◇
祭りが終わりしばらくして、サチはうさぎの見回りを終え、神木の周りを手作りの箒で掃除していた。
「一昨日は知らない人がお散歩してたな。もっと人が増えたら、ここも活気が出てサンジン様も喜ぶかも」
ここ最近掃除をしていなかったが、落葉にはまだ早いので、綺麗にする程汚れてもいなかった。
住処を綺麗に保てと言われたことはない。ただの罪滅ぼしだ。
祠に祈祷師が連れてこられたのは驚いたが、拝んでくれるだけならいつ来てくれても構わない。
そうしていると、後ろが急に寒くなった。それは一瞬だったが、サチには分かる。振り向き、神木へ恭しくお辞儀をした。
「サンジン様」
サチが神木の中から出てきた和服の大男に呟く。サンジン様がくるりと目をこちらに向け、口を開いた。
「探したぞ、サチ」
「はい……」
サチはサンジン様を不安気に見上げた。
サンジン様は初めて出会った時のように、サチを面倒そうに見つめ返した。
やはり怒っているのだろう。サチが思わず目を瞑る。
じり、足音がした。
サチの体が強張る。審判の声が降ってきた。
「そう怯えるな。我は怒ってなどいない」
それにサチが少しだけ目を開ける。サンジン様が顔を伸ばし、すぐ目の前でサチを覗いていた。
「わっ」
一歩後ずさると、サンジン様がさらに顔を近づけた。
「我が何を怒ると思うのだ。相変わらず人間はよく分からない」
表情を崩したことがないサンジン様の心うちは、百年一緒にいるサチにもまだ分からない。
言われずとももっと理解できていれば、サンジン様を煩わせることはないというのに。サチが目を伏せる。
「申し訳ありません。私が山を出てしまったので、それで怒っているのかと思っていました」
サチが告げると、サンジン様が右手の人差し指でサチの額を何度か突いた。
「それだそれだ。我は怒ってなどいない。ただ、そなたがおかしな真似をするから、無駄な運動をする羽目になった」
怒っていないという割には、眉間に僅かに皺が寄っている。
サンジン様が表情を崩すのをサチは初めて見た。それが自分によってもたらせられたものなのを、少しだけ嬉しく思ってしまった。浅ましい自分が嫌になる。
「何故、山から出られた?」
その問いに、すぐに答えることができなかった。
ここで正直に話したら、清のことが知られてしまう。清との時間が無くなってしまうかもしれないという恐怖がサチを襲った。
しかし、サンジン様に嘘などを吐いた日にはもっとひどいことが待っている。清に何か悪いことが起きるくらいなら、自分が我慢する方を選ぶ。
「あの、私のことが視える人間と会いまして……その人と一緒に出たら、出られました」
「人間とな?」
サンジン様が首を九十度傾けて元に戻す。地響きのような、低く暗い声が続けた。
「そなたを視る人の子とは面白い。しかし」
山が震える。風が鳴く。サチはすぐにでも逃げ出したかった。
「もう、山を出てはならぬ。分かったな?」
「い…………はい」
俯き、サンジン様に誓う。神様のおかげでこうして生きていられる。拒否することなどできなかった。
「山では自由だ。好きに過ごしなさい」
サンジン様がまた神木の中に入ってすぐ、山の外が何やらざわざわ騒がしくなった。麓まで下りて確認してみる。
「町の人たち……」
中には、昨日見かけた上原もいた。彼らは何をしているのだろうか。そう思っていたら、黄色いテープが入口に沿って張られた。思わず彼らの前へ出る。
「止めてください!」
当然、サチの主張が聞こえることはなく、男たちは作業を続ける。
「どうしよう」
いけない、これでは清が入ってこられなくなってしまう。サチはこの世のものにも触れられる。テープを外してしまおうか。しかし、彼らの前でそんなことをしたら、サンジン様の祟りだと怯えるだろう。
「これくらいでいいか」
「入口はここだけだからな」
サチは作業が終わるのを待って、テープを剥がそうと一歩前へ出た。その足が途中で不自然に止まる。何か見えない壁があるように、足がぶつかるのだ。
サチはこれに覚えがあった。
清と出会う前、まだ山から出たことがなかった頃、山には結界があって、それ以上は自分の意思では出られなかった。
きっと、サンジン様が改めて結界を張ったのだ。すでに一度忠告を破った身、信用が無いのは仕方がない。我儘を言うなら、せめて出られなくなったことを清に知らせてからがよかった。
手を当ててみる。確かに、壁がある。サチには到底通り抜けることはできない。それこそ、清がいなければ。
きっと清がいれば、また出ることができる。あの自由を知ったサチに、今の山暮らしは窮屈過ぎた。
どうにか抜け道がないか、サチは麓のあたりをうろうろ彷徨った。そうしていると、道の向こうから清が歩いてきた。サチが走り出す。
「清! せーいッ!」
精いっぱい叫んでみるものの、規制テープによって清が山の方へ近づくことができず、声も聞こえないのか、彼がサチに気が付くことはなかった。
小さくなる背中に、がっくり肩を落とす。
彼は帰っていった。少なくとも、今日また戻ってくることはない。また明日、来なかったら明後日呼びかけよう。いつか、あの日のように気付いてくれる時が来る。
この百年、たった一人で生きてきた。しばらくその生活に戻るだけ。何も悲しむことはない。
祠に向かう途中でうさぎの住処に寄る。こんな日もうさぎたちは元気に駆け回っている。
サチが近づくと、一羽が寄ってきてくれた。そっと撫でる。うさぎは逃げなかった。サチは静かに涙を流した。
濡れる瞳を拭い、今度こそ祠に戻る。
洞穴に入ったところでちょうど雨が降ってきた。雨に濡れたところでどうということはないけれども、濡れないに越したことはない。
「清君」
呟く声が暗闇に落ちる。毎日訪れる夜がこんなに寂しいものだったなんて。
眠くならない体が憎い。いつまでも会えない友人のことを想ってしまう。
祭りが終わりしばらくして、サチはうさぎの見回りを終え、神木の周りを手作りの箒で掃除していた。
「一昨日は知らない人がお散歩してたな。もっと人が増えたら、ここも活気が出てサンジン様も喜ぶかも」
ここ最近掃除をしていなかったが、落葉にはまだ早いので、綺麗にする程汚れてもいなかった。
住処を綺麗に保てと言われたことはない。ただの罪滅ぼしだ。
祠に祈祷師が連れてこられたのは驚いたが、拝んでくれるだけならいつ来てくれても構わない。
そうしていると、後ろが急に寒くなった。それは一瞬だったが、サチには分かる。振り向き、神木へ恭しくお辞儀をした。
「サンジン様」
サチが神木の中から出てきた和服の大男に呟く。サンジン様がくるりと目をこちらに向け、口を開いた。
「探したぞ、サチ」
「はい……」
サチはサンジン様を不安気に見上げた。
サンジン様は初めて出会った時のように、サチを面倒そうに見つめ返した。
やはり怒っているのだろう。サチが思わず目を瞑る。
じり、足音がした。
サチの体が強張る。審判の声が降ってきた。
「そう怯えるな。我は怒ってなどいない」
それにサチが少しだけ目を開ける。サンジン様が顔を伸ばし、すぐ目の前でサチを覗いていた。
「わっ」
一歩後ずさると、サンジン様がさらに顔を近づけた。
「我が何を怒ると思うのだ。相変わらず人間はよく分からない」
表情を崩したことがないサンジン様の心うちは、百年一緒にいるサチにもまだ分からない。
言われずとももっと理解できていれば、サンジン様を煩わせることはないというのに。サチが目を伏せる。
「申し訳ありません。私が山を出てしまったので、それで怒っているのかと思っていました」
サチが告げると、サンジン様が右手の人差し指でサチの額を何度か突いた。
「それだそれだ。我は怒ってなどいない。ただ、そなたがおかしな真似をするから、無駄な運動をする羽目になった」
怒っていないという割には、眉間に僅かに皺が寄っている。
サンジン様が表情を崩すのをサチは初めて見た。それが自分によってもたらせられたものなのを、少しだけ嬉しく思ってしまった。浅ましい自分が嫌になる。
「何故、山から出られた?」
その問いに、すぐに答えることができなかった。
ここで正直に話したら、清のことが知られてしまう。清との時間が無くなってしまうかもしれないという恐怖がサチを襲った。
しかし、サンジン様に嘘などを吐いた日にはもっとひどいことが待っている。清に何か悪いことが起きるくらいなら、自分が我慢する方を選ぶ。
「あの、私のことが視える人間と会いまして……その人と一緒に出たら、出られました」
「人間とな?」
サンジン様が首を九十度傾けて元に戻す。地響きのような、低く暗い声が続けた。
「そなたを視る人の子とは面白い。しかし」
山が震える。風が鳴く。サチはすぐにでも逃げ出したかった。
「もう、山を出てはならぬ。分かったな?」
「い…………はい」
俯き、サンジン様に誓う。神様のおかげでこうして生きていられる。拒否することなどできなかった。
「山では自由だ。好きに過ごしなさい」
サンジン様がまた神木の中に入ってすぐ、山の外が何やらざわざわ騒がしくなった。麓まで下りて確認してみる。
「町の人たち……」
中には、昨日見かけた上原もいた。彼らは何をしているのだろうか。そう思っていたら、黄色いテープが入口に沿って張られた。思わず彼らの前へ出る。
「止めてください!」
当然、サチの主張が聞こえることはなく、男たちは作業を続ける。
「どうしよう」
いけない、これでは清が入ってこられなくなってしまう。サチはこの世のものにも触れられる。テープを外してしまおうか。しかし、彼らの前でそんなことをしたら、サンジン様の祟りだと怯えるだろう。
「これくらいでいいか」
「入口はここだけだからな」
サチは作業が終わるのを待って、テープを剥がそうと一歩前へ出た。その足が途中で不自然に止まる。何か見えない壁があるように、足がぶつかるのだ。
サチはこれに覚えがあった。
清と出会う前、まだ山から出たことがなかった頃、山には結界があって、それ以上は自分の意思では出られなかった。
きっと、サンジン様が改めて結界を張ったのだ。すでに一度忠告を破った身、信用が無いのは仕方がない。我儘を言うなら、せめて出られなくなったことを清に知らせてからがよかった。
手を当ててみる。確かに、壁がある。サチには到底通り抜けることはできない。それこそ、清がいなければ。
きっと清がいれば、また出ることができる。あの自由を知ったサチに、今の山暮らしは窮屈過ぎた。
どうにか抜け道がないか、サチは麓のあたりをうろうろ彷徨った。そうしていると、道の向こうから清が歩いてきた。サチが走り出す。
「清! せーいッ!」
精いっぱい叫んでみるものの、規制テープによって清が山の方へ近づくことができず、声も聞こえないのか、彼がサチに気が付くことはなかった。
小さくなる背中に、がっくり肩を落とす。
彼は帰っていった。少なくとも、今日また戻ってくることはない。また明日、来なかったら明後日呼びかけよう。いつか、あの日のように気付いてくれる時が来る。
この百年、たった一人で生きてきた。しばらくその生活に戻るだけ。何も悲しむことはない。
祠に向かう途中でうさぎの住処に寄る。こんな日もうさぎたちは元気に駆け回っている。
サチが近づくと、一羽が寄ってきてくれた。そっと撫でる。うさぎは逃げなかった。サチは静かに涙を流した。
濡れる瞳を拭い、今度こそ祠に戻る。
洞穴に入ったところでちょうど雨が降ってきた。雨に濡れたところでどうということはないけれども、濡れないに越したことはない。
「清君」
呟く声が暗闇に落ちる。毎日訪れる夜がこんなに寂しいものだったなんて。
眠くならない体が憎い。いつまでも会えない友人のことを想ってしまう。



