心配されていた台風はそれ、清々しい青空がサンジン様の町々を照らした。長年の呪いから解き放たれ、あちこちから祝福の鐘が聞こえるようだ。
裏口から帰宅し、静かに廊下を歩く。自室に飛び込むと、急いで布団に潜った。あと一時間もしないうちに家族が活動を始める。
手を開く。サチの指輪がこちらを向いていた。もう一度握りしめる。
清は深呼吸したかと思うと、今度は慌ててスマートフォンを取り出した。
「よかった……」
スマートフォンの中のサチは消えていなかった。せめてもの救いだ。これまで消えてしまったら、清の記憶の中でしか存在しないことになる。
──いや、もう一人いる。
サンジン様もサチのことを覚えていてくれるだろう。ぶっきらぼうな物言いではあったけれども、サンジン様はサチを尊重し、決して神の意思を押し付けたりはしなかった。サチの言う通り、とても優しい神様なのだと思う。
土壌調査という名目の閉鎖が解除されたら、また、サンジン様の山を訪れるつもりだ。もうサチはいないけれども、サチのいた場所を守りたい。もうサンジン様の姿を見ることはないかもしれないけれども、神木にも何か供えてみよう。
「おはよう」
制服に着替え一階の居間に下りると、母に挨拶されどきりとする。どうやら、昨夜のことは気付かれずに済んだらしい。たった一度の反抗を、清は一生忘れることはないだろう。
「見て、台風南にそれたって」
「みたいだね、さっきスマホで確認した」
「よかったねぇ」
「うん」
当たり障りのない会話と朝食、平穏な日常が戻ってきた。大切な非日常を大事に抱え、今日も清は生きていく。
夜の出来事を家族は知る由もない。話したところで信じてもらえないだろう。
登校途中、山の方角を眺めていたら、ひょこりとうさぎが顔を出した。
「あ!」
追いかけてみたが、うさぎの足は人間よりずっと速く、すぐに見失ってしまった。
バスに乗車したうさぎと同じ色をしていた。違ううさぎかもしれないが、今日もあの山でうさぎが元気に暮らしているのだと思うと、サチがいた証明になる気がして嬉しくなった。
もう涙は出てこない。
苦しくなる日、哀しくなる日がまた来るだろう。
しかし、清は前を向いて歩いていく。
週末、清は一人電車に乗っていた。バスに続き、引っ越してから初めての電車である。
最初の関門は無人駅だった。
駅までのバスは初めてではなかったのですんなり乗れたが、駅で切符を買ってから立ち止まってしまった。
自動改札機が無く、当然無人なので駅舎に誰かがいることもない。木で出来た改札口まで歩いてみると、運賃箱が置いてあり、中には切符や整理券が入っていた。なるほど、降りる時はこうして入れるのか。清が一人頷く。
父によるとそのまま入ればいいとのことだったので、緊張した面持ちで改札を通った。誰が見ているわけでもないのに、買った切符を指先で揺らしながら。
ホームにも誰もいなかった。乗客の一人すらいない。この世界に自分だけしかいないのか。
そんなわけもなく、十五分程ぼーっと古びたベンチに座っていたら、二両しかない電車が到着した。
ドアの横にある開閉ボタンを押して乗車する。中には数人いたが、誰も降りなかった。ドア近くの席に座る。同じ車両には、祖母と同年代の夫婦と学生が一人座っていた。
──これがワンマン電車ってやつかな。
電車に詳しいわけでもなく、一人で電車に乗ったこと自体数える程しかない清にとって、初めて尽くしの電車で思わずきょろきょろしてしまった。
すぐに手持無沙汰となり、ポケットのスマートフォンに手を伸ばしたが、他の乗客の誰もスマートフォンを弄っていないことに気が付いた。夫婦は時折会話に興じ、学生は本を読んでいた。
慌てて手を引っ込め、向かいの窓を眺める。サンジン様は遠くてあまり見えない。土壌調査による入山規制は昨日解除された。きっと、例の祈祷師が許可を出したのだろう。
二十分近く走ると、僅かに開いている窓の隙間から潮の香りが漂ってきた。高台から小さく見えた海が、清の眼前いっぱいに広がった。
事前に調べてきた駅で降りる。ここも無人駅だった。改札の箱にそっと切符を入れて出る。これで合っているはずだが、どこか不安になる。どうせなら駅員が合っているのかどうか監視していてほしいが、この利用者数を考えると難しいことが分かる。
すでに秋も深まり、わざわざ海を見に来ようという酔狂はいないらしい。そんな清も、きっちり長袖を着込み、海とはかけ離れた格好をしている。
もちろん、今日は海に入りに来たわけではない。清は砂浜の手前、道路の端に立ち、大きな海を見つめた。
左のポケットを探り、指輪を取り出す。空に翳せば、サチの瞳のように光り輝いた。
指輪を手に、清が思い切り息を吸い込んだ。
「サチーッ!」
誰もいない砂浜で一人叫ぶ。
「見える? 海だよ!」
指輪は冷たいままだ。それでも構わない。
「これが海。他にも沢山見せたい所があるんだ。きっと楽しいよ」
サチの笑顔が思い出される。
清よりずっと昔に生まれ、十二歳より百年も山の中で暮らしてきた。これからは、清がサチの瞳になって、いろいろな場所を訪れよう。
階段を下り、砂浜にそっと足を乗せる。その場でしゃがみ、持ってきた小瓶に砂を詰めた。
小瓶を顔の前に持ってきて観察してみるが、何のことはない、ただの砂だった。
その後もしばらく海を眺め、晴れ晴れとした顔で立ち上がる。ポケットに指輪を仕舞い、駅へと歩き出す。この電車を逃すと今度は四十分眺めることになる。
無人駅にもどうにか慣れ、やはり人の少ない電車に乗り込む。今度は清を入れても二人だけだった。これで経営は成り立っているのだろうか。この電車が無くならないことを祈る。
最寄り駅で降り、バスに揺られる。見慣れた場所に辿り着いた。そのまま帰宅することなく、山へ向かった。
「ほんとにテープ無くなってる」
昨日回覧板で回ってきた通り、自由に入山できるようになっていた。果たして調査は行われたのか、一週間近くここを見にきていなかったので詳細は分からない。
規制解除されたからといって普段から人気が無いので誰かと出会うこともなく、清はあっさり祠まで着いた。
砂が入った小瓶をそこに置き、手を合わせた。小瓶の隣には小さなクマが愛らしく座っている。清はすぐに祠を離れ、次の場所に向かった。
うさぎの寝床を過ぎると神木が見えてきた。いつ見ても貫禄がある。
サンジン様はいない。眠っているのか、清が視えなくなったのか。
清は神木に頭を深く下げた。
「サチを百年間見守ってくれて有難う御座いました。サチを自由にしてくれて有難う御座いました。おかげで、サチは山を出られて、海も見られました」
途中、息が上手く吸えなくなる。呼吸を整え、宣言する。
「サチはいなくなってしまったけれど、僕は前を向いて生きていきます。サチを忘れずに生きていきます。サンジン様、本当に有難う御座いました」
顔を上げ、神木を後にする。誰もいなくなった神木の横に一つ、小さな芽がひょこりと顔を出した。
「コンクールの題材、決まったが?」
「はい」
山野の問いに、清が顔を上げて答える。
秋が終わり冬が終わり、春が来て、清は中学二年生になった。変わらず美術部に在籍していて、真面目に毎日部活動に励んでいる。
自主的なデッサンの勉強はまだ続いている。入部した頃に比べれば大分満足のいく線を引けるようになってきた。
自主勉強の場所はたいていサンジン様の山で、石に座って絵を描いていると、清に慣れたうさぎが横に座ってくれるまでになった。
「山と、少女の絵ね。淡い色合いで、爽やかな雰囲気。とてもえいと思う」
「有難う御座います」
まだ描きかけのそこには、山で愛らしく笑うサチがいた。足元にはうさぎの親子も駆け回っている。
サチはもういないけれども、彼女は確かにあの山にいた。清の心には今だっている。彼女はいる。だから、彼女の笑顔を残したかった。
もしもこの少女が誰かと問われたら、家族と答えよう。あの日彼女にあげた指輪は戻ってきてしまったけれど、清の部屋の引き出しに大切に仕舞われている。
いつかまた、サチと会う日が来たら、もう一度プロポーズするのだ。今度は本物のダイヤモンドが付いたものにしたい。もしかしたら、彼女はおもちゃの方が良いと言うかもしれない。そうしたら、両方渡して言おう。
「何年だって、何十年だって、生まれ変わっても待つよ。君がずっとあの山にいたように」
絵の中のサチが、陽の光を浴びて優しく微笑んでいた。
了
裏口から帰宅し、静かに廊下を歩く。自室に飛び込むと、急いで布団に潜った。あと一時間もしないうちに家族が活動を始める。
手を開く。サチの指輪がこちらを向いていた。もう一度握りしめる。
清は深呼吸したかと思うと、今度は慌ててスマートフォンを取り出した。
「よかった……」
スマートフォンの中のサチは消えていなかった。せめてもの救いだ。これまで消えてしまったら、清の記憶の中でしか存在しないことになる。
──いや、もう一人いる。
サンジン様もサチのことを覚えていてくれるだろう。ぶっきらぼうな物言いではあったけれども、サンジン様はサチを尊重し、決して神の意思を押し付けたりはしなかった。サチの言う通り、とても優しい神様なのだと思う。
土壌調査という名目の閉鎖が解除されたら、また、サンジン様の山を訪れるつもりだ。もうサチはいないけれども、サチのいた場所を守りたい。もうサンジン様の姿を見ることはないかもしれないけれども、神木にも何か供えてみよう。
「おはよう」
制服に着替え一階の居間に下りると、母に挨拶されどきりとする。どうやら、昨夜のことは気付かれずに済んだらしい。たった一度の反抗を、清は一生忘れることはないだろう。
「見て、台風南にそれたって」
「みたいだね、さっきスマホで確認した」
「よかったねぇ」
「うん」
当たり障りのない会話と朝食、平穏な日常が戻ってきた。大切な非日常を大事に抱え、今日も清は生きていく。
夜の出来事を家族は知る由もない。話したところで信じてもらえないだろう。
登校途中、山の方角を眺めていたら、ひょこりとうさぎが顔を出した。
「あ!」
追いかけてみたが、うさぎの足は人間よりずっと速く、すぐに見失ってしまった。
バスに乗車したうさぎと同じ色をしていた。違ううさぎかもしれないが、今日もあの山でうさぎが元気に暮らしているのだと思うと、サチがいた証明になる気がして嬉しくなった。
もう涙は出てこない。
苦しくなる日、哀しくなる日がまた来るだろう。
しかし、清は前を向いて歩いていく。
週末、清は一人電車に乗っていた。バスに続き、引っ越してから初めての電車である。
最初の関門は無人駅だった。
駅までのバスは初めてではなかったのですんなり乗れたが、駅で切符を買ってから立ち止まってしまった。
自動改札機が無く、当然無人なので駅舎に誰かがいることもない。木で出来た改札口まで歩いてみると、運賃箱が置いてあり、中には切符や整理券が入っていた。なるほど、降りる時はこうして入れるのか。清が一人頷く。
父によるとそのまま入ればいいとのことだったので、緊張した面持ちで改札を通った。誰が見ているわけでもないのに、買った切符を指先で揺らしながら。
ホームにも誰もいなかった。乗客の一人すらいない。この世界に自分だけしかいないのか。
そんなわけもなく、十五分程ぼーっと古びたベンチに座っていたら、二両しかない電車が到着した。
ドアの横にある開閉ボタンを押して乗車する。中には数人いたが、誰も降りなかった。ドア近くの席に座る。同じ車両には、祖母と同年代の夫婦と学生が一人座っていた。
──これがワンマン電車ってやつかな。
電車に詳しいわけでもなく、一人で電車に乗ったこと自体数える程しかない清にとって、初めて尽くしの電車で思わずきょろきょろしてしまった。
すぐに手持無沙汰となり、ポケットのスマートフォンに手を伸ばしたが、他の乗客の誰もスマートフォンを弄っていないことに気が付いた。夫婦は時折会話に興じ、学生は本を読んでいた。
慌てて手を引っ込め、向かいの窓を眺める。サンジン様は遠くてあまり見えない。土壌調査による入山規制は昨日解除された。きっと、例の祈祷師が許可を出したのだろう。
二十分近く走ると、僅かに開いている窓の隙間から潮の香りが漂ってきた。高台から小さく見えた海が、清の眼前いっぱいに広がった。
事前に調べてきた駅で降りる。ここも無人駅だった。改札の箱にそっと切符を入れて出る。これで合っているはずだが、どこか不安になる。どうせなら駅員が合っているのかどうか監視していてほしいが、この利用者数を考えると難しいことが分かる。
すでに秋も深まり、わざわざ海を見に来ようという酔狂はいないらしい。そんな清も、きっちり長袖を着込み、海とはかけ離れた格好をしている。
もちろん、今日は海に入りに来たわけではない。清は砂浜の手前、道路の端に立ち、大きな海を見つめた。
左のポケットを探り、指輪を取り出す。空に翳せば、サチの瞳のように光り輝いた。
指輪を手に、清が思い切り息を吸い込んだ。
「サチーッ!」
誰もいない砂浜で一人叫ぶ。
「見える? 海だよ!」
指輪は冷たいままだ。それでも構わない。
「これが海。他にも沢山見せたい所があるんだ。きっと楽しいよ」
サチの笑顔が思い出される。
清よりずっと昔に生まれ、十二歳より百年も山の中で暮らしてきた。これからは、清がサチの瞳になって、いろいろな場所を訪れよう。
階段を下り、砂浜にそっと足を乗せる。その場でしゃがみ、持ってきた小瓶に砂を詰めた。
小瓶を顔の前に持ってきて観察してみるが、何のことはない、ただの砂だった。
その後もしばらく海を眺め、晴れ晴れとした顔で立ち上がる。ポケットに指輪を仕舞い、駅へと歩き出す。この電車を逃すと今度は四十分眺めることになる。
無人駅にもどうにか慣れ、やはり人の少ない電車に乗り込む。今度は清を入れても二人だけだった。これで経営は成り立っているのだろうか。この電車が無くならないことを祈る。
最寄り駅で降り、バスに揺られる。見慣れた場所に辿り着いた。そのまま帰宅することなく、山へ向かった。
「ほんとにテープ無くなってる」
昨日回覧板で回ってきた通り、自由に入山できるようになっていた。果たして調査は行われたのか、一週間近くここを見にきていなかったので詳細は分からない。
規制解除されたからといって普段から人気が無いので誰かと出会うこともなく、清はあっさり祠まで着いた。
砂が入った小瓶をそこに置き、手を合わせた。小瓶の隣には小さなクマが愛らしく座っている。清はすぐに祠を離れ、次の場所に向かった。
うさぎの寝床を過ぎると神木が見えてきた。いつ見ても貫禄がある。
サンジン様はいない。眠っているのか、清が視えなくなったのか。
清は神木に頭を深く下げた。
「サチを百年間見守ってくれて有難う御座いました。サチを自由にしてくれて有難う御座いました。おかげで、サチは山を出られて、海も見られました」
途中、息が上手く吸えなくなる。呼吸を整え、宣言する。
「サチはいなくなってしまったけれど、僕は前を向いて生きていきます。サチを忘れずに生きていきます。サンジン様、本当に有難う御座いました」
顔を上げ、神木を後にする。誰もいなくなった神木の横に一つ、小さな芽がひょこりと顔を出した。
「コンクールの題材、決まったが?」
「はい」
山野の問いに、清が顔を上げて答える。
秋が終わり冬が終わり、春が来て、清は中学二年生になった。変わらず美術部に在籍していて、真面目に毎日部活動に励んでいる。
自主的なデッサンの勉強はまだ続いている。入部した頃に比べれば大分満足のいく線を引けるようになってきた。
自主勉強の場所はたいていサンジン様の山で、石に座って絵を描いていると、清に慣れたうさぎが横に座ってくれるまでになった。
「山と、少女の絵ね。淡い色合いで、爽やかな雰囲気。とてもえいと思う」
「有難う御座います」
まだ描きかけのそこには、山で愛らしく笑うサチがいた。足元にはうさぎの親子も駆け回っている。
サチはもういないけれども、彼女は確かにあの山にいた。清の心には今だっている。彼女はいる。だから、彼女の笑顔を残したかった。
もしもこの少女が誰かと問われたら、家族と答えよう。あの日彼女にあげた指輪は戻ってきてしまったけれど、清の部屋の引き出しに大切に仕舞われている。
いつかまた、サチと会う日が来たら、もう一度プロポーズするのだ。今度は本物のダイヤモンドが付いたものにしたい。もしかしたら、彼女はおもちゃの方が良いと言うかもしれない。そうしたら、両方渡して言おう。
「何年だって、何十年だって、生まれ変わっても待つよ。君がずっとあの山にいたように」
絵の中のサチが、陽の光を浴びて優しく微笑んでいた。
了



