「ミス・アキュイティーのキューティーな小部屋」は、出版社で働く母が、編集者として創刊から関わった女性誌の占いコーナーだった。コーナー名は俺の名前の「冴」がもとになっている。
 本来連載する予定だった占い師が締め切り直前に連絡がとれなくなり、どうにかしろと上から言われた母親は焦りと疲れで、冷静な判断ができなかったのだろう。
 『無垢(むく)な子どもに占わせたらきっと当たるはず!』
 というまったくもって非科学的な理論で、母は当時幼稚園児だった俺に、タロットカードと数種のオラクルカードを与えた。そして星座ごとに引いたカードからイメージすることを俺に言わせ、それを母がまとめて占いのページに載せていった。
 忙しい母が一対一で相手をしてくれることが嬉しかった俺は、幼い頃は遊び感覚で言われるがままに占いを手伝っていた。しかし、成長し自分がやっていることの意味を理解するにつれ、プレッシャーを感じると同時に、罪悪感を覚えるようにもなっていった。
 『占いなんて、当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦なんだから気にしなくていいのよ』
 母はそう言っていたけれど、子ども心にそう簡単に割り切れるものではなく、俺は小学五年生になる春、もう占いはしない、と母に宣言した。
 読者さんたちが楽しみにしているとか、編集部のみんなが困るとか、小遣いの額を上げようかとか、いろいろ言われたけれど、俺は断固として意志を(ひるがえ)さなかった。
 結局母は折れたが、占い特集が六月にすでに予定されていたため、そこで新しい占い師に変わることを発表するまではやってほしいと懇願(こんがん)され、じゃあそこまでで終わり、ということで話はまとまった。
 こうして、ミス・アキュイティーは正体不明のまま姿を消し、いつしか人々から忘れ去られていく……はずだったのだが。
 「しかも、雑誌では隔週の占いだったんだけど、僕は毎週占ってもらっているんだ」
 目の前で目をキラキラさせながら話すこの先輩のためだけに、ミス・アキュイティーはいまだ引退できないでいる。
 「占いに頼るのか、と思うかもしれないけど、本当にすごいんだ。特に僕は、アキュイティー先生と相性がいいのかな。これまで彼女の占い通りに行動して失敗した試しがない。きっかけは小学一年生の夏休みに、母が読んでいた『ミス・アキュイティーのキューティーな小部屋』の、僕の星座のラッキーアイテムを教えてくれたことで――」
 とてもよく知っている話なので、姫榊先輩の熱弁を右から左に流しながら適当に頷きつつ弁当を食べる。
 ラッキーアイテムが扇子(せんす)だったので、いつも扇子を使っているお祖父さんに扇子を貸してと言いにいったら、それなら(わたる)専用の扇子を買ってあげようと連れ出され、訪れた商店街でくじ引きをやっていたので扇子を買ったときにもらった引換券でくじを引いたら三等があたり、当時一番好きだったキャラクターの大きなぬいぐるみをもらった、というものだ。
 つまり最初のインパクトが強すぎるから、ミス・アキュイティーの占いは当たる、と心に刷り込まれてしまったのだろう。
 そのときから姫榊少年の人生の指針はミス・アキュイティーの占いとなり、それが突然終了になると知って絶望で食事もとれなくなり、見かねた姫榊母が編集部にミス・アキュイティーの連絡先を教えてほしいと連絡をし、メインの広告主であるHSGKグループの依頼を断ることはできない出版社の命を受けた母が俺に土下座する勢いで頼み込み、母の会社の命運を握ることになってしまった俺は受け入れざるを得なかった、というわけだ。
 「――だからね、君が僕の運命の人だっていうのも間違いないんだ」
 音楽室の窓越しに見える秋空は高く青く、見るからに気持ちよさそうで、せめて昼くらいは占いのことは忘れて外で食べたかったなぁなどと思いながら機械的に頷いていた俺は、うっかりその言葉にも頷いてしまい、慌てて頭を横にぶるぶるとふる。
 「待ってくださいよ。よく見てください。こんな平凡で男の俺が、見た目がいいわけでもない俺が、先輩の運命の相手だなんて絶対ないです」
 「いや、僕は運命の人だって思ってる。だって……」
 「いえ、絶対にないです。だって俺、確かに今は彼女とかいないですけど、でも、申し訳ないですけど恋愛対象は女の子ですし。その、正直に言えば、ちょっと、運命の人とか言われて引いてます」
 「……」
 「俺自身、運命とか、そういうのも信じてないですし。先輩に対しても、まったく、なんていうか、恋愛っぽい感情も持てないですし……というか、すみません、もしかして恋愛的な意味での運命っていうわけではない、ですかね?」
 そうだ、現れたのが同性だったから、生涯の友みたいな意味で運命の相手と言っているのかもしれない。それならまあ、受け入れられなくもないかも、と考える俺の前で姫榊先輩はにっこりと笑った。
 「恋愛的な意味だよ」
 「嘘でしょ」
 思わずタメ口になってしまった。
 「え、もともと男が恋愛対象なんですか……?」
 そんな話は聞いていない。と言っても、恋愛的な意味での占いをリクエストされたのも、今回が初めてだから、聞く機会もなかったわけだけど。
 「いや、正直なところ、これまで恋愛対象が男か女かとか考えたこともなかったというか」
 でも、と先輩の目が少し遠くを見る。
 「あえて言えば、僕の初恋の相手はミス・アキュイティーなんだ」
 「へ、へー?」
 「もちろん、本人に会ったことはないんだけど『ミス・アキュイティーのキューティーな小部屋』に描かれていたミス・アキュイティーのイラストが素敵でね。手に持ったタロットカードの隙間から、こちらを見ているイラストで、その目に心を奪われてしまって。恥ずかしながら、何通もファンレターも送ってた」
 何通どころじゃないだろ、と心の中でつっこむ。箱にしまってあるファンレターは明らかに百通を超えている。
 「でも、それは本当に憧れ、みたいなものだったし、そう考えると男か女かっていうより、君が僕にとっての初めての恋愛対象ってことになると思う」
 「いや、だから、なぜそこで疑問を抱かないんですか。相手が俺って、どう考えてもおかしいと思うんですけど。ほら、占いが間違ってた可能性とかもありますよね」
 頑張れ、俺。
 どうにかして運命の相手は俺なわけがないと、目を覚ましてもらうのだ。
 ついでにミス・アキュイティーの占いは当たらないから、もう契約も終わりに、という流れも期待したいところ。こちら側からは言い出せないから、先輩側から打ち切ってもらえるかもしれないこのチャンスをぜひ活かしたい。
 「……まあ、君からすればそうとしか思えないかもね」
 目の前で姫榊先輩が小さくため息をついた。
 お、思ったよりも早く改心してくれたか、と安心した俺を、先輩がじっと見る。
 「でも、僕としては、これまでの経験からも、ミス・アキュイティーの占いに従って出会った君が運命の人だって信じている。だからここで、それなら諦める、とは言えない」
 「えぇ……なんで、そんな、別に俺なんかにこだわる必要ないじゃないですか」
 「ミス・アキュイティーが運命の人って言っているのだから、こだわるよ。君も実際占ってもらえれば彼女のすごさが分かるんだけど」
 すごくなんですよ、だって俺がミス・アキュイティーなんですから、とここで言えればいいが、子どもに適当にやらせていた占いを伝えていたとバレたら、母の働く出版社に迷惑がかかる可能性があるし、さすがに無理である。
 「でも――でも、俺はやっぱり男同士だし、運命だとは思えないです……」
 抗う俺を見て、姫榊先輩は少し困った顔になった。
 「運命じゃないと思う君と、運命だと思う僕とでは話もどうしても平行線になるよね。それならどうだろう。これから三カ月、とりあえず運命の人かもしれないってことで、一緒に過ごす時間を作ってもらえないかな。それでも君がやっぱり僕のことを運命の人じゃないって思うなら、僕も諦める」
 「お試しで付き合うってことですか? それは、ちょっと」
 「いや、そこまで望むつもりはないよ。先輩後輩として仲良くしてもらえたら。お互いをまったく知らないわけだし、まずはこんな風に話す時間を作ってもらえたら嬉しい」
 とっさに断りたくなるのを抑え、頭を働かせる。まったく無視するより、一緒に過ごす方が、俺がどれだけ平凡で運命なんてものとは無縁なつまらない人間かということを分かってもらえるかもしれない。
 「分かりました。でも、三カ月は長いです。せめて一カ月」
 「一カ月は短すぎる。二カ月でどう」
 二カ月もいらないだろ、と思うが、昼休みも間もなく終わる。悠長に期間だけについて交渉している暇はない。
 「……じゃあ、運命の人っていうのをやめるって約束してくれるなら」
 「もう名前が分かったから冴介くんって呼ぶよ」
 「いや、それだけじゃなくて、さっき廊下で言われて恥ずかしかったので、運命の人っていう呼び方が冗談だったってことにしてほしいです。例えば、たまたま角でぶつかって、俺が落としたものを拾ったから渡そうと思ったけど、名前知らないからそう呼んだとか、そんな感じでどうですか」
 「分かった。じゃあ、君が落としたハンカチを拾ったことにしようか」
 なぜ運命の出会いをより強調するようなロマンチックエピソードを追加しようとするんだ。
 「いえ、俺、ハンカチは持ち歩かないんで……」
 「ハンカチを持ち歩かない……?」
 ハンカチを持ち歩かない男のほうが多いはずだけど、素で驚く姫榊先輩のポケットには、きっとアイロンがピシッとかかったハンカチが入っているに違いない。
 「なので……あ、俺が落としたイヤホンを拾ったとか。今もポケットに入ってますし」
 ズボンのポケットからワイヤレスイヤホンを出して見せると、姫榊先輩はうんうん、と頷いた。
 「了解。冴介くんが落としたイヤホンを僕が拾ったって言うようにするよ。恥ずかしい思いをさせてごめんね、運命の人に出会ってちょっと舞い上がってしまっていた自覚はある」
 素直でいい人なんだよな、と思う。俺が相手でも舞い上がるほどミス・アキュイティーへの妄信ぶりがひどいだけで。
 「あと、教室に戻る前に、連絡先だけ交換してもらえるかな」
 遠慮がちにスマホを差し出した先輩の大きな手を見ながら、俺は小さく頷く。ついに手紙とメール以外のつながりができてしまったことが、少しだけ後ろめたかった。

 昼休みが終わる直前に教室に戻った俺は、案の定クラスメートの女子たちに「運命の人ってなに!?」と(むら)がられた。
 「いやー、俺も何かと思ったらさー、実は学校にくるときに、曲がり角で先輩とたまたまぶつかって、そのときに俺がイヤホンを落としたのを拾ってくれてたってことが分かってー。先輩も俺のこと知らないから、曲がり角でぶつかったシチュエーションから運命の人って仮に呼んでただけでー」
 「それでわざわざ二人でご飯食べようってなる?」
 「あー、ほら、うち、学校内では一応イヤホン禁止ってなってるからさ。気を使ってくれたんじゃないかな」
 「なるほどね」
 「姫榊先輩ならありうるな」
 「ミスターノブレスだしね」
 「運命の人って言い回しもミスターノブレスっぽいよね」
 「ってか、姫榊先輩とぶつかったらバラの花とか降り注ぎそう」
 「わかる」
 実際にバラの花びらを降り注がれた俺は、ははっと笑うにとどめる。
 その後も、休み時間は他クラスの女子たちが教室にやってきて、放課後は知らない女子の先輩に呼び止められて、部活に行けばチームメイトたちに囲まれて、俺はそのたびに「運命の人」という先輩の発言について説明をした。「ミスターノブレス」こと姫榊先輩のキャラのおかげでそれ以上つっこまれることもなく、変な噂は広がらずに済みそうだった。

 怒涛の一日が終わった帰り道、先輩とぶつかった角を曲がりながら、俺は足元を見た。言っていたとおり、きちんと片付けたのだろう。花びら一片(ひとひら)すらそこには落ちていない。
 ――そういえば、なんで花びらにしたのか聞かなかったな
 ミス・アキュイティーから、先輩が運命の人に出会うための条件として提示したものは、五つ。
 Ⅰ. 水曜日
 Ⅱ. 早朝
 Ⅲ. 曲がり角
 Ⅳ. パン
 Ⅴ. バラの花
 すべて占いの結果として出てきたものである。ただ、「早朝」を、「六時三十分頃」にしたり、「曲がり角」を「学校の前に伸びる道の三番目の曲がり角」にしたりと、俺が間違いなく運命の人として現れることができるように調整はして先輩に伝えてある。
 占いの結果が出た時には、朝食にパンを食べた先輩が朝から曲がり角でバラの花束を持って待っているというものをイメージしていた。まさかそれが、曲がり角の王道シチュエーションと言えばこれ、と言わんばかりにパンをくわえて飛び出してくるとは思わなかったし、よりによってコッペパンだし、バラの花束ではなく花びらを降らせてくるし、ほんといろいろと予想の斜め上過ぎた。本気でびっくりしたおかげで、先輩からも俺が仕組んだ出会いだとは思われないですんだだろうけど。
 ふと、噛み千切ったコッペパンを片手に仁王立ちしていた姫榊先輩を思い出して、ニヤッとしてしまう。もちろん先輩は真剣だったのだろうが、どう見ても面白い絵面だったので、本当の運命の人に、あんなミスターノブレスらしくない姿を見せずにすんで良かった。
 とりあえず、先輩がいずれ本当の運命の人に出会うためにも、自分が運命じゃないと分かってもらえるように頑張らないとな、と家に向かって足を進めていると、スマホの振動がバックパックから伝わってきた。
 サイドポケットから取り出してみると、姫榊先輩からのLIMEだった。
 アイコンは怖いことに「ミス・アキュイティーのキューティーな小部屋」で使われていたイラストの一部の犬であった。知らなければ、ただの犬のイラストとしか思われない絶妙なラインをついている。
 愛の言葉みたいなのが連なっているかも、と心の準備をしながら開くが、そこには意外とあっさりとした言葉が並んでいた。
 【もう部活は終わったかな。お疲れさまでした。僕はこれからスーパーのバイトに行ってきます。また明日】
 部活が終わってから「スーパーひさがき」でバイトをしているというのは知っている。社長の息子だからそんなに大変な仕事はさせられていないだろうけど、まあそれでもお疲れさまではある。
 にしても、また明日って、明日も休み時間に来たりするのかな、と考えながら、俺も【お疲れ様です。バイト頑張ってください】と返す。
 もし先輩が明日、教室に来たとして、イヤホンを拾っただけでそんなに仲良くなるものだろうかって周りに不審に思われるかもしれない。
 ――イヤホンからどんな曲が好きかって話になって、好きなバンドが同じってことが分かって、ということにしておくか
 実際、姫榊先輩が一番好きだというバンドについてメールに書いてきたことがあり、試しに聞いてみたら自分もすっかりはまってしまったので嘘ではない。
 ありがとう、という文字だけのスタンプに送られてきたのに対し、羊がファイトと言っている無難なスタンプを返した俺は、ミュージックアプリを立ち上げてポケットから出したイヤホンを耳に差し込んだ。

 *

 「おはよう」
 「……おはようございます」
 まさか、朝から待ち伏せされているとは思わなかった俺は、イヤホンを外しながらため息をつきそうになるのを(こら)えた。
 昨日と同じ曲がり角で爽やかな笑顔を浮かべている姫榊先輩は、今日は通学用のカバンをしっかり持っている。さりげなく角の向こうを見てみるが、車が停まっている気配もない。
 「一緒に過ごす時間を、と思ったけれど、放課後は僕が部活とバイトで会う時間を取れないし、休み時間にあまり友達との時間を奪ってもいけないだろうと思ったから、朝が一番いいかなって」
 「そうですか」
 「でも、ここからだと学校まで五分もかからないから、明日からもう少し手前まで迎えに行っていいかな」
 学校で話しかけられるよりいいのかな、と考えながら「行こうか」と声をかけてきた先輩と並んで歩き出す。
 「手前がどの辺をさしているのかにもよりますね」
 「理想は家まで迎えにいくことだけど」
 「先輩の家と反対方向だからやめておいたほうが」
 先輩はバイト先であるスーパーの上にあるマンションの一室に住んでいる。
 実際遠いし、まず家に来られるのは勘弁してもらいたいし、と考える俺に先輩が「僕の家知ってるんだ?」と聞いてくる。
 しまった。バレるといろいろ大変だからって、どこに住んでいるのか周囲の人に言ってないことを忘れていた。
 「いや、休みの日に、たまたま先輩が元町のほうで歩いているのを見かけたことがあって。あの辺なのかなって」
 「そうか。冴介くんも、僕のことを前から知ってくれていたんだね」
 「先輩は有名人ですし」
 「有名人?」
 「有名人ですよ。イケメンで、頭がよくて、剣道も強くて、お金持ちで、うちの高校で知らない人はいないんじゃないですか」
 「それは冴介くんも、そう思ってくれてるってこと?」
 にこにことした姫榊先輩が歩きながら顔を覗き込んでくるのに「はい、客観的事実ですし」と淡々と答える。
 「それでも嬉しいよ。少なくともポジティブな印象を持たれているってことだから」
 変に謙遜することなく、褒め言葉も素直に受け止めるあたりはさすがである。
 「でも、僕がそんなふうに見てもらえているとすれば、それもミス・アキュイティーのおかげかもしれないな」
 前言撤回。なんでもミス・アキュイティーのおかげだと思うあたり残念な人である。
 「あの、先輩って、他の人にもミス・アキュイティーのこと、そんなふうによく話題に出すんですか?」
 「高校で話題に出したことはないよ。冴介くんが初めて」
 「そうですか」
 うん、と頷いた姫榊先輩が微笑む。
 「小学生のときにね、なんでそんなになんでもできるのかってクラスメートに聞かれたことがあって。ミス・アキュイティーの占いのおかげだって答えたら、広められて馬鹿にされたことがあったんだ。僕はミス・アキュイティーが本物だって知っているから、占いを信じていることを馬鹿にされても平気だったけど、ミス・アキュイティーを落とすようなことを言われるのはとても嫌で、それ以来話さないようにしてる」
 そんなことがあったのか、と内心で驚く。確かに、中学のときも高校に入ってからも、姫榊先輩が占いを信じているなんて聞いたことがない。先輩がそんなことを言ったら、ゴシップ的な感じですぐに話は広がるはずだ。
 「でも、冴介くんはミス・アキュイティーのおかげで出会えた人だし、運命の人っていうことを説明するには、占いのことを隠しておくわけにもいかなかったから。それに、占いの結果を受け入れるかどうかはともかくとして、占いそのものは馬鹿にしたりしないで聞いてくれたから、冴介くんになら話してもいいかなって」
 「そうですか」
 余計なことを言わないように、さっきから「そうですか」というつまらない返ししかできていないけど、こいつと話していてもつまらない、と思われるのは運命の人認定から外れるのに有効な手立てかもしれない。
 しかし、姫榊先輩は俺の返事を聞いて、なぜか嬉しそうに笑った。
 「冴介くんって、本当に何を言っても淡々と受け入れてくれるね。すごく話していて楽だな」
 まさかの好印象。人として最低限の礼儀をわきまえつつ、好かれないようにするというのは意外と難しいものだと思いながら、手に持ったままだったイヤホンをポケットから出したケースに入れる。
 「それ、何聞いてたの?」
 先輩が手元を指さして聞いてくる。
 「音楽です」
 「どんなのを聞くの? と言っても、僕はあまり流行の曲とか知らないんだけど」
 「あー……」
 ちょっと考える。同じバンドを好きだということが分かれば、仲良くなった理由として周りに言いやすくなるだろう。
 「そうっすね。今だとドラマの主題歌の――」
 いくつか歌をあげたあとに「あと、『Sulfur』っていうバンドもけっこう好きで」とさりげなく言うと、姫榊先輩が目を見開く。
 「本当に? 僕も好きなんだ。『Sulfur』。あまり周りに好きな人がいないからびっくりした」
 「あー。確かにそこまでメジャーではないですしね」
 「『Sulfur』いいよね。僕、小さい頃からクラシックをよく聞いていて好きなんだけど、彼らの曲って、クラシックのメロディーを部分的に取り入れているし、楽器もバイオリンとかピアノとか、クラリネットとか、そういった楽器の旋律がすごく効果的に使われていて聞いてて気持ちがいいんだよね」
 ミス・アキュイティーのことを話すときと同じような熱量で語られた内容に『Sulfur』ファンとしてテンションがあがり「それなのに、歌詞の言葉遣いが今っぽいのもギャップがあっていいですよね」と勢いよく返すと、先輩の表情がぱあっと明るくなる。
 「そう、本当にそうなんだよね。だからこそ歌詞とメロディーのどちらも引き立つというか」
 「分かります」
 「僕、実家にいたときは、ピアノで『Sulfur』の曲の弾き語りとかしてたくらい」
 「え、すごいですね。聞いてみたかったかも」
 思わずこぼした俺に、姫榊先輩が「歌はちょっと苦手だから聞かせられないかも」と笑う。
 「でも、ピアノはぜひ聞いてほしいな。今、家にピアノがないからね。週に一度、昼休みに音楽室の鍵を借りてピアノを弾かせてもらってるんだ。『Sulfur』の曲もときどき弾いてる」
 「そうなんですか」
 あぁ、だから昨日も音楽室の鍵を持っていたのか、と納得している俺を、先輩がまた覗き込んでくる。
 「週に一度くらいなら、君を昼休みに誘ってもいい?」
 「……でも、せっかくの時間にお邪魔になるんじゃ」
 「いや、むしろ『Sulfur』の良さを実際に曲を弾きながら語りたい」
 「けっこうオタクなんですね」
 つい笑ってしまうと、先輩もまた笑う。
 「そうだね。ミス・アキュイティーにしても、『Sulfur』にしても、一度いいと思ったものってとことんはまるし、飽きることがそうそうないからオタク気質なのかもしれない」
 「そうなんですね。あ、じゃあ、俺、部室に行くので、ここで」
 ようやくたどり着いた校門で、ぺこっと頭を下げていこうとした俺の手首が、ふいに掴まれる。
 え、と見上げると、姫榊先輩の真っすぐな瞳と目が合った。
 「あのさ、今のうちに、来週、水曜日の冴介くんの昼休みを予約させて」
 断る理由など咄嗟に思いつくわけもなく、俺は「……はい」と頷く。
 それを見た先輩の目が、ふっと優しく柔らかな弧を描き、手首をつかんでいた指が離れていく。
 「じゃあ、部活頑張って」
 「有難うございます」
 もう一度頭を下げて、今度こそ小走りで部室へと向かう。
 掴まれた手首の熱は、なかなか消えていかなかった。