やや俯きがちに答えた彼女が、知らない生き物に見えた。
忠告された科白が清の頭をぐちゃぐちゃにさせる。
「サチは昔! 僕は今だ!」
サンジン様は、昔と今は交わらないと言った。あれは警告だ。契約を持って守られていた糸はすでに切れている。
「うん。だって、私」
サチが今度はゆっくり清の手に触る。清はびくりと震えたが、今度は払わなかった。
「私は貴方の手の温かさを知っている。触れたくなる。きっと。毎日、毎日……今すぐにでも!」
彼女の叫びには百年の重みがあった。清が生きてきた十二年など、サチにとってはあっという間の出来事だろう。いや、長い長い日々だったかもしれない。
「僕だって」
小さな呟きにサチが首を振る。
「清君は優しいから、私に触らないよう、細心の注意を払って生きていってくれるでしょう。一番近くにいて、一番遠い毎日を」
清は反論できなかった。その通りだ。触れた瞬間泡となるのなら、一瞬たりとも気を抜かず、サチを大切にするつもりだった。
「いつかが来ても、それは変わらない。私は望んでしまう。私に触れてって」
二人の間を風が吹く。山がざわざわと音を立てた。木々が揺れる。サチが俯きがちに零した。
「もしかしたら、清君は疲れてしまうかもしれない。私以外の、貴方が触ることのできる誰かを見つけてしまうかもしれない」
「そんなことない!」
「でも、保証はできないでしょう!」
サチがこんなにも声を荒げたことはなかった。痛みがこちらまで伝わってくる。そうだ。清がいくら訴えたところで、未来の保証とはならない。彼女の安寧にはならないのだ。
「それなら、私は一番幸せな今を抱きしめて、いきたい」
サチが指輪を右手の人差し指に嵌める。それを光に当てた。指輪から漏れ出た光の筋が、きらきら、サチを輝かせた。
「綺麗……」
清がサチの右手に触れ、そっと指輪を外し、左手の薬指に嵌め直した。触れた指先は熱いくらいだ。
「結婚の約束は左手の薬指にするんだ」
「そうなの。物知りだね」
「サチだって、これから沢山のことを知るよ」
二人で知っていくはずだった。清が眉を顰めて震える。サチがその背中を撫でた。
「大好きよ。大好き」
「嫌だ」
「ありがとう。あの時私の手を取ってくれて」
「サチがいなくなったら、僕は!」
泣き出しそうな清の瞳を、サチの右手が優しく拭う。
目を強く閉じて、拳を震わせながら声を絞り出す。
「海……見たいって」
「ごめんね」
清が首を振る。謝らせたかったわけではない。
二人で海を見たかったのだ。
また祭りに行きたかったのだ。
沢山の場所を見せたかった、二人で過ぎゆく時を感じたかったのだ。
海までは電車で数駅行かなければならない。それでは間に合わない。電車もバスもまだ走っていない。
「……行こう」
「清君?」
海には触れずとも、海が見える場所なら連れていくことができる。
あとどれだけの時間が残されているのか分からない。でも、できる限りのことはしたい。
「サチ、走れる? この先、少し距離があるけど、高台まで行けば海が見えるんだ」
サチの頬に赤みが差す。
「走れる!」
二人は山を駆け下りた。走れると豪語したサチは当たり前に速かった。数か月でもサッカー部だったはずの清より速かった。
あっという間に山を出て、今度は清が主導権を握る。サチの温かな手を取り、走り出した。
温かい。
透けてもいない。
まだ大丈夫だ。
自然と視界が揺れたが、頭を振って誤魔化す。
横に見えるサチが眩しくて、それでも目に焼き付けたくて、清はすぐ傍にある二つの宝石を見続けた。それが高台に近付くにつれ、さらに輝いていく。
失いたくない。清は走り続けた。
「もうちょっと。あそこまで上れば見えるよ」
「ほんと!」
弾む声に乗せられ、さらに速度を上げた。もう限界だ。息が切れる。しかし、限りある時間が惜しい。
ついに、海が見える高台まで辿り着いた。繋いだ手に汗が滲む。
微かに顔を出す朝日によって、薄暗い中、海が徐々に形を帯びていく。
「わぁ……海だ……!」
サチが歓喜の声を上げる。
自分が住んでいた頃は低い土地ばかりで海は見えなかった。見えたとしても、親の手伝いで忙しい毎日では行くこともできなかっただろう。
清はサチが思いつかなかった望みをも叶えてくれる。
結婚の約束など、夢のまた夢で、願うことすら許されないと思っていた。
「間に合ったね」
清が笑う。
サチも笑う。
「綺麗」
「うん。今まで見てきた中で一番綺麗だ」
このまま時が止まってしまえばいい。清は思った。隣から、小さく漏れた声が耳に届いた。繋がれた手の感覚があやふやになっていく。清がサチの体を見つめた。
ほんの少し、サチから色が無くなってきている。
ぽわん。ぽわん。
光の粒が一つ、また一つと、サチの体から生まれては空へ飛んでいく。
清がそれを掴もうとするが、するりと抜けて消えてしまった。
「お別れだね」
その言葉に、清が俯いてからサチを見た。
「君はずっと僕の一番だ」
左手の指輪に触れる。三百円だって、おもちゃだって、清は誓ったのだ。
「……嬉しい。私にはもったいない言葉」
「もったいなくない。サチはとても素敵な人だよ。僕がそう思っているんだから間違いない」
「そっか、清君が言うならそうだね。私、清君にとって素敵でいられたんだ」
光がまた空へ吸い込まれる。二人でそれを目で追うが、まだ薄暗い空が光を隠してしまう。
「そろそろだね。今までありがとう」
「──サチッ!」
清がサチを抱きしめた。
こんなにも近く、サチに触れたのは初めてだ。
初めてで最後になるとは思ってもみなかった。
「忘れないよ、清君」
サチが清の肩に顔を埋める。肩が何かで濡れるのを感じた。
「忘れない。大好きだよ、サチ」
「うん、大好き」
光の粒が、サチから抜け出ていく。
どんどん、サチが薄くなっていく。
サチの存在が、今消えようとしている。
「清君、最後だから、私に笑顔をちょうだい」
二人が視線を合わせる。これで本当に最後だ。サチの笑顔につられ、清も目一杯の笑顔で返した。
「ふふ、嬉しい」
とうとう、サチの声が聞こえなくなった。清が浮き上がる光を掴もうとするが、それらは清の手をすり抜け、天へと昇っていく。
左手の薬指にはめられたおもちゃの指輪が、ぽとりと地面に転がる。そこに、ぽたり、ぽたりと、二粒の涙が落ちた。
「サチ……」
清の呟きは誰の耳にも届かなかった。
朝日が昇る。風は凪ぎ、和やかな音が清を包む。止まっていた時間がゆっくりと動き出した。
清はサンジン様の山に振り返り、手を合わせた。
「いってらっしゃい。僕も、行くよ」
忠告された科白が清の頭をぐちゃぐちゃにさせる。
「サチは昔! 僕は今だ!」
サンジン様は、昔と今は交わらないと言った。あれは警告だ。契約を持って守られていた糸はすでに切れている。
「うん。だって、私」
サチが今度はゆっくり清の手に触る。清はびくりと震えたが、今度は払わなかった。
「私は貴方の手の温かさを知っている。触れたくなる。きっと。毎日、毎日……今すぐにでも!」
彼女の叫びには百年の重みがあった。清が生きてきた十二年など、サチにとってはあっという間の出来事だろう。いや、長い長い日々だったかもしれない。
「僕だって」
小さな呟きにサチが首を振る。
「清君は優しいから、私に触らないよう、細心の注意を払って生きていってくれるでしょう。一番近くにいて、一番遠い毎日を」
清は反論できなかった。その通りだ。触れた瞬間泡となるのなら、一瞬たりとも気を抜かず、サチを大切にするつもりだった。
「いつかが来ても、それは変わらない。私は望んでしまう。私に触れてって」
二人の間を風が吹く。山がざわざわと音を立てた。木々が揺れる。サチが俯きがちに零した。
「もしかしたら、清君は疲れてしまうかもしれない。私以外の、貴方が触ることのできる誰かを見つけてしまうかもしれない」
「そんなことない!」
「でも、保証はできないでしょう!」
サチがこんなにも声を荒げたことはなかった。痛みがこちらまで伝わってくる。そうだ。清がいくら訴えたところで、未来の保証とはならない。彼女の安寧にはならないのだ。
「それなら、私は一番幸せな今を抱きしめて、いきたい」
サチが指輪を右手の人差し指に嵌める。それを光に当てた。指輪から漏れ出た光の筋が、きらきら、サチを輝かせた。
「綺麗……」
清がサチの右手に触れ、そっと指輪を外し、左手の薬指に嵌め直した。触れた指先は熱いくらいだ。
「結婚の約束は左手の薬指にするんだ」
「そうなの。物知りだね」
「サチだって、これから沢山のことを知るよ」
二人で知っていくはずだった。清が眉を顰めて震える。サチがその背中を撫でた。
「大好きよ。大好き」
「嫌だ」
「ありがとう。あの時私の手を取ってくれて」
「サチがいなくなったら、僕は!」
泣き出しそうな清の瞳を、サチの右手が優しく拭う。
目を強く閉じて、拳を震わせながら声を絞り出す。
「海……見たいって」
「ごめんね」
清が首を振る。謝らせたかったわけではない。
二人で海を見たかったのだ。
また祭りに行きたかったのだ。
沢山の場所を見せたかった、二人で過ぎゆく時を感じたかったのだ。
海までは電車で数駅行かなければならない。それでは間に合わない。電車もバスもまだ走っていない。
「……行こう」
「清君?」
海には触れずとも、海が見える場所なら連れていくことができる。
あとどれだけの時間が残されているのか分からない。でも、できる限りのことはしたい。
「サチ、走れる? この先、少し距離があるけど、高台まで行けば海が見えるんだ」
サチの頬に赤みが差す。
「走れる!」
二人は山を駆け下りた。走れると豪語したサチは当たり前に速かった。数か月でもサッカー部だったはずの清より速かった。
あっという間に山を出て、今度は清が主導権を握る。サチの温かな手を取り、走り出した。
温かい。
透けてもいない。
まだ大丈夫だ。
自然と視界が揺れたが、頭を振って誤魔化す。
横に見えるサチが眩しくて、それでも目に焼き付けたくて、清はすぐ傍にある二つの宝石を見続けた。それが高台に近付くにつれ、さらに輝いていく。
失いたくない。清は走り続けた。
「もうちょっと。あそこまで上れば見えるよ」
「ほんと!」
弾む声に乗せられ、さらに速度を上げた。もう限界だ。息が切れる。しかし、限りある時間が惜しい。
ついに、海が見える高台まで辿り着いた。繋いだ手に汗が滲む。
微かに顔を出す朝日によって、薄暗い中、海が徐々に形を帯びていく。
「わぁ……海だ……!」
サチが歓喜の声を上げる。
自分が住んでいた頃は低い土地ばかりで海は見えなかった。見えたとしても、親の手伝いで忙しい毎日では行くこともできなかっただろう。
清はサチが思いつかなかった望みをも叶えてくれる。
結婚の約束など、夢のまた夢で、願うことすら許されないと思っていた。
「間に合ったね」
清が笑う。
サチも笑う。
「綺麗」
「うん。今まで見てきた中で一番綺麗だ」
このまま時が止まってしまえばいい。清は思った。隣から、小さく漏れた声が耳に届いた。繋がれた手の感覚があやふやになっていく。清がサチの体を見つめた。
ほんの少し、サチから色が無くなってきている。
ぽわん。ぽわん。
光の粒が一つ、また一つと、サチの体から生まれては空へ飛んでいく。
清がそれを掴もうとするが、するりと抜けて消えてしまった。
「お別れだね」
その言葉に、清が俯いてからサチを見た。
「君はずっと僕の一番だ」
左手の指輪に触れる。三百円だって、おもちゃだって、清は誓ったのだ。
「……嬉しい。私にはもったいない言葉」
「もったいなくない。サチはとても素敵な人だよ。僕がそう思っているんだから間違いない」
「そっか、清君が言うならそうだね。私、清君にとって素敵でいられたんだ」
光がまた空へ吸い込まれる。二人でそれを目で追うが、まだ薄暗い空が光を隠してしまう。
「そろそろだね。今までありがとう」
「──サチッ!」
清がサチを抱きしめた。
こんなにも近く、サチに触れたのは初めてだ。
初めてで最後になるとは思ってもみなかった。
「忘れないよ、清君」
サチが清の肩に顔を埋める。肩が何かで濡れるのを感じた。
「忘れない。大好きだよ、サチ」
「うん、大好き」
光の粒が、サチから抜け出ていく。
どんどん、サチが薄くなっていく。
サチの存在が、今消えようとしている。
「清君、最後だから、私に笑顔をちょうだい」
二人が視線を合わせる。これで本当に最後だ。サチの笑顔につられ、清も目一杯の笑顔で返した。
「ふふ、嬉しい」
とうとう、サチの声が聞こえなくなった。清が浮き上がる光を掴もうとするが、それらは清の手をすり抜け、天へと昇っていく。
左手の薬指にはめられたおもちゃの指輪が、ぽとりと地面に転がる。そこに、ぽたり、ぽたりと、二粒の涙が落ちた。
「サチ……」
清の呟きは誰の耳にも届かなかった。
朝日が昇る。風は凪ぎ、和やかな音が清を包む。止まっていた時間がゆっくりと動き出した。
清はサンジン様の山に振り返り、手を合わせた。
「いってらっしゃい。僕も、行くよ」



