【先週は運命の人について占っていただき有難うございました。アキュイティー先生の占いのとおりに運命の人と出会えました。ただ、相手の方は僕を運命の相手だとは思えないようです。来週、その方に以前ご紹介した『Sulfur』の曲をピアノで弾く約束をしています。少しでも好印象を与えたいのですが、以下の五曲のうちからどれを弾くのがよいか、占ってもらえますか】
毎週、土曜日の夜七時きっかりに届く姫榊先輩からのメール。
本当にあれは運命の相手なのかという確認が今日のメールに書かれていたら即否定しようと思っていたけれど、やはり何の疑いも持たずに俺を運命の人だと認識しているらしいと分かって天を仰ぐ。
【運命の人と出会うにはどうすればよいかを教えてください】
先輩が、メールにそう書いてきたのは先週のことで、文面を見た俺はスマホを持ったまま固まった。
普段は、前の週の占いによってどんないいことがあったのかが書かれ、今週もよろしくお願いしますと締められているだけだが、このように質問が来ることはこれまでもあった。
集中するためにはどこで勉強すればいいか。剣道の試合前にリラックスするためには何をすればいいか。親に喜ばれるプレゼントはなにか。でも、どれも姫榊先輩の気持ちの持ちようでどうにでもなるものばかりだったから、なんとかなっていた。
しかし「運命の人」となるとそうはいかない。
「決まった人と婚約する」と告白を断っている先輩だが、親が決めた婚約者がいるとか、家柄の釣り合うどこぞやのお嬢さんといずれ政略結婚をしなければいけないとか、そんな事実はない。
その言葉の真の意味は『占いで決まった人と婚約する』である。数年前、告白されたけれど自分はアキュイティー先生に結婚相手を決めてもらうつもりだから断った、と手紙に書いてきたことがあるのでまず間違いない。
つまり「運命の人」を俺が指定してしまったら、それが決定となってしまうということである。適当に占って適当なことを言って、先輩にふさわしくない人がうっかり運命の人に認定されたらと思うと恐ろしい。
しばらく考えて出した結論は、明らかに恋愛対象にはならないであろう自分が運命の人として現れ、期待する先輩の気持ちを萎えさせるというものだった。
それなら、関係のない誰かが運命の人になる心配はなくなるし、うまくいけば先輩がミス・アキュイティーの占いに不信感を持って契約を終えるきっかけになるかもしれないと思ったのだ。
結局、全然うまくいかなかったわけだけれど。先輩の思い込みに、第三者を巻き込まずに済んだのが不幸中の幸いと思うしかない。
――にしても、なんでこのタイミングで運命の人なんて言い出したのかな
恋人がほしくなるタイミングとしてはとても微妙である。
今は九月後半。三カ月という約束だと、うっかりクリスマスを一緒に過ごす羽目になっていたかもしれないけれど、二カ月であれば、特にこれといったイベントもない。
今月初めにあった文化祭で、カップルが楽しそうに過ごしているのを見て羨ましくなったとかそういうことだろうか。もしくは、来月の終わりに予定されている修学旅行がきっかけかもしれない。もし、運命の人が同学年だったらより楽しめると思った可能性はある。
でも、だとすれば学年が違う俺が現れたことで、ちょっとはがっかりしてもよさそうなものだ。
やっぱり謎だな、と考えつつ、タロットカードの入った箱を机の引き出しから取り出す。
まずは、タロットカードを手の中でシャッフルしていく。グリーンの地にシンプルな花模様が描かれたタロットカードは、初めての占いのときから使っているものだ。折れ目がついたり端が少しやぶけていたりするが、手に馴染んで使いやすいので新しいものを買おうとは思わない。
――姫榊渉さんの来週の運勢を教えてください
心の中で唱えながら机の上に広げて、左回りにカードを動かしさらにシャッフルする。
次に、一つの山にカードをまとめて、それを左手で三つの山に分け、もう一度順番を入れ替えて一つの山に戻す。
最後に、三回カードを手の中できったあと、上から七枚目のカードまでを横によけて、八枚目のカードをめくる。
メインの運勢として捉えるのがこのカードなのだが、見た瞬間「なんでだよ」とツッコんでしまう。
出たカードは八番「力」の正位置。「誠実さ」「真心」、といった意味がメインだが、「諦めない気持ち」「大恋愛の予感」という意味も持つ。つまり、運命の恋を応援しているかのようなカードにも見える。
とりあえず誠実さということにしておこう、と気持ちを切り替え、「力」のカードを机の正面奥に置き、続けて六枚のタロットカードを順にめくって時計回りに並べていく。最終的にそれらを総合して一週間の運勢として読み解くというのが、俺の、というか母親が俺にやらせていたやり方で、今もそのまま行っている。正しいかどうかと言われれば正しくないのだろうが、顧客である姫榊先輩がこの占いで満足しているようなので問題ない。
すべてのカードが揃ったところで、円になった七枚のカードを眺める。
二枚目は、三番「女帝」の正位置。意味は「実り」「愛情」「想いが通じる」。
三枚目は、「ペンタクルのナイト」の逆位置。意味は「なかなか進まない」「自立心の欠如」「様子を見すぎてマンネリ化」。
四枚目は、「ソードのペイジ」の正位置。意味は「慎重に判断」「備えあれば憂いなし」「相手を観察する」。
五枚目は、「ワンドの7」の正位置。意味は「有利な状況」「主導権を握る」「大胆な行動」「リードする」。
六枚目は、「ワンドの9」の正位置。意味は「準備万端」「用心深く」「ライバルを警戒」。
一枚目につながる七枚目は、「ペンタクルのエース」の正位置。意味は「報われる」「欲しかったものを手に入れる」「満たされる恋」。このカードが、一応結論となる。
幼い頃は、意味が分かってタロットをやっていたわけではないから、並ぶカードに描かれた人たちが見ている方向や出てくるアイテムなどから物語を作るような感覚で母に話し、それを母がカードの意味と結び付けていた。今も基本は同じだ。
今回のカードの並びでいくと、ぱっと見た感じ、円の下半分、つまり水面下で努力した結果が、円の上半分の三枚から感じられる「報われる未来」につながっている印象を受ける。
まず、逆さになった「ペンタクルのナイト」が「ソードのペイジ」を見つめているから、慎重になりすぎている様子がうかがえる。ただ、「ソードのペイジ」の目線の先は「ワンドの7」だから、それによって状況は好転するのだろう。さらに「ワンドの9」がそれを上からおさえるように出ているから、そのためには準備もしっかりしておくように、とも読める。
スマホを手に取り、文字を打ち込んでいく。
【今週は、頑張っても成果が出にくく、なかなか物事が進まないと感じることがあるかもしれません。ですが、停滞の時期にこそ水面下で努力し、これからのために準備をしていくことが必要です。そうすることによって、最終的には実りある成果がもたらされるでしょう。誠実に取り組む姿勢を大切にしてください】
こんなもんだろう、とスマホを机に置き、引き出しから今度はオラクルカードを取り出す。オラクルカードは、今では全部で八種類持っている。それを順に使うことで、占い結果に偏りが出ないようにしているのだ。今日のカードは生活の様子を描いた全部で四十二枚セットのもの。
タロットカードと同じ手順でシャッフルしたあと、横一列に広げたカードの中から、目についた三枚を引いてタロットの内側に縦に並べる。
一枚目のカードナンバーが三十五だから、ラッキーナンバーは3と5。
二枚目のカードは雪だるまを作る子供の上に雪の結晶のイラストが大きく描かれているから、ラッキーアイテムは幾何学模様のもの。
三枚目のカードは橋の上から虹を見ているイラストだから、ラッキープレイスは橋。
アイテムやプレイスは直感で連想したもので、同じカードを見ても、毎回同じ結果とはならない。我ながら適当ではあるけれど、いつもこんなもんである。
それらを書き込んだあと、最後にどの曲を弾けばいいか、という質問について、引き出しの中からサイコロを取り出して転がす。
出た数字は二だったので、占い結果は二曲目とする。先輩が書いてきた二曲目のタイトルを見て、ゴリゴリのラブソングか、と少しため息をつく。好きな曲ではあるけれど、これを自分に向かって弾かれると思うとなんとも言えない気持ちになる。
【二曲目がいいと占いでは出ています。あとは、お相手の聞きたい曲を尋ねるのが一番いいのではないでしょうか】
聞かれたら、恋愛要素のない青春ソングをリクエストしようと思いながら、【素敵な一週間になりますように】といつもの締めの言葉を書いた俺は、メールの送信ボタンを押した。
*
水曜日の昼、弁当を急いで食べ、音楽室へと足を向ける。
中田には正直に、先輩と好きなバンドが同じで、ピアノで弾けるっていうから聞かせてもらうことにした、と昨日のうちに伝えた。
『音楽の趣味が同じとか、さすがに運命じゃね?』
中田の言葉に『こういうのは偶然っていうんだよ』と返したけれど、偶然と運命って何が違うのだろう、と改めて考えながら階段を上る。
どちらとも意図せずに起こった出来事や結果のことを指すけれど、そこに何か感じるものがあれば人は運命と呼ぶのかもしれない。もしくは最初はなんとも思わなくても、偶然が重なればそれを運命と思う人も多い気がする。
そう思うと、これ以上、先輩に運命だと思わせないようにできるだけ慎重に行動し、いらない情報を与えないようにしなければいけない。
例えば、実は同じ中学に通っていたこととか。もちろん同じ中学にいたのは偶然ではないけれど。
ミス・アキュイティーが先輩を個人的に占うことが決まったとき、その対価として姫榊家からは月額五十万を提示された。ミス・アキュイティーの代理人として連絡を受けた母は、それでは高すぎると伝えたが、HSGKグループの跡取りを精神的に支えてもらっていると思えば安いものだと言われ、受け取らざるを得なかった。
占いなんて当たるも八卦当たらぬも八卦、と言っていた母も、さすがにこれだけお金をいただいて当たらないのは申し訳ないとなったらしく、少しでも先輩の様子を見て具体的な占いができるように、その高額な占い代を俺の教育費とし、先輩と同じ私立有名中学に通うのはどうかという提案を俺にしてきて、俺もすぐにそれを受け入れた。
もともと成績はいいいほうではあったけれど、それだけでは心許なかったため有名塾に通い、合格したときは姫榊家のお金を無駄にしなかったことに、心の底からほっとした。
今、先輩と同じ高校に通っているのも同じ理由である。ぎりぎり通勤圏内だということもあり、両親と自分とで引っ越すことにして、大学生になった姉は都内で一人暮らしを始めた。正直なところ、セレブだらけの中学は、自分とは生活や金銭の面で価値観が合わない人が多かったので、普通の高校に通えることになって良かったと思っている。
――姫榊先輩ですら、あの中学だとそこまで目立つ存在じゃなかったもんな
もちろん、誰もが名前を知る存在ではあったけれど、姫榊先輩は自分から前に前に出るタイプではないし、もっとみんなの注目をひく人たちは何人もいた。
まあ俺なんて、それを言ったら誰からも興味を持たれることのない、モブの中のモブ、みたいな存在だったわけだけど。
三階にあがり、音楽室のある特別教室棟に向かう。
音楽室の前には誰もいなかった。窓にカーテンがかかる引き戸に手をかけると、鍵はすでに開いており、するすると開く。
ピアノの前にいた先輩が、こちらを振り向き、俺を確認するとにっこりと笑った。
その顔が本当に嬉しそうで、なんとなく直視できず、俺はぺこっと頭をさげ、そのままうつむき加減に中に入って後ろ手でドアを閉める。
「鍵も念のため閉めてもらっていい?」
「はい」
鍵を閉める俺の耳に、両手で音階を下から上に、そして上から下に連続で弾く音が聞こえる。指慣らしだろうか。
遠慮がちにピアノのそばによると、先輩がまた俺を振り向く。
「どこか、好きな場所で聞いてくれればいいよ」
「あ、じゃあ……ここで」
ピアノに一番近い席に座ると、先輩が楽譜を手にもって立ち上がった。
「今日は二曲聞いてもらいたいと思ってて。一曲は決まってるんだけど、もう一曲はこの中から冴介くんに選んでもらってもいいかな」
頷いて楽譜を受け取り、目次の中から考えていた青春ソングを探し「この曲が好きなので、これで」と指さす。
「あぁ、この曲いいよね。三年くらい前の曲だったかな」
「練習なしでも弾けるんですか」
「うん、何度か弾いてるし大丈夫。じゃあ、最初にこのリクエストしてもらった曲からいこうか」
「お願いします」
「頑張ります」
おどけたように言った先輩がピアノの前に再び腰かけ、楽譜を少し眺めたあと、両手を鍵盤に乗せる。
その指先が踊るように動き始めるのと同時に、音楽室の中が美しく、そして想像していたよりも大きな音で満たされていく。いつも音楽室で聞くときとはずいぶん違う。自分たち以外の人がいないからこれほど響くのだろうか。
繊細なメロディに合わせて歌うように、白いYシャツを着た広い背中が前後に左右にゆっくりと揺れる。
「ここでバイオリンの音が鋭く入ってきて、すごいエッジが効いてるなって思うんだよね」
そんなふうに曲について語りつつ弾く横顔は真剣でありながら楽し気でもあって、俺は相槌をうちながら、じっと先輩の後姿を見続ける。
こうやって、先輩を見るのは初めてのことかもしれない。
いつも、バレないように遠くから眺めるだけだった人。見ていることに気づかれないように、ひっそりと見続けていた人。
こんなはずじゃなかったんだけどな、と何度目か分からないことを思う。
サビの部分に入り、先輩が「ここで転調するんだけど」と言ってくる。
「原曲だと、金管の音がすごい華やかだし、コーラスも重なってすごく盛り上がるところだけど、主旋律はけっこう切ないんだよね。でもそれが、なんかすごい青春っぽいなって」
確かに、と思う。ピアノだけだとその切なさが際立ち、自分の地味な青春にも寄り添ってもらえる感じがする。
やがて先輩が最後の一音を弾き終え、音楽室が静寂に包まれた。
「最高です」
そう言ってパチパチと拍手をすると、先輩が振り返って「ちょっと喋りすぎたかな」と照れ笑いする。
「いえ、面白かったです。分かるってところもありましたけど、気づかなかったところもあって、あとで改めて聞いてみます」
「そう言ってもらえるならよかった。じゃあ、次は、僕が弾きたいと思った曲を。君に弾くならどれが一番いいか候補の中からミス・アキュイティーに選んでもらったんだ。冴介くんも好きな曲だといいけど」
ピアノに目を戻し、楽譜をめくりながらそう言った先輩が、一呼吸置いたあと、ゆったりとラブソングを弾き始める。
友達だと言ってくる大好きな君に、どうしたらこの思いが伝わるのか、そんな切ない片思いの曲だ。
さっきとは打って変わって、先輩はまったく口を開かず、ただピアノの音色だけが響きわたる。
おそらくこの曲を、この歌詞を、自分の気持ちだよと伝えたいのだろう。でも、それを素直に受け止める気にはなれない。
――だって、先輩は俺のことを本当に好きなわけじゃないし
ミス・アキュイティーに言われたとおりに出会ったから、盲目的に俺を運命の相手だって思っているだけで。あのとき、もしも現れたのが俺じゃない誰かだったら、きっと先輩はその人をなんのためらいもなく運命の人だと受け入れていた。
潔く振られるつもりだった、こんな俺を受け入れたように。
先輩の背中を再びじっと見つめる。
ずっと一方的に見るだけだった人。かっこよくて優しくて笑顔が意外と幼くて、勉強もできて剣道も強くて女子たちに人気があって多くの男子に憧れられていて、俺は他の誰よりもその内面を知っているはずだけど、現実では遠い遠い存在だった人。
そんな人が、今、こうやって俺に向かって、ラブソングを弾いている。
先輩に聞こえないように、深くため息をつく。
――解釈違いなんだよなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
もう、全然、ぜーんぜん、曲が響いてこない。
なんだよ、どうやったら気持ちに気づいてくれるのかなって。そんな曲を俺に向かって弾くなよ。
もっと、なんか、こう、背景にすずらんとか描かれていそうな、可憐な美少女に向かって弾いていてほしい。そして、弾き終わったあとに見つめあって頬を赤らめあってほしい。少なくとも色黒坊主の俺が相手というのは納得できない。
ミス・アキュイティーとして占いをすることに罪悪感を抱いていた俺に、毎週のようにポジティブで純粋なお礼が書かれた手紙を送り続けてくれていたときから、姫榊先輩は俺の推しなのだ。
本当に幸せになってほしいと思っているし、先輩のためだから、ミス・アキュイティーとして占いを続けることを受け入れたというのもある。
いずれ占いで決めた人と結婚する、と言われてからは、どんな人が先輩の隣に似合うだろうと妄想し続け、完璧な、誰からも憧れられるようなカップルのイメージも俺の中では固まっている。
それなのに、先輩の横に俺とか。ふさわしくなさすぎて許されない。
っていうか、今からでも高校の中でこの人なら、と思う人を見定めて、運命の相手にしてしまえばいいのかもしれない。やっぱり占いが間違っていたとでもメールで伝えて、改めて出会いの場を設ければ――。
「冴介くん?」
名前を呼ばれ、頬杖をついて考え込んでいた俺は、はっと顔をあげる。
弾き終えた先輩が心配そうにこちらを見ていて、慌てて俺は手を叩いた。
「すごくよかったです。聞き入っちゃいました」
「ほんと? 嬉しいな」
そういった先輩が少し頬を赤らめる。
「あとは、この曲を弾いた僕の気持ちも、伝わっていると嬉しい」
真剣なまなざしでじっと見つめられて、思わず俺の顔も熱くなる。
あぁ、クソ、解釈違いなんだよ。
*
「なぁ、この学校で一番の美人って誰だと思う?」
体育の時間、バレーボールのゲームの順番待ちの間に隣にいる中田に尋ねると「姫榊先輩?」と返された。
「あほか。女子でに決まってんだろうが」
「いや、お前がそういう答えを期待しているんじゃないかと思って」
「なんでだよ」
「やっぱ運命の人って特別に見えんのかなって」
「そろそろ運命の人いじりやめてもらっていいっすか?」
「だってもう、青木イコール姫榊先輩の運命の人っていう噂で持ち切りだし――」
「はぁ!? あ、すんません」
大きな声が出てしまい、先生にじろっと見られた俺は慌てて口を押え、飄々としている中田をおそるおそる見る。
「待ってよ。運命の人っていうのはノブレスジョークってことで、みんな納得してたんじゃないの」
「納得しかけてたけど、先輩の方から駄々洩れっぽいよ」
「なにが!?」
「幸せオーラが」
「なんだよ幸せオーラって……」
ちっと舌打ちした俺を、中田が面白そうに見返してくる。
「ほら、前はさ、告白されたら決まった相手と婚約するっていうのが先輩の断り文句だっただろ。しかし、最新の先輩の断り文句は……?」
ドゥルドゥルドゥルドゥルと、下手なドラムロールみたいな音を口でたてた中田が「ドドン!」と高らかに言う。
「僕には心に決めた人がいるので、です」
わーっと一人で小さく拍手する中田を睨みつける。
「そんなの相手が俺かどうかわかんないだろうが」
「時期的にもぴったりだし、それにもう一つ。ミスターノブレスの登校がここ数日、早いという噂なんだけど、同時に一年生の青木冴介くんと一緒に登校しているという目撃情報も出ている」
「……いや、それは~」
「事実と異なる?」
「まあ、事実なんだけど~、別になんかそういうんじゃなくて、あのほら、先輩とたまたま好きなバンドが一緒だったって言っただろ。それでちょっと情報交換っていうか。先輩も周りに同じバンド好きな人がいないから、話したいみたいで、マジでそれだけなんだけど」
「へぇ。それで毎日一緒に来るんだ」
「学校で話してたら変に注目されそうだし、放課後はお互い忙しいし、話すなら朝だなっていうだけで」
「その話をするためだけに、毎日わざわざ時間を作るっていうところが愛なんだよな」
指でハートを作る中田にいらっとする。
「だからそんなんじゃないんだって。っていうか、なんでそんなこと知ってんの? 中田ってそういう噂とかあんま興味持たないだろ、いつも」
「それは俺が青木冴介くんのお友達だからよ。青木くんって姫榊先輩とどういう関係なの、とか、付き合ってるのかなぁ、とか、運命の人って言われてるのほんと、とかめちゃんこ聞かれてる」
中田が首を右に左に傾けながら女子の声真似をして答えた内容に「うそだろ……」と呟く。
「マジだって。実際今も、みんな俺らの会話に興味津々だし」
中田の言葉にばっばっと、左右を見ると、俺らと同じく順番待ちの女子たちが、ばばばっとあからさまに顔をそらす。
「あ、ちなみにこんだけ興味もたれてるのは、昨日、お前が音楽室で先輩と二人で過ごしたからだからな」
「な、お前バラしたのかよ?」
小声で聞くと、中田が胸を張る。
「俺が自分からこんなことをバラすほど、仲のいい人間がいると思ってんのか?」
「そういうくだりいらないから」
「まあ焦るなって。発信元は先輩のファンたちっぽい。姫榊先輩の演奏をこっそり聞きにいったら、普段は誰も音楽室に入れない先輩がお前のことを招き入れたうえに、ラブソングを弾いてたってことで、あの運命の人発言は本物なんじゃないかって、噂になってるっぽいよ」
なんてことだ。誰もいないと思っていたのに、密かに目撃されていたってことか。
しかも、一年生にこの話が広まっているということは、当然他の学年にも広がっているだろう。
今からでも、高校の中で別の運命の相手をと思っていたけれど、こうなってくると難しいかもしれない。
はーっとため息をついて体育館の天井を見上げる。
「その反応からいって、青木のほうはそう思われるのは迷惑ってことか」
「迷惑っていうか……そもそもおかしいだろ、俺が先輩の相手とか。見た目も中身も釣り合ってないしさ。絶対そのうちアンチがわく」
「まあアンチがわくのは人気な証拠だから大丈夫だって」
「ポジティブか」
再度ため息をついた俺の耳に、「危ない!」と声が聞こえる。
え、と顔を戻すと、白い物体が目の前いっぱいに現れ、そのまま激突してきた。ボールの勢いで後頭部も壁にぶつけた俺はずるずると床に座り込む。鼻から滴った赤い血が、床にドットを描き始めていた。
保健室まで一緒にいこうか、という女子たちの声掛けを断り、先生から渡されたティッシュで鼻をおさえて、一人で廊下を歩く。姫榊先輩についていろいろ聞かれたら面倒だ。
「失礼しまーす」
保健室の扉をがらっと開けると、エプロン姿の姫榊先輩が振り向き、思わず足をとめる。
これまで、こんな風に偶然出会うなんてことなかったのになぜなのか。また先輩に運命と思わせてしまう。
俺を認識し、驚いたように目を見開いた先輩がこちらに駆け寄ってくる。
「冴介くん、どうしたの? 鼻血?」
心配そうに顔をのぞかれ、こくこくと頷いたあとに「先輩はどうしたんですか」と聞く。エプロンをつけているということは、調理実習中の怪我とかだろうか。
「いや、僕はただの付き添い」
先輩が、俺が保健室に入れるよう体をどかす。先輩に気を取られて気づいてなかったけれど、そこには保健の先生に指を消毒されている男子がいた。
「先生、冴介くんはどっかに座っててもらいますか」
「そうね、座ってもらって。鼻血が出た原因は?」
「バレーボールが顔にあたって……」
「ほかは? どこか打ってない?」
「壁際にいたんで、後頭部も壁にぶつけましたけど、でもそんなに――」
言いかけた俺の肩を抱くようにして、先輩が椅子のところまで連れていってくれる。
そんな俺らを、ちらっと横目で見た先生が頷く。
「まあ、それだけしっかり喋れてるならとりあえず大丈夫だろうとは思うけど、ちょっと待ってて。頭は油断しないほうがいいから」
座った俺の隣で先輩が、そわそわと先生に尋ねる。
「あれですよね。頭とか打った時は、部活も休んだ方がいいですよね。僕も頭をぶつけたとき、症状がなくても二十四時間は安静にしたほうがいいって言われましたし」
「まあそうね。脳震盪の可能性があれば休んだ方がいいかな。頭痛とか吐き気とかはない? めまいとか、周りの見え方がいつもと違うとか」
「ちょっと気持ち悪さはありますけど、鼻血のせいかなって感じが」
「でも無理はしないほうがいいと思うわよ。何部?」
「野球部です」
「なら、顧問の先生に私から言っておくから、今日は休んだ方がいいわね。はい、終わり。あなたは部活しても大丈夫よ」
朗らかに伝えた先生に、指に絆創膏を貼られた男子が礼を言って立ち上がる。
「あと、指を抑えてたそのハンカチ、まず水と石鹸とかで洗って血を落としてから洗濯してね。お湯だと落ちにくいから」
「あ、これ、姫榊のハンカチで……クリーニングとか出さないとだめだよな? ブランドものっぽいし」
男子が手に持っているのは、確かにブランドのロゴマークが幾何学的に配置されている分かりやすく高価そうなハンカチだった。
「まさか。僕、いつも普通に洗ってるからそのまま返してもらっていいよ」
「いや、さすがにそれは……」
「ま、その辺は二人で話して。はい、じゃああなた、こっちに来て」
先生に呼ばれて立ち上がった瞬間、少しだけくらっとする。一瞬よろめいた俺に気づいたのか、さっと姫榊先輩の腕が伸びてきて。俺の背中を支える。
「大丈夫?」
「すみません、大丈夫っす」
大きい手だな、と思うと同時に、ピアノを弾いていたあの長い指が今自分に触れているということを、少しだけ意識してしまう。
慌てたように駆け寄ってきた先生が俺を再度座らせたところで、先輩はすっと俺から手を離し、クラスメートであろう男子とともに「失礼します」と言って保健室を出ていった。
けっこうあっさりしてるな、と一瞬つまらないような気持ちになり、慌てて、それでいいのだ、と思い直す。たかが鼻血で、必要以上に心配される方が、ずっと気まずい。
結局、鼻血はあのあとすぐに止まり、立ち眩みも保健室で一度起こっただけだった。
先生から親にも連絡がいったものの、すぐに迎えにはいけないし、大丈夫そうならそのまま授業を受けさせてくれ、と言っていたとのことで、普通に最後まで授業を受けた俺は、この調子なら部活もできるのではとグラウンドまで行ってみたものの、顧問の先生に止められた。
「お前な、何かあったら責められるのは俺だぞ? 帰れ帰れ」
確かにそれはそうである。素直に「分かりました」と答えた俺に、先生は少し口調をやわらげた。
「もし帰る途中で具合悪くなったら無理しないで、救急車呼べよ」
「はい」
そんなことはまずないだろうし、そもそも、ぼーっとしていた自分が悪いのに気遣われていることに居心地の悪さを覚えつつ、校門へ向かう。いったん野球部に顔を出したから中途半端な時間になったのか、ほかに歩いている生徒はおらず静かだ。
帰って何をしよう。もうすぐ中間テストだけど、安静にするために帰るんだから勉強するのも違う気がする。まあ、勉強したくないだけだけど。そういえば中田のおすすめのアニメを見れてないから見てみるか。でもゲームも中途半端なところでとまってるしそっちが先かな。
あれこれ考えつつ、いつもの道をぶらぶらと歩き、自宅へと向かう最初の角を曲がった瞬間、人影を見つけた俺はビクッとして立ち止まった。
「あ、体調どう?」
俺を見つけ、笑顔を浮かべたのは、当然のように姫榊先輩だった。
思わず笑顔を返してしまいそうな自分を抑え、俺はできるだけ淡々と先輩に声をかける。
「あれ、今日、部活お休みでしたか?」
「ううん、休んだ。あのあと、保健の先生に会って、冴介くんは早退したか聞いたら、してないって教えてもらって」
俺がじっと見ていると、先輩が言い訳のように早口で続ける。
「でも、部活は休むって聞いてたし、それにほら、僕、冴介くんが立ち眩みしてるところも見てるからちょっと心配で、できれば家まで送ろうかなって」
あっさり去っていったように見えて、内心ではそんなに気にしてくれていたのか、とじわじわと嬉しさが心を満たしていく。が、そんなところを見せてはいけないと、あえて呆れたような顔をしてみせる。
「そんな、心配しすぎですって。送らないでいいですよ」
「でも、もう部活は用事で休むって言っちゃったから今さら戻れないし……」
ちょっとシュンとしている先輩に「もしかして」と声をかける。
「送るって言って俺の家を知ろうっていう魂胆ですか」
「え! いや、そんなつもりは全然!」
目を見開いて否定する先輩に、つい笑ってしまう。
「まあ別に知られてもいいんで大丈夫ですけど。でも、家まではちょっと申し訳ないんで、えーっと、立ち眩みが心配なら歩道橋のとこまで送ってもらえますか。そこ過ぎたら、あとはずっと平坦な道だけなので、大丈夫です」
俺の言葉に、先輩は「分かった。そうしよう」とほっとしたように頷き、並んで歩き出す。
「で、なんであの角にいたんですか?」
「校門で待とうとしたけど、冴介くんはみんなに注目されたくなさそうだし、あまり目立たないところにしようと思って」
「なるほど」
あれだけ噂になっている今となっては、時すでに遅し、って感じだけど、だからと言って堂々と一緒にいたら噂がさらに尾ひれをつけて広がっていってしまうだろうから、この角で待っててもらってよかったのだろう。ただ、何もない角に立っているのは、不審者として目立つのではないかとも思ってしまう。しかも壁に寄りかかるようなことはせず、背筋を伸ばしてきちんと立っているからなおさらだ。
そこまで考えて、気になっていたことを思いだした俺は、隣を歩く先輩を見上げる。
「そういえば、最初にあの角で会ったときバラの花びらを降らせたじゃないですか。あれ、バラの花束とかじゃ駄目だったんですか」
「あぁ……あれね。ミス・アキュイティーからは『バラの花』っていう指定だったから、もちろん花束でもよかったんだけど、でも、朝からバラの花束を渡されたら、相手の人が困るんじゃないかなって思って。もし、あのとき僕に花束渡されてたら、冴介くんも困ったでしょ?」
なるほど、あれは気遣いだったのかとようやく気づく。
「あー、ですね。さすがに学校には持っていけなかったかも」
「そうだよね。でも、花びらを降らすなら、本人は何も持っていく必要がないし、僕が片付ければすむし、あとは運命の人との出会いの場を彩ってくれるかなって思って」
「……そこで俺みたいなのが出てきて、引かなかったんですか」
俺の問いに、姫榊先輩はふふっと笑った。
「引くわけがない。あそこで現れた君は、間違いなく僕の運命の人なんだから」
この自信がどこから来るのだろう、と胸の中でため息をつきつつ、俺は「そうですか」とだけ答える。
しばらく歩いたあと、幹線道路の上にかけられた歩道橋を渡り終え、俺は先輩にお礼を言って一人で家に向かった。
角を曲がるときに何気なく後ろを振り向くと、歩道橋の真ん中で手すりに両肘をついてこちらを眺めている先輩が見えた。
少し傾きかけた陽の光を背負っているので、その表情までは見えないけれど、さすがにそのまま無視して帰るのも気が引けて、手をひらひらと振ってみると、大きく手を振り返してくる。
早く、本物の運命の人とこの人が出会えればいいのに、と思う。
――王子様とお姫様は、お城で幸せに暮らしましたとさ
自分が望んでいるのは、そんなハッピーエンド。王子様と、庶民の男が幸せに暮らすなんて、そんな結末はあり得ないのだから。
毎週、土曜日の夜七時きっかりに届く姫榊先輩からのメール。
本当にあれは運命の相手なのかという確認が今日のメールに書かれていたら即否定しようと思っていたけれど、やはり何の疑いも持たずに俺を運命の人だと認識しているらしいと分かって天を仰ぐ。
【運命の人と出会うにはどうすればよいかを教えてください】
先輩が、メールにそう書いてきたのは先週のことで、文面を見た俺はスマホを持ったまま固まった。
普段は、前の週の占いによってどんないいことがあったのかが書かれ、今週もよろしくお願いしますと締められているだけだが、このように質問が来ることはこれまでもあった。
集中するためにはどこで勉強すればいいか。剣道の試合前にリラックスするためには何をすればいいか。親に喜ばれるプレゼントはなにか。でも、どれも姫榊先輩の気持ちの持ちようでどうにでもなるものばかりだったから、なんとかなっていた。
しかし「運命の人」となるとそうはいかない。
「決まった人と婚約する」と告白を断っている先輩だが、親が決めた婚約者がいるとか、家柄の釣り合うどこぞやのお嬢さんといずれ政略結婚をしなければいけないとか、そんな事実はない。
その言葉の真の意味は『占いで決まった人と婚約する』である。数年前、告白されたけれど自分はアキュイティー先生に結婚相手を決めてもらうつもりだから断った、と手紙に書いてきたことがあるのでまず間違いない。
つまり「運命の人」を俺が指定してしまったら、それが決定となってしまうということである。適当に占って適当なことを言って、先輩にふさわしくない人がうっかり運命の人に認定されたらと思うと恐ろしい。
しばらく考えて出した結論は、明らかに恋愛対象にはならないであろう自分が運命の人として現れ、期待する先輩の気持ちを萎えさせるというものだった。
それなら、関係のない誰かが運命の人になる心配はなくなるし、うまくいけば先輩がミス・アキュイティーの占いに不信感を持って契約を終えるきっかけになるかもしれないと思ったのだ。
結局、全然うまくいかなかったわけだけれど。先輩の思い込みに、第三者を巻き込まずに済んだのが不幸中の幸いと思うしかない。
――にしても、なんでこのタイミングで運命の人なんて言い出したのかな
恋人がほしくなるタイミングとしてはとても微妙である。
今は九月後半。三カ月という約束だと、うっかりクリスマスを一緒に過ごす羽目になっていたかもしれないけれど、二カ月であれば、特にこれといったイベントもない。
今月初めにあった文化祭で、カップルが楽しそうに過ごしているのを見て羨ましくなったとかそういうことだろうか。もしくは、来月の終わりに予定されている修学旅行がきっかけかもしれない。もし、運命の人が同学年だったらより楽しめると思った可能性はある。
でも、だとすれば学年が違う俺が現れたことで、ちょっとはがっかりしてもよさそうなものだ。
やっぱり謎だな、と考えつつ、タロットカードの入った箱を机の引き出しから取り出す。
まずは、タロットカードを手の中でシャッフルしていく。グリーンの地にシンプルな花模様が描かれたタロットカードは、初めての占いのときから使っているものだ。折れ目がついたり端が少しやぶけていたりするが、手に馴染んで使いやすいので新しいものを買おうとは思わない。
――姫榊渉さんの来週の運勢を教えてください
心の中で唱えながら机の上に広げて、左回りにカードを動かしさらにシャッフルする。
次に、一つの山にカードをまとめて、それを左手で三つの山に分け、もう一度順番を入れ替えて一つの山に戻す。
最後に、三回カードを手の中できったあと、上から七枚目のカードまでを横によけて、八枚目のカードをめくる。
メインの運勢として捉えるのがこのカードなのだが、見た瞬間「なんでだよ」とツッコんでしまう。
出たカードは八番「力」の正位置。「誠実さ」「真心」、といった意味がメインだが、「諦めない気持ち」「大恋愛の予感」という意味も持つ。つまり、運命の恋を応援しているかのようなカードにも見える。
とりあえず誠実さということにしておこう、と気持ちを切り替え、「力」のカードを机の正面奥に置き、続けて六枚のタロットカードを順にめくって時計回りに並べていく。最終的にそれらを総合して一週間の運勢として読み解くというのが、俺の、というか母親が俺にやらせていたやり方で、今もそのまま行っている。正しいかどうかと言われれば正しくないのだろうが、顧客である姫榊先輩がこの占いで満足しているようなので問題ない。
すべてのカードが揃ったところで、円になった七枚のカードを眺める。
二枚目は、三番「女帝」の正位置。意味は「実り」「愛情」「想いが通じる」。
三枚目は、「ペンタクルのナイト」の逆位置。意味は「なかなか進まない」「自立心の欠如」「様子を見すぎてマンネリ化」。
四枚目は、「ソードのペイジ」の正位置。意味は「慎重に判断」「備えあれば憂いなし」「相手を観察する」。
五枚目は、「ワンドの7」の正位置。意味は「有利な状況」「主導権を握る」「大胆な行動」「リードする」。
六枚目は、「ワンドの9」の正位置。意味は「準備万端」「用心深く」「ライバルを警戒」。
一枚目につながる七枚目は、「ペンタクルのエース」の正位置。意味は「報われる」「欲しかったものを手に入れる」「満たされる恋」。このカードが、一応結論となる。
幼い頃は、意味が分かってタロットをやっていたわけではないから、並ぶカードに描かれた人たちが見ている方向や出てくるアイテムなどから物語を作るような感覚で母に話し、それを母がカードの意味と結び付けていた。今も基本は同じだ。
今回のカードの並びでいくと、ぱっと見た感じ、円の下半分、つまり水面下で努力した結果が、円の上半分の三枚から感じられる「報われる未来」につながっている印象を受ける。
まず、逆さになった「ペンタクルのナイト」が「ソードのペイジ」を見つめているから、慎重になりすぎている様子がうかがえる。ただ、「ソードのペイジ」の目線の先は「ワンドの7」だから、それによって状況は好転するのだろう。さらに「ワンドの9」がそれを上からおさえるように出ているから、そのためには準備もしっかりしておくように、とも読める。
スマホを手に取り、文字を打ち込んでいく。
【今週は、頑張っても成果が出にくく、なかなか物事が進まないと感じることがあるかもしれません。ですが、停滞の時期にこそ水面下で努力し、これからのために準備をしていくことが必要です。そうすることによって、最終的には実りある成果がもたらされるでしょう。誠実に取り組む姿勢を大切にしてください】
こんなもんだろう、とスマホを机に置き、引き出しから今度はオラクルカードを取り出す。オラクルカードは、今では全部で八種類持っている。それを順に使うことで、占い結果に偏りが出ないようにしているのだ。今日のカードは生活の様子を描いた全部で四十二枚セットのもの。
タロットカードと同じ手順でシャッフルしたあと、横一列に広げたカードの中から、目についた三枚を引いてタロットの内側に縦に並べる。
一枚目のカードナンバーが三十五だから、ラッキーナンバーは3と5。
二枚目のカードは雪だるまを作る子供の上に雪の結晶のイラストが大きく描かれているから、ラッキーアイテムは幾何学模様のもの。
三枚目のカードは橋の上から虹を見ているイラストだから、ラッキープレイスは橋。
アイテムやプレイスは直感で連想したもので、同じカードを見ても、毎回同じ結果とはならない。我ながら適当ではあるけれど、いつもこんなもんである。
それらを書き込んだあと、最後にどの曲を弾けばいいか、という質問について、引き出しの中からサイコロを取り出して転がす。
出た数字は二だったので、占い結果は二曲目とする。先輩が書いてきた二曲目のタイトルを見て、ゴリゴリのラブソングか、と少しため息をつく。好きな曲ではあるけれど、これを自分に向かって弾かれると思うとなんとも言えない気持ちになる。
【二曲目がいいと占いでは出ています。あとは、お相手の聞きたい曲を尋ねるのが一番いいのではないでしょうか】
聞かれたら、恋愛要素のない青春ソングをリクエストしようと思いながら、【素敵な一週間になりますように】といつもの締めの言葉を書いた俺は、メールの送信ボタンを押した。
*
水曜日の昼、弁当を急いで食べ、音楽室へと足を向ける。
中田には正直に、先輩と好きなバンドが同じで、ピアノで弾けるっていうから聞かせてもらうことにした、と昨日のうちに伝えた。
『音楽の趣味が同じとか、さすがに運命じゃね?』
中田の言葉に『こういうのは偶然っていうんだよ』と返したけれど、偶然と運命って何が違うのだろう、と改めて考えながら階段を上る。
どちらとも意図せずに起こった出来事や結果のことを指すけれど、そこに何か感じるものがあれば人は運命と呼ぶのかもしれない。もしくは最初はなんとも思わなくても、偶然が重なればそれを運命と思う人も多い気がする。
そう思うと、これ以上、先輩に運命だと思わせないようにできるだけ慎重に行動し、いらない情報を与えないようにしなければいけない。
例えば、実は同じ中学に通っていたこととか。もちろん同じ中学にいたのは偶然ではないけれど。
ミス・アキュイティーが先輩を個人的に占うことが決まったとき、その対価として姫榊家からは月額五十万を提示された。ミス・アキュイティーの代理人として連絡を受けた母は、それでは高すぎると伝えたが、HSGKグループの跡取りを精神的に支えてもらっていると思えば安いものだと言われ、受け取らざるを得なかった。
占いなんて当たるも八卦当たらぬも八卦、と言っていた母も、さすがにこれだけお金をいただいて当たらないのは申し訳ないとなったらしく、少しでも先輩の様子を見て具体的な占いができるように、その高額な占い代を俺の教育費とし、先輩と同じ私立有名中学に通うのはどうかという提案を俺にしてきて、俺もすぐにそれを受け入れた。
もともと成績はいいいほうではあったけれど、それだけでは心許なかったため有名塾に通い、合格したときは姫榊家のお金を無駄にしなかったことに、心の底からほっとした。
今、先輩と同じ高校に通っているのも同じ理由である。ぎりぎり通勤圏内だということもあり、両親と自分とで引っ越すことにして、大学生になった姉は都内で一人暮らしを始めた。正直なところ、セレブだらけの中学は、自分とは生活や金銭の面で価値観が合わない人が多かったので、普通の高校に通えることになって良かったと思っている。
――姫榊先輩ですら、あの中学だとそこまで目立つ存在じゃなかったもんな
もちろん、誰もが名前を知る存在ではあったけれど、姫榊先輩は自分から前に前に出るタイプではないし、もっとみんなの注目をひく人たちは何人もいた。
まあ俺なんて、それを言ったら誰からも興味を持たれることのない、モブの中のモブ、みたいな存在だったわけだけど。
三階にあがり、音楽室のある特別教室棟に向かう。
音楽室の前には誰もいなかった。窓にカーテンがかかる引き戸に手をかけると、鍵はすでに開いており、するすると開く。
ピアノの前にいた先輩が、こちらを振り向き、俺を確認するとにっこりと笑った。
その顔が本当に嬉しそうで、なんとなく直視できず、俺はぺこっと頭をさげ、そのままうつむき加減に中に入って後ろ手でドアを閉める。
「鍵も念のため閉めてもらっていい?」
「はい」
鍵を閉める俺の耳に、両手で音階を下から上に、そして上から下に連続で弾く音が聞こえる。指慣らしだろうか。
遠慮がちにピアノのそばによると、先輩がまた俺を振り向く。
「どこか、好きな場所で聞いてくれればいいよ」
「あ、じゃあ……ここで」
ピアノに一番近い席に座ると、先輩が楽譜を手にもって立ち上がった。
「今日は二曲聞いてもらいたいと思ってて。一曲は決まってるんだけど、もう一曲はこの中から冴介くんに選んでもらってもいいかな」
頷いて楽譜を受け取り、目次の中から考えていた青春ソングを探し「この曲が好きなので、これで」と指さす。
「あぁ、この曲いいよね。三年くらい前の曲だったかな」
「練習なしでも弾けるんですか」
「うん、何度か弾いてるし大丈夫。じゃあ、最初にこのリクエストしてもらった曲からいこうか」
「お願いします」
「頑張ります」
おどけたように言った先輩がピアノの前に再び腰かけ、楽譜を少し眺めたあと、両手を鍵盤に乗せる。
その指先が踊るように動き始めるのと同時に、音楽室の中が美しく、そして想像していたよりも大きな音で満たされていく。いつも音楽室で聞くときとはずいぶん違う。自分たち以外の人がいないからこれほど響くのだろうか。
繊細なメロディに合わせて歌うように、白いYシャツを着た広い背中が前後に左右にゆっくりと揺れる。
「ここでバイオリンの音が鋭く入ってきて、すごいエッジが効いてるなって思うんだよね」
そんなふうに曲について語りつつ弾く横顔は真剣でありながら楽し気でもあって、俺は相槌をうちながら、じっと先輩の後姿を見続ける。
こうやって、先輩を見るのは初めてのことかもしれない。
いつも、バレないように遠くから眺めるだけだった人。見ていることに気づかれないように、ひっそりと見続けていた人。
こんなはずじゃなかったんだけどな、と何度目か分からないことを思う。
サビの部分に入り、先輩が「ここで転調するんだけど」と言ってくる。
「原曲だと、金管の音がすごい華やかだし、コーラスも重なってすごく盛り上がるところだけど、主旋律はけっこう切ないんだよね。でもそれが、なんかすごい青春っぽいなって」
確かに、と思う。ピアノだけだとその切なさが際立ち、自分の地味な青春にも寄り添ってもらえる感じがする。
やがて先輩が最後の一音を弾き終え、音楽室が静寂に包まれた。
「最高です」
そう言ってパチパチと拍手をすると、先輩が振り返って「ちょっと喋りすぎたかな」と照れ笑いする。
「いえ、面白かったです。分かるってところもありましたけど、気づかなかったところもあって、あとで改めて聞いてみます」
「そう言ってもらえるならよかった。じゃあ、次は、僕が弾きたいと思った曲を。君に弾くならどれが一番いいか候補の中からミス・アキュイティーに選んでもらったんだ。冴介くんも好きな曲だといいけど」
ピアノに目を戻し、楽譜をめくりながらそう言った先輩が、一呼吸置いたあと、ゆったりとラブソングを弾き始める。
友達だと言ってくる大好きな君に、どうしたらこの思いが伝わるのか、そんな切ない片思いの曲だ。
さっきとは打って変わって、先輩はまったく口を開かず、ただピアノの音色だけが響きわたる。
おそらくこの曲を、この歌詞を、自分の気持ちだよと伝えたいのだろう。でも、それを素直に受け止める気にはなれない。
――だって、先輩は俺のことを本当に好きなわけじゃないし
ミス・アキュイティーに言われたとおりに出会ったから、盲目的に俺を運命の相手だって思っているだけで。あのとき、もしも現れたのが俺じゃない誰かだったら、きっと先輩はその人をなんのためらいもなく運命の人だと受け入れていた。
潔く振られるつもりだった、こんな俺を受け入れたように。
先輩の背中を再びじっと見つめる。
ずっと一方的に見るだけだった人。かっこよくて優しくて笑顔が意外と幼くて、勉強もできて剣道も強くて女子たちに人気があって多くの男子に憧れられていて、俺は他の誰よりもその内面を知っているはずだけど、現実では遠い遠い存在だった人。
そんな人が、今、こうやって俺に向かって、ラブソングを弾いている。
先輩に聞こえないように、深くため息をつく。
――解釈違いなんだよなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
もう、全然、ぜーんぜん、曲が響いてこない。
なんだよ、どうやったら気持ちに気づいてくれるのかなって。そんな曲を俺に向かって弾くなよ。
もっと、なんか、こう、背景にすずらんとか描かれていそうな、可憐な美少女に向かって弾いていてほしい。そして、弾き終わったあとに見つめあって頬を赤らめあってほしい。少なくとも色黒坊主の俺が相手というのは納得できない。
ミス・アキュイティーとして占いをすることに罪悪感を抱いていた俺に、毎週のようにポジティブで純粋なお礼が書かれた手紙を送り続けてくれていたときから、姫榊先輩は俺の推しなのだ。
本当に幸せになってほしいと思っているし、先輩のためだから、ミス・アキュイティーとして占いを続けることを受け入れたというのもある。
いずれ占いで決めた人と結婚する、と言われてからは、どんな人が先輩の隣に似合うだろうと妄想し続け、完璧な、誰からも憧れられるようなカップルのイメージも俺の中では固まっている。
それなのに、先輩の横に俺とか。ふさわしくなさすぎて許されない。
っていうか、今からでも高校の中でこの人なら、と思う人を見定めて、運命の相手にしてしまえばいいのかもしれない。やっぱり占いが間違っていたとでもメールで伝えて、改めて出会いの場を設ければ――。
「冴介くん?」
名前を呼ばれ、頬杖をついて考え込んでいた俺は、はっと顔をあげる。
弾き終えた先輩が心配そうにこちらを見ていて、慌てて俺は手を叩いた。
「すごくよかったです。聞き入っちゃいました」
「ほんと? 嬉しいな」
そういった先輩が少し頬を赤らめる。
「あとは、この曲を弾いた僕の気持ちも、伝わっていると嬉しい」
真剣なまなざしでじっと見つめられて、思わず俺の顔も熱くなる。
あぁ、クソ、解釈違いなんだよ。
*
「なぁ、この学校で一番の美人って誰だと思う?」
体育の時間、バレーボールのゲームの順番待ちの間に隣にいる中田に尋ねると「姫榊先輩?」と返された。
「あほか。女子でに決まってんだろうが」
「いや、お前がそういう答えを期待しているんじゃないかと思って」
「なんでだよ」
「やっぱ運命の人って特別に見えんのかなって」
「そろそろ運命の人いじりやめてもらっていいっすか?」
「だってもう、青木イコール姫榊先輩の運命の人っていう噂で持ち切りだし――」
「はぁ!? あ、すんません」
大きな声が出てしまい、先生にじろっと見られた俺は慌てて口を押え、飄々としている中田をおそるおそる見る。
「待ってよ。運命の人っていうのはノブレスジョークってことで、みんな納得してたんじゃないの」
「納得しかけてたけど、先輩の方から駄々洩れっぽいよ」
「なにが!?」
「幸せオーラが」
「なんだよ幸せオーラって……」
ちっと舌打ちした俺を、中田が面白そうに見返してくる。
「ほら、前はさ、告白されたら決まった相手と婚約するっていうのが先輩の断り文句だっただろ。しかし、最新の先輩の断り文句は……?」
ドゥルドゥルドゥルドゥルと、下手なドラムロールみたいな音を口でたてた中田が「ドドン!」と高らかに言う。
「僕には心に決めた人がいるので、です」
わーっと一人で小さく拍手する中田を睨みつける。
「そんなの相手が俺かどうかわかんないだろうが」
「時期的にもぴったりだし、それにもう一つ。ミスターノブレスの登校がここ数日、早いという噂なんだけど、同時に一年生の青木冴介くんと一緒に登校しているという目撃情報も出ている」
「……いや、それは~」
「事実と異なる?」
「まあ、事実なんだけど~、別になんかそういうんじゃなくて、あのほら、先輩とたまたま好きなバンドが一緒だったって言っただろ。それでちょっと情報交換っていうか。先輩も周りに同じバンド好きな人がいないから、話したいみたいで、マジでそれだけなんだけど」
「へぇ。それで毎日一緒に来るんだ」
「学校で話してたら変に注目されそうだし、放課後はお互い忙しいし、話すなら朝だなっていうだけで」
「その話をするためだけに、毎日わざわざ時間を作るっていうところが愛なんだよな」
指でハートを作る中田にいらっとする。
「だからそんなんじゃないんだって。っていうか、なんでそんなこと知ってんの? 中田ってそういう噂とかあんま興味持たないだろ、いつも」
「それは俺が青木冴介くんのお友達だからよ。青木くんって姫榊先輩とどういう関係なの、とか、付き合ってるのかなぁ、とか、運命の人って言われてるのほんと、とかめちゃんこ聞かれてる」
中田が首を右に左に傾けながら女子の声真似をして答えた内容に「うそだろ……」と呟く。
「マジだって。実際今も、みんな俺らの会話に興味津々だし」
中田の言葉にばっばっと、左右を見ると、俺らと同じく順番待ちの女子たちが、ばばばっとあからさまに顔をそらす。
「あ、ちなみにこんだけ興味もたれてるのは、昨日、お前が音楽室で先輩と二人で過ごしたからだからな」
「な、お前バラしたのかよ?」
小声で聞くと、中田が胸を張る。
「俺が自分からこんなことをバラすほど、仲のいい人間がいると思ってんのか?」
「そういうくだりいらないから」
「まあ焦るなって。発信元は先輩のファンたちっぽい。姫榊先輩の演奏をこっそり聞きにいったら、普段は誰も音楽室に入れない先輩がお前のことを招き入れたうえに、ラブソングを弾いてたってことで、あの運命の人発言は本物なんじゃないかって、噂になってるっぽいよ」
なんてことだ。誰もいないと思っていたのに、密かに目撃されていたってことか。
しかも、一年生にこの話が広まっているということは、当然他の学年にも広がっているだろう。
今からでも、高校の中で別の運命の相手をと思っていたけれど、こうなってくると難しいかもしれない。
はーっとため息をついて体育館の天井を見上げる。
「その反応からいって、青木のほうはそう思われるのは迷惑ってことか」
「迷惑っていうか……そもそもおかしいだろ、俺が先輩の相手とか。見た目も中身も釣り合ってないしさ。絶対そのうちアンチがわく」
「まあアンチがわくのは人気な証拠だから大丈夫だって」
「ポジティブか」
再度ため息をついた俺の耳に、「危ない!」と声が聞こえる。
え、と顔を戻すと、白い物体が目の前いっぱいに現れ、そのまま激突してきた。ボールの勢いで後頭部も壁にぶつけた俺はずるずると床に座り込む。鼻から滴った赤い血が、床にドットを描き始めていた。
保健室まで一緒にいこうか、という女子たちの声掛けを断り、先生から渡されたティッシュで鼻をおさえて、一人で廊下を歩く。姫榊先輩についていろいろ聞かれたら面倒だ。
「失礼しまーす」
保健室の扉をがらっと開けると、エプロン姿の姫榊先輩が振り向き、思わず足をとめる。
これまで、こんな風に偶然出会うなんてことなかったのになぜなのか。また先輩に運命と思わせてしまう。
俺を認識し、驚いたように目を見開いた先輩がこちらに駆け寄ってくる。
「冴介くん、どうしたの? 鼻血?」
心配そうに顔をのぞかれ、こくこくと頷いたあとに「先輩はどうしたんですか」と聞く。エプロンをつけているということは、調理実習中の怪我とかだろうか。
「いや、僕はただの付き添い」
先輩が、俺が保健室に入れるよう体をどかす。先輩に気を取られて気づいてなかったけれど、そこには保健の先生に指を消毒されている男子がいた。
「先生、冴介くんはどっかに座っててもらいますか」
「そうね、座ってもらって。鼻血が出た原因は?」
「バレーボールが顔にあたって……」
「ほかは? どこか打ってない?」
「壁際にいたんで、後頭部も壁にぶつけましたけど、でもそんなに――」
言いかけた俺の肩を抱くようにして、先輩が椅子のところまで連れていってくれる。
そんな俺らを、ちらっと横目で見た先生が頷く。
「まあ、それだけしっかり喋れてるならとりあえず大丈夫だろうとは思うけど、ちょっと待ってて。頭は油断しないほうがいいから」
座った俺の隣で先輩が、そわそわと先生に尋ねる。
「あれですよね。頭とか打った時は、部活も休んだ方がいいですよね。僕も頭をぶつけたとき、症状がなくても二十四時間は安静にしたほうがいいって言われましたし」
「まあそうね。脳震盪の可能性があれば休んだ方がいいかな。頭痛とか吐き気とかはない? めまいとか、周りの見え方がいつもと違うとか」
「ちょっと気持ち悪さはありますけど、鼻血のせいかなって感じが」
「でも無理はしないほうがいいと思うわよ。何部?」
「野球部です」
「なら、顧問の先生に私から言っておくから、今日は休んだ方がいいわね。はい、終わり。あなたは部活しても大丈夫よ」
朗らかに伝えた先生に、指に絆創膏を貼られた男子が礼を言って立ち上がる。
「あと、指を抑えてたそのハンカチ、まず水と石鹸とかで洗って血を落としてから洗濯してね。お湯だと落ちにくいから」
「あ、これ、姫榊のハンカチで……クリーニングとか出さないとだめだよな? ブランドものっぽいし」
男子が手に持っているのは、確かにブランドのロゴマークが幾何学的に配置されている分かりやすく高価そうなハンカチだった。
「まさか。僕、いつも普通に洗ってるからそのまま返してもらっていいよ」
「いや、さすがにそれは……」
「ま、その辺は二人で話して。はい、じゃああなた、こっちに来て」
先生に呼ばれて立ち上がった瞬間、少しだけくらっとする。一瞬よろめいた俺に気づいたのか、さっと姫榊先輩の腕が伸びてきて。俺の背中を支える。
「大丈夫?」
「すみません、大丈夫っす」
大きい手だな、と思うと同時に、ピアノを弾いていたあの長い指が今自分に触れているということを、少しだけ意識してしまう。
慌てたように駆け寄ってきた先生が俺を再度座らせたところで、先輩はすっと俺から手を離し、クラスメートであろう男子とともに「失礼します」と言って保健室を出ていった。
けっこうあっさりしてるな、と一瞬つまらないような気持ちになり、慌てて、それでいいのだ、と思い直す。たかが鼻血で、必要以上に心配される方が、ずっと気まずい。
結局、鼻血はあのあとすぐに止まり、立ち眩みも保健室で一度起こっただけだった。
先生から親にも連絡がいったものの、すぐに迎えにはいけないし、大丈夫そうならそのまま授業を受けさせてくれ、と言っていたとのことで、普通に最後まで授業を受けた俺は、この調子なら部活もできるのではとグラウンドまで行ってみたものの、顧問の先生に止められた。
「お前な、何かあったら責められるのは俺だぞ? 帰れ帰れ」
確かにそれはそうである。素直に「分かりました」と答えた俺に、先生は少し口調をやわらげた。
「もし帰る途中で具合悪くなったら無理しないで、救急車呼べよ」
「はい」
そんなことはまずないだろうし、そもそも、ぼーっとしていた自分が悪いのに気遣われていることに居心地の悪さを覚えつつ、校門へ向かう。いったん野球部に顔を出したから中途半端な時間になったのか、ほかに歩いている生徒はおらず静かだ。
帰って何をしよう。もうすぐ中間テストだけど、安静にするために帰るんだから勉強するのも違う気がする。まあ、勉強したくないだけだけど。そういえば中田のおすすめのアニメを見れてないから見てみるか。でもゲームも中途半端なところでとまってるしそっちが先かな。
あれこれ考えつつ、いつもの道をぶらぶらと歩き、自宅へと向かう最初の角を曲がった瞬間、人影を見つけた俺はビクッとして立ち止まった。
「あ、体調どう?」
俺を見つけ、笑顔を浮かべたのは、当然のように姫榊先輩だった。
思わず笑顔を返してしまいそうな自分を抑え、俺はできるだけ淡々と先輩に声をかける。
「あれ、今日、部活お休みでしたか?」
「ううん、休んだ。あのあと、保健の先生に会って、冴介くんは早退したか聞いたら、してないって教えてもらって」
俺がじっと見ていると、先輩が言い訳のように早口で続ける。
「でも、部活は休むって聞いてたし、それにほら、僕、冴介くんが立ち眩みしてるところも見てるからちょっと心配で、できれば家まで送ろうかなって」
あっさり去っていったように見えて、内心ではそんなに気にしてくれていたのか、とじわじわと嬉しさが心を満たしていく。が、そんなところを見せてはいけないと、あえて呆れたような顔をしてみせる。
「そんな、心配しすぎですって。送らないでいいですよ」
「でも、もう部活は用事で休むって言っちゃったから今さら戻れないし……」
ちょっとシュンとしている先輩に「もしかして」と声をかける。
「送るって言って俺の家を知ろうっていう魂胆ですか」
「え! いや、そんなつもりは全然!」
目を見開いて否定する先輩に、つい笑ってしまう。
「まあ別に知られてもいいんで大丈夫ですけど。でも、家まではちょっと申し訳ないんで、えーっと、立ち眩みが心配なら歩道橋のとこまで送ってもらえますか。そこ過ぎたら、あとはずっと平坦な道だけなので、大丈夫です」
俺の言葉に、先輩は「分かった。そうしよう」とほっとしたように頷き、並んで歩き出す。
「で、なんであの角にいたんですか?」
「校門で待とうとしたけど、冴介くんはみんなに注目されたくなさそうだし、あまり目立たないところにしようと思って」
「なるほど」
あれだけ噂になっている今となっては、時すでに遅し、って感じだけど、だからと言って堂々と一緒にいたら噂がさらに尾ひれをつけて広がっていってしまうだろうから、この角で待っててもらってよかったのだろう。ただ、何もない角に立っているのは、不審者として目立つのではないかとも思ってしまう。しかも壁に寄りかかるようなことはせず、背筋を伸ばしてきちんと立っているからなおさらだ。
そこまで考えて、気になっていたことを思いだした俺は、隣を歩く先輩を見上げる。
「そういえば、最初にあの角で会ったときバラの花びらを降らせたじゃないですか。あれ、バラの花束とかじゃ駄目だったんですか」
「あぁ……あれね。ミス・アキュイティーからは『バラの花』っていう指定だったから、もちろん花束でもよかったんだけど、でも、朝からバラの花束を渡されたら、相手の人が困るんじゃないかなって思って。もし、あのとき僕に花束渡されてたら、冴介くんも困ったでしょ?」
なるほど、あれは気遣いだったのかとようやく気づく。
「あー、ですね。さすがに学校には持っていけなかったかも」
「そうだよね。でも、花びらを降らすなら、本人は何も持っていく必要がないし、僕が片付ければすむし、あとは運命の人との出会いの場を彩ってくれるかなって思って」
「……そこで俺みたいなのが出てきて、引かなかったんですか」
俺の問いに、姫榊先輩はふふっと笑った。
「引くわけがない。あそこで現れた君は、間違いなく僕の運命の人なんだから」
この自信がどこから来るのだろう、と胸の中でため息をつきつつ、俺は「そうですか」とだけ答える。
しばらく歩いたあと、幹線道路の上にかけられた歩道橋を渡り終え、俺は先輩にお礼を言って一人で家に向かった。
角を曲がるときに何気なく後ろを振り向くと、歩道橋の真ん中で手すりに両肘をついてこちらを眺めている先輩が見えた。
少し傾きかけた陽の光を背負っているので、その表情までは見えないけれど、さすがにそのまま無視して帰るのも気が引けて、手をひらひらと振ってみると、大きく手を振り返してくる。
早く、本物の運命の人とこの人が出会えればいいのに、と思う。
――王子様とお姫様は、お城で幸せに暮らしましたとさ
自分が望んでいるのは、そんなハッピーエンド。王子様と、庶民の男が幸せに暮らすなんて、そんな結末はあり得ないのだから。



