サチとサンジン様

「サチ。ヒトの子を招き入れたな」
「申し訳ありません。山からは出ておりませんので、お許しください」

 神妙に頭を下げるサチの横で清も倣う。

「僕が勝手に入ったんです。悪いのは僕だけです」

 サンジン様が二人に手をひらひら振る。

「よいよい。どちらが悪いなど、我は求めておらん」

 昨日あれだけ拒否を示したというのに、清に関してはあまり興味が無さそうだ。

「早うそれを外へ捨ておけ」

 やはりという物言いに負けそうになるが、ここで引いてはサチの自由は手に入らない。

「サンジン様、お願いがあります」清とサチが手を繋ぎ合い、サンジン様へ訴える。

「なんだ?」表情の少ないサンジン様の眉が僅かに動く。

 繋がれた手が震える。清が代表した。

「サチに自由を与えてはくれませんか。サチは百年、捧げ人として生きてきました。だから、これからは──」
「ならん。と言ったらどうする?」
「諦めません」

 清の声には一片の曇りも無い。サチが清の精悍な横顔を見遣る。

 サンジン様が呆れた息を吐いた。

「サチ、そなたはどうなのだ」
「私は、この人と一緒に外に出たいです」
「ほぉ……なるほど」

 サチの言葉に、サンジン様がゆっくりこちらに歩いてきた。清がごくりと喉を鳴らす。

「百年共にいた我を捨ててか?」
「そういうつもりではありません!」
「はっはっは。冗談だ」

 口を開けて笑う姿に、二人が呆気にとられる。

 ふいにサンジン様の笑い声が止み、姿がぼんやりとしたかと思うと、白銀の狼に変化していた。

 狼がずい、と清の眼前に顔を近づける。

『そなたにサチの最期を見届ける覚悟はあるのか』

 最期という言葉にどきりとする。清はまだ十二で、命の終わりを見届けたことはたった一度しかない。心の裏側を見られているようで居心地を悪くさせながら、清は頷いた。

「あります」
「ふん。……サチ」
「はいっ」

 呼ばれたサチが肩を揺らす。やはりとんでもない我儘だったのだ。今から謝って、清だけでも安全なところへ帰してもらおうか。どんどん悪くなる顔色を、人型に戻ったサンジン様が一撫でした。

「そこまで思い詰めていたのか。我の所為だな」
「そんなことありません! 全て私が、私が悪くて!」
「だから先ほどからよいと言っているだろう。そのようなことに興味は無い」

 手を振って二人から距離を取る。サンジン様は神木の中にいることが多いが、あまり人間との付き合いを好まないのかもしれない。

「さて、山から出たいということだが」

 二人が背筋を伸ばし、顔を固くさせた。ついに、二人の望みの可否が告げられる。サンジン様が虚空を見つめて口を開いた。

「我と離れて過ごせば、契約違反となる。契約があったから、百年もの間、その姿を保っていられたのだ。物にも触れ、食することもできた。しかし、違反した魂はやがて千切れ、輪廻の輪から外れてしまう」

「そんな……!」

 サチが両手で口を覆う。

 山から出ると消えてしまうという伝承、そして自分の体が薄くなった現実で、不具合があることは分かっていた。しかし、ここまでの絶望が待っていたとは。あのまま知らず、サンジン様から逃げていたら今頃どうなっていたことか。

「契約を破棄することはできるのですか?」

 サチの代わりに清が問う。祈りに似た声だ。

「できる」

 断言したサンジン様に、二人から歓喜の息が漏れた。

「サチ、できるって」
「うん……ッ」

 サンジン様が懐から扇子を取り出し、二人のやり取りを見つめる。

「そなたが選びなさい。今すぐ戻るか、契約破棄をして自由の身となるか」

 清とサチが顔を見合わせて頷く。契約を破棄できるのなら、そちらの方がいいに決まっている。

「ただし、契約に守られぬ身となれば、不明瞭な、この世にいてはならぬ存在となる。何かに触れることすらできぬ。触れたらすぐ輪廻の輪に入るぞ。それだけ心に留めておきなさい」

「…………」

 つまり、契約破棄を行えば、これまでとはまた別の生活が待っているということになる。やはり、都合の良い展開は両手を広げてくれないらしい。

 迷う気持ちはある。

 山の中に閉じこもってさえいれば、存在はサンジン様によって保障される。山でなら、清とも会うことができる。

 しかし、もうだめなのだ。

 サンジン様の加護が無くなろうとも。

 不明瞭なナニカになろうとも。

 サチが俯き、首を振る。

 清がサチの肩に手を置き、上を向かせた。

「サチ。僕は君がどんな決断をしたって傍にいる。自由になりたいという気持ちが消えていないなら、そうしよう」

 ずっと百年間、外を見続けてきた。今は一人ではない。サチの心が決まった。

「サンジン様、契約破棄をお願いいたします」

 閉じた扇子をサチに向け、今一度忠告する。

「我との契約は一度きり。戻らねば、すぐにでも繋がりは切れるぞ」
「承知の上です」

 迷いは去った。

 サチの真っすぐな瞳がサンジン様を貫く。

「そなたが望むならそれもよい。契約は破棄とする──」

 サンジン様が右手のひらをサチに向ける。サチの体が一瞬光ったかと思えば、それは幻のように消え去った。

「これにて、我との繋がりは絶たれた。そなたは自由だ」
「ほ、本当ですか」

 自信の手のひらを見るが、なんら変わりはなく実感が湧かない。

 あっさり破棄できてしまった。
 百年分の歴史がすとんと足元に落ちる。

「清君」
「サチ……やった……」

 二人で手を挙げて喜ぶ。割って入るように、サンジン様が扇子を二人の間で開いた。

「昔と今は交わらない。交わったその時は……分かるな」
「はい」

 サチが何度も頷いて見せる。サンジン様がそれを見て、飽きれた様子で息を吐いた。

「我は眠る。久方ぶりに歩き回って疲れた」

 そう言って歩き始めたサンジン様の姿がすう、と消えた。神木の中に入ったのだろう。

 いまいち実感は湧かないが、これでサチはただの小川サチとなった。

「解放、されたのかな」
「多分」

 サチを見遣る。先ほどと何も変わりない。しかし、自由になったのだ。

「どうしよっか」
「あ、あの」

 清が慌ててポケットを探る。

 ころん。

 清の手のひらにいつの日か買った三百円の指輪が転がる。
 緊張した面持ちで、真っすぐサチを見つめて、清は言った。

「サチ、いつか、僕たちが大人になったら、結婚してください」

 山が静かに見守る。風が優しく二人に触れた。サチの頬が赤みを差す。

「はい、喜んで!」

 サチが清の震える手を両手で包み込み、おもちゃの指輪を受け取った。

 途端、清がサチから大きく一歩距離を取る。

 サチは晴れやかな笑顔のまま。
 清は眉を下げて叫んだ。

「僕に触ったな!」

「──うん」