思わぬ出来事が起こるのは、大抵平凡な日常を送っている最中であると相場(そうば)は決まっている。
 水曜日の朝。いつもの道。フェンス越しにこっちを見るいつもの犬。完璧に平凡な日常だ。まだ早いこの時間、閑静(かんせい)な住宅街を抜けるこの細い道を自分以外に誰も歩いていないのも、いつものこと。
 手に持っているスマホを見る。六時三十二分。
 野球部の集合時間は六時五十五分だから、この時間であれば余裕で間に合う。朝練への参加は自由となっていて、三年生が夏に引退したあとは、二年生は半数くらいが来なくなった。しかし一年生は暗黙の了解で強制参加となっているし、もちろん遅刻は許されない。
 小さくため息をつき、いったん立ち止まってスマホをじっと見つめる。時計が六時三十四分を示したところで、バックパックのサイドポケットに、慎重にスマホをしまい込む。
 目の前に迫る角を曲がれば、あとは高校まで一本道。気が重いけど行くしかない。
 ――よし
 心の中で気合を入れ、足を進めた俺の目の前に、突然、角の向こうから人影が飛び出してきた。
 それだけでも思わぬ出来事であるが、その人影とぶつかった瞬間、二人の周りに真っ赤なバラの花びらが舞い、ガランゴロンと古い鐘のような音が鳴り響いた。
 比喩表現ではない。相手へのダメージを最小限にするため後ろにのけぞった俺は、青空をバックに舞うバラの花びらによって視界が赤く彩られていくのを、呆気にとられながら見上げる。
 そのまま、スローモーションのようにゆっくりと尻もちをついた俺の上に、バラの花びらがひらひらひらひらと大量に舞い落ちてきた。量が多すぎて、埋まるのではないかという恐怖すら若干覚える。
 なんでこうなった、と考える俺のもとへ、角から飛び出した相手が走り寄ってきた。
 「ほへんははい!!」
 慌てたように差し伸べられた手を無視して立ち上がる。
 たぶん「ごめんなさい」と言ったのだろう。よく分からない言葉になっているのは、相手がパンをくわえているから。
 曲がり角でパンを口にくわえている人物像といったら、遅刻しそうになって慌てて食パンをくわえている女子が思い浮かぶが、目の前にいるのは、美形ではあるものの俺と同じ高校のブレザーを着た男で、しかも口にくわえているのはでかめのコッペパンだった。なんでコッペパンなんだ。せめて食パンであれよ。
 俺がジャージから花びらをはたき落としているのを、無視されたままの男は落ち着かない様子で眺めていた。
 たぶん本人は、可愛い女子とぶつかると思っていたのだろう。ところが現れたのは愛想の悪いジャージを着た色黒な男。戸惑っているに違いなかった。
 見える範囲に花びらがついていないことを確認したあと、俺は男をちらっと見た。
 「……なんかよく分かんないですけど、花びらはちゃんと片付けたほうがいいと思います」
 それだけ言って男の横を通り過ぎようとすると、手首をがしっとつかまれた。
 「はっへ。ほくのふんめいのひほ」
 「……なんて?」
 必死すぎる男の顔に若干引きつつ訊ねると、男は俺の手首を握っていないほうの手のひらをこちらに向けて、ちょっと待って、というようなジェスチャーをしてくる。そしてくわえていたコッペパンを握って噛みちぎり、口の中に残ったパンを必死にもぐもぐとしはじめた。
 十秒ほどで無理やり飲み込んだ男は、はぁっとため息をついたあと、改めて俺をじっと見た。
 「待って、僕の運命の人って言いました」
 「……は??」
 イケメンということもあり、真剣な顔だけ見ているとドラマのワンシーンのような感じがしないでもないが、住宅街の真ん中で、三分の一ほどが噛み千切られたコッペパンをこん棒のようにしっかと持って堂々と立っている姿はギャグでしかない。しかもそのパン以外、何も持っていないからシュールさがより際立つ。
 自分より目線が高い男を下から睨みつけ「意味わかんないし、朝から迷惑なんで」と告げて、手を振り払って歩き出す。
 「あの、僕、二年B組の姫榊渉(ひさがきわたる)です!」
 背中から追ってきた声に、知ってます、と心の中で答えて角を曲がると、窓にスモークが貼られた黒塗りの車が停まっていた。
 間違いなく、姫榊家の車だろう。運転手以外に誰か乗っているだろうか。ことの顛末を見て、さすがにあれは運命の相手じゃないだろうと諭してくれる人が乗っていることを願いたい。
 さりげなく車から目を逸らした俺の目が、今度は道端に転がる金属製のバケツを捉える。
 その周りにもバラの花びらが散らばっているところを見ると、たぶんこのバケツに花びらを入れていて、中身を宙に投げ出したあと、道に転がしたのだろう。ぶつかった瞬間の寂れた鐘のような音は、つまりこのバケツがアスファルトにぶつかる音だったということだ。
 ――なんでこうなったんだか
 改めてため息をついた俺は、バケツを拾い上げて電信柱の陰に立てて置く。ここなら、通りかかる車が間違って跳ね飛ばすこともないだろう。
 手についた花びらを軽く叩いてはらい、気を取り直して朝練へと向かう。遅刻はせずにすみそうだった。

 *

 一時間目が終わったあと、トイレから出た俺は、姫榊渉が一年生の教室を覗いているのを見つけて、慌ててトイレに舞い戻った。
 「姫榊先輩、誰かお探しですか?」
 上ずった声で、一人の女子が話しかけているのが聞こえる。
 「あぁ、うん、ちょっとね。運命の人を」
 俺が、ひゅっと身を強張らせると同時に、廊下がざわっとするのを感じる。
 「運命の人って言った……?」
 「もしかして誰かを見初めた、とか?」
 「まさか。こんな庶民しかいない学校から姫榊家に見合う人を見つけるってのはないでしょ」
 「愛人候補とかじゃない? 本当の婚約者とは別に」
 「愛のない婚約に虚しくなって、真実の愛を見つけたくなったってやつだ」
 「えー、解釈違いなんだけど。ミスターノブレスは潔癖でいてほしい」
 「それでもワンチャンあるなら選ばれたい」
 トイレのすぐそばにいる女子たちが好き勝手囁きあうのを聞きながら、お腹を押さえてそーっと奥の個室に入り、カギを閉める。
 ――あの人、本気か
 落ち着いて考えてくれ、と念を送ってみる。曲がり角でパンをくわえてバラの花びらが舞う中ぶつかったと言えば、なんとなく聞こえはいいけれど、その実態は単なる接触事故である。
 しかもぶつかった相手は、坊主頭で大して特徴もない顔をした、身長を数センチごまかして百七十だと言い張っている、あまりにも平均的な男。そんなやつが運命の相手として現れたら、さすがにそれはない、となるのが普通だと思うのだが。
 思い込みが激しい人なのは知っていたけれど、まさかここまでとは思っていなかったし、この調子だと、次の休み時間も押しかけてくるかもしれない。
 そこでもし平々凡々な俺を見つけて「運命の人!」なんて言い出したら、みんなドン引きすること間違いなしだ。もれなく俺もドン引きする。考えるだけで恐ろしい。
 いつまで逃げ切れるか分からないけど、とりあえず今日の休み時間はトイレで過ごそうと決めたところでチャイムが鳴る。
 個室から出た俺は、廊下に先輩がいないことを確認し、急いで教室へと戻った。

 「なんか便秘でさー。出そうで出ないから今日は休み時間のたびに頑張るわ」
 二時間目が終わってすぐに宣言すると、隣の席の中田は「つまり便所に行かなくなったら出たってことだな」と頷いた。
 それに真顔で頷き返して、俺は廊下に顔を出して左右を確認すると、早足でトイレへと向かって再び個室へと閉じこもった。
 三時間目と四時間目の間の休み時間も同じように過ごし、昼休みは、中田を誘って外で食べることにした。冷静に考えて、昼休みの間中、トイレに閉じこもるのはさすがに嫌である。
 「便秘はどうよ」
 「まだ出ないけど、今はちょっとまし」
 「早く出るといいな」
 「うん。願ってて」
 「ごめんけど、俺の貴重な願いをそんなことに使いたくはないから……」
 「薄情かよ」
 まあ実際には便秘とは無縁な腸なので、願われても困るな、と考えていると「見つけた!!」と後ろから言われてびくっとする。
 よく響くその声は姫榊先輩のものだったが、後姿で判別されるほど認知されているとは考えられないし、俺だと勘違いして他の誰かに声をかけている可能性もないこともない、と一縷(いちる)の望みをかけて、足を動かす速度を速める。
 「どうしたどうした」
 中田が後ろから声をかけてくるが、振り向いたら一巻の終わりな気がするので、真っすぐ前を見たまま他の生徒の合間を縫いながらとにかく進む。
 中田も仕方ないと思ったのか、追いかけてきて横に並んだ。
 目をちらっと向けて「ごめん」と言うと「君、歩くの速いんだね」と爽やかな笑顔で返される。
 並走していたのが中田でなく、姫榊先輩であるという事実が目から脳に届いた瞬間「ひっ」と声を上げた俺は急ブレーキをかけた。
 「あ、な」
 「ようやく見つけた。僕の運命の人」
 俺と一緒に立ち止まった姫榊先輩の声は廊下に響き渡り、みんなの視線が一斉に集まる。
 なに?
 運命の人?
 あれが?
 男だけど?
 冗談?
 どういうこと?
 ひそひそと交わされる会話に、顔が熱くなっていく。俺みたいなのが、学内の有名人である姫榊先輩の運命の相手にふさわしくないなんて、自分が一番よく分かっている。
 なんで俺がこんな目に、と誰かを恨みたい気持ちになるが、すべての原因は自分にあるので、自分で自分を恨むしかない。
 「へー、今日の午前に姫榊先輩が探してた運命の人って、青木(あおき)だったんですか」
 のんびりと歩いて追いついてきた中田が姫榊先輩に尋ねる。
 「あぁ、彼の名前、青木って言うんだ。下の名前は?」
 「名前知らないんすか? いや、名前も知らないのにいいと思うから運命の人なのか」
 一人で納得した中田が「冴介(さすけ)です」と答える。なぜ当たり前みたいな顔で人の名前をばらしているのか。
 「字は?」
 「冴えてるの冴に、介助とかの介の字を使って冴介、ですね」
 「そっか。いい名前だね」
 冴介くんね、冴介くん。呟いた姫榊先輩が、視線を足元に落として黙ったままの俺の顔を覗き込んでくる。
 「冴介くん、今朝はごめんね。急に運命とか言われて驚いたよね。でも、これには理由があって――少し、話せないかな」
 「……でも、中田と食べる約束してるんで」
 一応抵抗してみるが「あ、俺は大丈夫! どうぞどうぞ」と秒で中田に裏切られ、ぎりっと奥歯を嚙みしめる。なんでさっきから姫榊先輩サイドについているんだ、お前は。
 でも、ここで断って、またあとからなんだかんだとつきまとわれたら、そのほうが精神的に負担な気がする。自分は運命ではないとはっきり告げて、これ以上話しかけないように伝えたほうがいいかもしれない。
 「じゃあ、お昼の間だけなら」
 小さな声で答えると「ありがとう!」と言った姫榊先輩が俺の手を優しく握ってきて、慌てて振り払う。
 しゅん、とした顔の先輩に少しだけ罪悪感を抱くが、そもそもなんで俺なんかの手を握ろうとするのか本気で意味が分からない。
 「……どこで食べるんですか」
 「あ、じゃあ、音楽室でもいいかな? 先生に鍵借りてきてるから」
 笑顔で鍵を見せてきた先輩の手際の良さに、俺は小さくため息をついた。

 姫榊先輩は、この学校に通っている人間であれば知らない人はいない有名人である。
 顔がよく、スタイルがよく、頭がよく、全国大会に出るほどの剣道の腕前を持っているというスペックの高さに加え、県内に多く出店している「スーパーひさがき」「ドラッグストアひさがき」を経営する会社の社長息子だからというのも大きい。さらに、女子に告白されても「僕は、いずれ決まった人と婚約することになっているので」と断っているため、セレブだ、とみんなに思われている。こうなってくると、嫉妬にかられる人間が一人や二人現れそうなものだが、ド真面目で常に何事にも全力な上、高潔と言っていいほど清く正しく、「ノブレス・オブリージュ」を体現しているような先輩は、庶民だらけの学校ではあからさまに浮世離れしていて、嫉妬の対象ともならないキャラクター的な愛され方をしている。
 ただし、姫榊先輩が金持ちの息子だということは知っていても、先輩の父親が社長を務めるHSGKホールディングスが、世界的に事業を展開している大企業であることを知っている者はほとんどいないだろう。よく見かけるスーパーもドラッグストアも事業のほんの一部にすぎないのだ。
 そんなHSGKホールディングスの社長の長男であり、そしておそらく未来の社長になるであろう姫榊先輩は、当たり前のように小、中学校は都内の私立校に通っていた。
 それがなぜ現在、都内に出るまで電車で一時間以上かかる街にあるこの高校に在籍しているのかと言えば、姫榊家がこの地の出身で、代々の社長が全員この高校の出身だからと聞いている。それだけでなく、親から離れた場所で一人暮らしをすることで、一般庶民の生活や金銭感覚というものを学ばせるという意図もあるようだった。
 ――ま、あれだけのバラの花びらを惜しげもなくばら撒く時点で、庶民の感覚とはまだまだかけ離れてるみたいだけどな
 音楽室の鍵を開けて中に入っていった先輩に大人しくついていきながら、ふと気になって背中に問いかける。
 「朝の花びらは片付けましたか」
 「うん、もちろん片付けたよ。飛んでいってしまったものもあるから、全部とはいかなかったけど」
 「回収したものは、そのまま捨てたんですか」
 「ううん、今日はたまたま母が来ていてね。庭に撒いたらいい香りだろうからといって持って帰った」
 ということは、あの黒塗りの車の中には、母親が乗っていたということか。
 運命の相手として坊主頭の男が出てきたのを見て、反対しなかったのだろうか。跡継ぎの相手として、いろいろな面で想定外だったはずだ。
 ふむ、と考えている俺に「どうぞ」と姫榊先輩が椅子を引いてくれた。
 「あ。すみません」
 恐縮しながら座ると、先輩も長机を挟んだ向かい側に腰かける。
 「時間もないし、食べながら話してもいいかな」
 穏やかに言った先輩が、手に持っていた保冷バッグの中から、無骨な四角い弁当箱を取り出す。蓋を開けると、ごま塩のかかった白米と、美味しそうな炒め物が豪快に入っていた。端には少し歪んだ卵焼きとプチトマトとソーセージ。
 「……自分で作ってるんですか」
 「あ、うん。と言っても、卵焼きとソーセージを焼いたくらいだけどね。スーパーでバイトしてるんだけど、このおかずとかはそこで事前に取り分けておいてもらったもの」
 もちろん、ちゃんと買ってるよ、と付け足した姫榊先輩に曖昧に笑い返して、俺も自分の弁当を出す。
 「冴介くんのお弁当はお母さんが?」
 「はい。でも忙しい人なので、前の夜に作ったおかずを皿に載せて冷蔵庫に入れてるのを、自分で弁当に詰めるんで、ちょっと見た目雑かも」
 「お母さんはお仕事されているの?」
 「そうです。職場が都内にあるので朝早くに出勤しないといけないことも多くて。自宅でリモートで働ける日もあるんですけど」
 「ここから都内まで出勤するのは大変そうだよね」
 ほんとにな、と思うが、黙って頷くにとどめる。
 俺が弁当を開けると、待っていてくれたらしい先輩が「いただきます」と言って箸を自分の弁当に伸ばす。
 「それで、今朝の話なんだけどね」
 炒め物と一緒に白米を口に運んだ先輩が、それを飲み込んで改めて話し出した。
 「ミス・アキュイティーって知ってるかな」
 アキュイティーとは感覚が鋭いとか冴えてるとか、そんな意味だということを、逆にこの人は知っているのだろうか。
 無言で首を傾げた俺に対し、姫榊先輩は熱のこもった目で続けた。
 「何年か前まで、雑誌で『ミス・アキュイティーのキューティーな小部屋』っていう占いコーナーを持っていた大人気占い師でね。今はもうその連載は終わってるんだけど、実は僕専属の占い師になってる」
 すごいだろ、と言いたげな先輩を、俺は、なんとも言えない気持ちで見返す。
 もちろん知っている。先輩よりも俺のほうがずっと。
 だって、俺が、その「ミス・アキュイティー」だから。