、そんな盛り上がる噂の渦中にいることを知っているのかどうなのか。台風の目は無風であるように、渦中のど真ん中すぎて、何も気づいていない可能性も十分あった。
勉強する時間は、思っていた以上に快適だった。
俺のスマホから、よく聞いている歌が小さな音で流れ続ける中、お互い座卓の上に教科書とノートを広げ、黙々と勉強した。たまに先輩が気になった曲について「これは?」たずねてくるのに対し、スマホを確認してタイトルを教え、先輩が自分の音楽アプリで検索して保存し、またお互いに勉強に戻り、ということを繰り返した。
数学をきりのいいところまで終えたところで顔をあげると、窓の外はもう暗くなっていた。時計を確認すると七時になろうかという時刻になっていることに気づき、少し驚く。
「先輩、俺、そろそろ帰りますね」
俺の声掛けに、顔をあげて壁の時計を見た先輩も、少し目を見開く。
「もうこんな時間なんだね。びっくりした」
「ほんとですね。すげー集中しちゃいました」
「僕も」
当たり前のように健全そのものの時間だったな、と思いながらカバンに勉強道具を片付けていると、先輩が座卓の上にどら焼きの入った大皿をのせる。
「よければこれも持って帰って」
「え、いいんですか」
「もちろん。賞味期限もそんなに長くないからもらってもらえたほうが有難い」
「ならいただきます。うちの親も和菓子好きなんで」
「飲み物は?」
「さすがにそれは申し訳ないっす」
「じゃあ、今度また冴介くんが来てくれるまで置いておこうかな。どら焼きと違って賞味期限も長いしね」
何気なく言われた言葉に、あと五週間のうちに俺がこの部屋にもう一度来ることはあるのだろうかと考える。
まあでも、運命の人じゃなかったとしても、普通に仲のいい先輩後輩として二か月間のお試し期間のあとも付き合いを続けていく可能性はあるのかもしれない、などと思っているうちに返事のタイミングを失ってしまった俺は、無言のままどら焼きを一個ずつかばんに入れていく。
そして、最後の一つを取ろうとした瞬間、どら焼きが移動し俺の手が空をつかんだ。
え、と顔をあげると、どら焼きを持った先輩が、座卓の向こうから微笑んで俺を見ていた。
「ね、また来てくれる?」
「それは……なんとも……部活も始まりますし……」
言い淀む俺を見つめていた先輩が、目を伏せて「そっか」とどら焼きを差し出してくる。
おそるおそる受け取ろうとすると、またぱっとどら焼きが手から逃げていった。
その行動の理由が分からず、どう反応すべきかも分からない。ただ単にからかってるのか、本気でどら焼きを交換条件にしようとしているのか。もしや全部持っていこうとしている俺を図々しいと思っていたりする?
そーっとその表情をうかがうも、先輩の方も俺のことをうかがうようにじっと見ているだけで、気持ちがまったく読めない。分かるのはイケメンであるということだけだ。
いったい俺の顔の造形と何がそこまで違うんだろ、と今さらながらに思いつつ座卓越しに見合っていると、先輩がふいにくしゃりと笑って、今度こそ俺の手の上にどら焼きを置く。
「ごめん、つい、冴介くんが可愛いから」
「は?」
「これまで、好きな子にちょっかいを出す心理っていうのがまったく分からなかったんだよね。好きならそんなことしないほうがいいのにって。でも、なるほど、確かにこう、いつも淡々としている子が自分の行動に対して、いつもと違う反応をしてくれるのって嬉しいもんなんだな」
可愛い?
好きな子?
思わぬ言葉にぽかーんとしてしまう。
もちろんこれまでも、先輩は俺を特別扱いしていたけれど、それは俺が運命の人だからで、本気の恋愛感情なんてないはずだ。
それなのに、まるで、先輩自身が本当に俺のことが好き、みたいな。
そこまで考えて、いやいやいや、と思い切り脳内で否定する。もしそうだとしても、先輩の俺に対する感情は、すべてミス・アキュイティーへの妄信が生み出した勘違いでしかない。
「……俺が可愛く見えるとか、運命の人っていうフィルターがかかりすぎだと思います」
なんとか、そう口に出すと、先輩は首を傾げた。
「そうかな。可愛いよ」
「落ち着いてください。坊主頭のこの普通の顔をした俺のいったいどこに可愛いの要素が」
「どこって言われても――」
「そうですよね。ないですよね。誰から見ても可愛いの要素なんて皆無なんです。先輩の運命の相手じゃないかって一時期噂されましたけど、さすがにあの普通すぎる男がそんなわけないだろうって、疑いもあっという間に晴れたみたいですし、とにかく俺は平凡そのものなんで、ほんと、可愛いとかそんな」
正面切って可愛いと言われたことでテンパってしまい、必死に否定していると、ふいに座卓の上に身を乗り出した先輩に両手で頬を挟まれて、俺は息をのんだ。
「どこが可愛いのか分からない、じゃなくて、どこって言えないくらい全部が可愛いと思ってるんだよ、僕は」
顔を覗き込みながら優しく言われ、顔が熱くなっていく。
「だから、普通過ぎるとか冴介くんが言われているのは、僕としては納得がいかないけど……でもそうだな、みんなに冴介くんの可愛さがバレてあまりモテても困るから、いいのかな」
「も、モテるなんて、絶対、一生ないです……」
俺の答えに、ふふっと笑った先輩と見つめあっていることに耐えられず、俺は視線を泳がす。心臓がバクバクとしすぎて、自分がちゃんと喋れたのかどうかも分からない。
広い部屋は自分たちが黙ると途端に静寂に包まれ、二人きりだということを嫌でも実感させられる。緊張しすぎて、手に持ったままのどら焼きを握りつぶしてしまいそうだ。
どうすれば、と思っているうちに、頬にあてられた先輩の指先が耳の下あたりをそっと擦ってきて、俺は固まる。先輩も黙ったまま、俺の顔をじっと見ているのが目をそらしていても分かる。
なんかヤバイ気がする。経験がないからよく分からないけれど、キスとかされそうな、変な雰囲気になっているような。
だとしたら良くない。俺はどうでもいいとしても、先輩のファーストキスを偽の運命の相手が奪うわけにはいかないのだ。もし先輩がキスしようとしてきたら、どう行動するのが最適だろう。とりあえず口を押さえて避けて、それから何もなかったかのようにどら焼きへのお礼でも言って立ち上がって帰るそぶりを見せる。そんな感じでいくしかない気がする。そこまでしたら先輩もたぶんそれ以上無理強いをしようとすることはないはず。
「冴介くん、こっち見て」
囁くように言われ、いつもより少し低いその声にまたどきりとする。マジでこの人俺にキスしたいとか思ってるんだろうか。
ゆっくりと前に視線を向けると、真顔の先輩と目が合い、圧を感じて思わず瞬きしてしまう。こんな綺麗な目に自分みたいなのが映っていることが申し訳ないような気にすらなってくる。
いっそのこと謝って解放してもらおうか、と考えていると、ふっと笑顔になった先輩が急に両方の耳たぶを引っ張ってきて「わ」と声が出た。
「すごい、福耳なんだね。正面から見ても横に飛び出してる」
笑いを含んだ声で言った先輩が、ぱっと俺の耳から手を離して立ち上がった。
「下まで送るよ」
「あ、ありがとうございます」
慌てて手に持っていたどら焼きをバッグに詰め、俺も立ち上がる。
まじまじと見られていると思ったけど、あれは俺の福耳を見ていたということか。だとしたら勘違いしていた俺、めちゃくちゃ自意識過剰で恥ずかしすぎる。
ここは、自分も福耳を見られているんだと思っていたとアピールしたほうがいいかもしれないと、先輩に話しかける。
「福耳は、母親ゆずりで……母親は福をキープするためにピアスとかしないって言ってます」
「今の自分の人生を福だと思えているのが素敵だね」
いつもの穏やかなテンションで先輩が返事をしてきて、ほっとする。
エレベーターで下まで降りた後、スーパーの従業員の出入口に連れて行ってもらった俺は、先輩に頭を下げて家路についた。
ひっきりなしに過ぎ去っていく車のライトを、緊張から解放された俺は歩きながらぼんやりと眺める。
キスしたいなんて先輩が思うわけがないのに、一人で意識しまくって馬鹿じゃん、と思った瞬間、先輩の声が耳の奥で響く。
――どこって言えないくらい全部が可愛いと思ってるんだよ
「うぁ~~」
思い出しただけでドコドコドコドコと踊りだす心臓が手に負えず、思わず胸をおさえて呻いてしまう。
なんなんだ。なんなんだあの人。
あんなこと言われたら、そりゃ俺だって意識しまくっちゃうよ。キスされるかもって思っちゃうよ。仕方ないだろ。
はあ、とため息をついたあと、まだ先輩の手の温もりが残っている気がして、俺は両手でごしごしと乱暴に頬をこする。
俺が先輩を正しい方向に導かないといけないのに、このままだとミイラ取りがミイラになってしまいそうで不安しかない。
先輩はあくまでも推しであり、恋愛対象ではないということを、自分自身も再認識する必要がありそうだった。



